北白川宮永久王
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成久王妃 明治天皇の七女。 のち北白川房子 |
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明治四十三年(一九一〇)二月十九日、誕生。
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明治四十三年(一九一〇)二月二十六日、命名。
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大正六年(一九一七)四月九日、學習院初等科に入學。 | |||||||||
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大正十二年(一九二三)三月三十一日、學習院初等科を卒業。 | |||||||||
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大正十二年(一九二三)四月一日に於ける父 成久王の事故死により、北白川宮を繼承。十四歳。 | |||||||||
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大正十二年(一九二三)四月十二日、學習院中等科に入學。 | |||||||||
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大正十三年(一九二四)四月、學習院中等科を退校(四月四日付)。 | |||||||||
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大正十三年(一九二四)四月三日、陸軍幼年學校に入學。 | |||||||||
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昭和二年(一九二七)三月九日、陸軍幼年學校を卒業。 | |||||||||
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昭和二年(一九二七)四月一日、陸軍士官學校豫科に入學。 | |||||||||
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昭和四年(一九二九)三月十六日、陸軍士官學校豫科を卒業、士官候補生を命じられる。 | |||||||||
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昭和四年(一九二九)三月二十二日、近衞野砲兵聯隊に入隊。 | |||||||||
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昭和四年(一九二九)六月一日、陸軍砲兵伍長の階級に進む。 | |||||||||
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昭和四年(一九二九)八月一日、陸軍砲兵軍曹の階級に進む。 | |||||||||
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昭和四年(一九二九)十月一日、陸軍士官學校本科に入學(第四十三期)。 | |||||||||
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昭和五年(一九三〇)二月十八日、成年に達す。 | |||||||||
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昭和五年(一九三〇)二月十九日、成年式。 | |||||||||
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昭和三年(一九二八)十一月十日付で、昭和三年勅令第百八十八號の旨により大禮記念章を授與される。 | |||||||||
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昭和六年(一九三一)七月二十二日、陸軍士官學校本科を卒業。 | |||||||||
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昭和六年(一九三一)十月二十六日、陸軍砲兵少尉に任じられ、近衞野砲兵聯隊附に補され、勲一等に敍され、桐花大綬章を授けられる。
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昭和六年(一九三一)十二月二十四日に、昭和五年十二月五日付で帝都復興記念章を授與される。
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昭和七年(一九三二)十二月五日、陸軍砲工學校普通科に學生として入校。 | |||||||||
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昭和八年(一九三三)十一月二十五日、陸軍砲工學校普通科を卒業、更に一年間、高等科學生として修學。 | |||||||||
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昭和九年(一九三四)三月五日、陸軍砲兵中尉に任じられる。 | |||||||||
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昭和九年(一九三四)十一月二十六日、陸軍砲工學校高等科を卒業。 | |||||||||
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昭和十年(一九三五)三月二十六日、從三位勲四等男爵コ川義恕の二女 祥子との結婚が勅許される。
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昭和十年(一九三五)四月二十六日、コ川祥子と結婚。
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昭和十一年(一九三六)二月一日、陸軍野戰砲兵學校乙種學生を仰せ付けられる。 | |||||||||
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昭和十一年(一九三六)六月二十五日、陸軍野戰砲兵學校乙種學生を免じられる。 | |||||||||
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昭和十二年(一九三七)三月一日、陸軍砲兵大尉に任じられ、近衞野砲兵聯隊中隊長に補される。
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昭和十二年(一九三七)十一月十三日、陸軍大學校に入校。 | |||||||||
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昭和十二年(一九三七)十二月一日、近衞野砲兵聯隊附に補される。 | |||||||||
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昭和十四年(一九三九)十一月二十七日、陸軍大學校を卒業(第五十二期)。 | |||||||||
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昭和十五年(一九四〇)三月九日、駐蒙軍司令部附を仰せ付けられ、駐蒙軍參謀として勤務。 | |||||||||
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昭和十五年(一九四〇)九月四日、蒙疆の張家口に於いて、午前十時二十分頃、防空監視哨ヘ育を視察中、對地低空射撃演習中の飛行機に接觸して事故死。同日付で、陸軍砲兵少佐に任じられ、大勲位に敍され、菊花大綬章を授けられる。
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昭和十五年(一九四〇)九月五日午後一時に、九月四日午後七時十二分薨去と發表。
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昭和十五年(一九四〇)九月六日、遺體が立川まで航空機で運ばれ、立川から北白川宮邸に到着。
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昭和十五年(一九四〇)九月四日付で、支那事變における功により、功四級に敍され、金鵄勲章を授けられ、年金五百圓を賜わる。
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昭和十五年(一九四〇)九月十八日、葬儀。
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昭和十五年(一九四〇)八月十五日付で、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。 | |||||||||
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昭和十六年(一九四一)十月六日、張家口に鎭座した蒙疆~社の祭~として奉祀される。 | |||||||||
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昭和二十年(一九四五)八月二十四日、蒙疆~社の御靈代を梅田宮司が日本へ持ち歸る。御靈代は大宮の氷川~社に奉安され、昭和二十七年(一九五二)、靖國~社の元宮に奉遷。
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昭和三十四年(一九五九)十月四日、靖國~社に、臺灣~宮と臺南~社の祭~たる能久親王と、蒙疆~社の祭~たる永久王が合祀され、靖國~社の二~座の一座となる。 |
永久王の妃 もとコ川祥子 のち北白川祥子 コ川義恕の二女。 勲一等寶冠章 大正五年(一九一六)八月二十六日、誕生。 昭和九年(一九三四)、東京女子高等師範學校附屬高等女學校を卒業。 昭和十年(一九三五)四月二十六日、結婚。勲二等に敍され、寶冠章を授けられる。 昭和十五年(一九四〇)八月十五日付で、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。 昭和二十年(一九四五)五月十日、勲一等に敍され、寶冠章を授けられる。 ◎『官報』第五五〇九號 昭和二十年五月二十八日 敍任及辭令「昭和二十年五月十日」 昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十四条第一項の規定により皇族の身分を離れる。 ◎『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示「◎宮内府告示第十七号」 昭和二十八年(一九五三)、靖國~社奉贊會會長、靖國~社崇敬者總代となる。 湊川~社婦人會總裁 昭和四十年(一九六五 昭和四十四年(一九六九)五月、宮内廳女官長となる。拜命に際し、全ての役職を辭す。 平成元年(一九八九)一月、皇太后宮女官長に轉ず。 皇太后(香淳皇后)崩御後も、皇太后宮女官長を平成十三年(二〇〇一)六月まで務める。 平成二十七年(二〇一五)一月二十一日、急性肺炎で死去。九十八歳。 平成二十七年(二〇一五)一月三十一日、東京都品川區西五反田の桐ケ谷齋場で葬儀。 著作 北白川祥子 画・文『小閑』(福田啓助、荒井耀子 編集)(昭和63年(一九八八)10月)【畫文集】 北白川祥子『川の流れ』(北白川祥子、平成十年(一九九八)二月)【歌集】 |
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伯爵酒井忠克の三女、香枝子との間に婚約が整ったとの情報が流れた。
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木戸幸一から、「殿下の御將來には最も希望を有する」と、將來を囑望されていた。
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宣仁親王[高松宮]は、永久王について「若い皇族の中で一番シツカリしてゐらつしやると、自他ともに許してゐた方であつた」と評している。また、宣仁親王は、昭和十八年(一九四三)において、時局困難に際し、皇族中にョむに足るものが少なく、永久王が既に亡きことを嘆じている。
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近衞野砲兵聯隊の中隊長であった時、聯隊長の町尻量基に高く評價された。
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有馬ョ義は、人間としても永久王を尊敬していた、という。
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中島武編『改訂版 北白川宮永久王殿下』(東京市神田區小川町、清水書房。昭和十七年(一九四二)九月初版、昭和十七年十一月改訂版) |
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甲斐克彦『人物陸大物語 「天保銭組」から見た昭和史』(東京都千代田区九段北、光人社、昭和六十三年(一九八八)四月) 二三三〜二四四頁 |
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『平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三六頁 |
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『昭和新修 華族家系大成 上巻』 三〇頁 |
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「日本の名家『旧宮家はいま』3」北白川家(『週刊読売』一九八八年五月二十九日) 一三九〜一四〇頁、一四一〜一四二頁 |
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『故北白川宮永久王殿下奉齋ニ関スル考察(一七、六、二九)角倉書記官記』(昭和十七年(一九四二)六月二十九日)(宮内公文書館93519、93520) |
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『故北白川宮永久王奉齋ニ関スル件(神祇院ノ意見ト其ノ反對論ノ考察)昭和一七、九、六 岡本參事官』(昭和十七年(一九四二)九月六日)(宮内公文書館93518) |
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『しつくたま 北白川宮永久王追悼写真帖』 |
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『昭和十五年秋 北白川宮殿下を偲び奉る』(白水會) |
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『全國大學・高專生執筆 学生生活』九月十月特輯号「北白川宮永久王殿下奉悼」(日本學生協會) |
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赤坂恒明「張家口の蒙疆神社」(ボルジギン・ブレンサイン編著、赤坂恒明 編集協力『内モンゴルを知るための60章』 明石書店、2015年7月、227〜228頁) |
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