安宿王
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生年未詳。
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滝川政次郎は、安宿王の誕生を靈龜元年(七一五)前後と推測する。
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滝川政次郎「安宿王」、四三頁上
『続紀』天平九年九月己亥条には、无位安宿王に従五位下を授けられたことが見え、同年十月庚申条には、更に天皇南苑に御して従五位下安宿王に従四位下、无位黄文王に従五位下を特授せられたことが見えている。この時黄文王二十一歳とすれば、安宿王はそれより二、三歳年長の二十三、四歳であつたとしなければならない。故に安宿王は、長屋王横死の時には十四、五歳であつて、その誕生は霊亀元年前後と推測せられる。
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~龜六年(七二九)二月十二日、「長屋王の變」により父、長屋王が自盡した際、母が藤原朝臣不比等の女子であったため、特に不死を賜わる。
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『續日本紀』天平寶字七年【七六三】十月丙戌
參議礼部卿從三位藤原朝臣弟貞薨。弟貞者平城朝左大臣正二位長屋王子也。天平元年長屋王有罪自盡。其男從四位下膳夫王、无位桑田王、葛木王、鈎取王亦皆自經。時安宿王、黄文王、山背王并女ヘ勝復合從坐、以藤原太政大臣之女所生、特賜不死。・・・・・
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~龜六年(七二九)二月十八日、勅により赦除される。
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『續日本紀』天平元年二月己卯
遣左大辨正四位上石川朝臣石足等、就長屋王弟從四位上鈴鹿王宅、宣勅曰。長屋王昆弟姉妹子孫及妾等合縁坐者、不問男女、咸皆赦除。
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~龜六年(七二九)二月二十六日、給祿の例に預かる。
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天平九年(七三七)九月二十八日、無位より從五位下に敍される。
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『續日本紀』天平九年九月己亥
[以]无位倉橋王、明石王、宇治王、神前王、久勢王、河内王、尾張王、古市王、大井王、安宿王並[授]從五位下。
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天平九年(七三七)十月二十日、從五位下より從四位下に敍される。
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『續日本紀』天平九年十月庚申
天皇【聖武天皇】御南苑。授從五位下安宿王從四位下。
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一説に、父 長屋王への鎭魂のためとされる。
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天平十年(七三八)閏七月七日、玄蕃頭に任じられる。
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天平十二年(七四〇)十一月二十一日、從四位下より從四位上に敍される。
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『續日本紀』天平十二年十一月甲辰
[授]從四位下石川王、長田王、守部王、道祖王、安宿王、黄文王並從四位上。
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天平十八年(七四六)四月十一日、治部卿に任じられる。
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天平勝寳元年(七四九)八月十日、中務大輔に任じられる。
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天平勝寳三年(七五一)正月二十五日、正四位下に敍される。
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『續日本紀』天平勝寶三年正月己酉
[授]從四位上安宿祢【ママ】王【イ安宿王】正四位下。
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天平勝寳四年(七五二)正月十四日、攝津國東生郡と西生郡美努郷の家地、三町六段二百四十九歩を錢一百貫文で東大寺に賣却。
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『大日本古文書』巻三所收『正倉院文書』、天平勝寳四年正月十四日付安宿王家牒
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『大日本古文書』巻四所收『正倉院文書』、天平寳字四年十一月七日付東大寺三綱牒
東大寺三綱牒 攝津職
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以前地、在西生郡美努郷、本數三町六段二百〓【四十】九歩、主安宿王以去天平勝寳四年正月十四日、充價錢一百貫文、賣納東大寺已訖。未立券文、三綱商量、便宜轉賣新藥師寺已訖。請職察趣、依式立券文、仍具事状、以牒。
天平寳字四年十一月七日
・・・・・
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『大日本古文書』巻四所收『正倉院文書』、天平寳字四年十一月十八日付東大寺三綱牒
東大寺三綱牒 攝津職
家壱區地參町陸段弐伯肆拾玖歩
(東生郡三町三段。今檢益百十五歩。西成郡地三段二百〓【四十】九歩)・・・・・
・・・・・
價錢壱伯貫文
牒。件家、以去天平勝寳四年正月十四日、從安宿王家買得已訖。仍具事状、立券如件。今以状牒、々至准状、以牒。
天平寳字四年十一月七日 ・・・・・
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これについて、滝川政次郎は、
安宿王が獲た難波の堀江に臨む土地は、船着き場として最適の土地で、交通の要衝にあり、その土地の一部は後に銭七百貫という高値で香山薬師寺から政府に買上げられている。これらの事実によつて察するに、安宿王という人は、理財の才に長け、富裕な生活を営んでいたものと思われる。
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と述べている。
◎ 滝川政次郎「安宿王」、四五頁上下
また、滝川政次郎は、
この売却せられた土地は、券面に記載されている四至によつて、現在の大阪市東区天満橋南詰の天満川に面した土地であることが確認せられるのであつて、この三通の文書は、上代難波の地理史料として極めて重要な文書である、そのことは、嘗つて私が西田直二郎博士の『記念論文集』の中で論述した ・・・・・
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とも述べている。
◎ 滝川政次郎「安宿王」、四六頁下
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なお、『日本古代人名辭典』第一巻「安宿王」二頁上には、
同【宝字】四・正攝津国東生、西生両郡にあった家地三町六段余が東大寺に沽却され、王の悲運を思わせる ・・・・・
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とある。
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天平勝寳五年(七五三)四月二十二日、播磨守に任じられる。
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『續日本紀』天平勝寶五年四月癸巳
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これについて、滝川政次郎は。
・・・・・ 中務大輔は故の如しであつたと思う。この播磨守は遙授であつて、公廨稲の分配にあずかるだけのものであつたに相違ない。
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と述べている。
◎ 滝川政次郎「安宿王」、四五頁上
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天平勝寳六年(七五四)正月七日、孝謙天皇、太上天皇(聖武天皇)、皇太后(光明皇后)の、「東の常宮の南の大殿」における肆宴に列席し、應詔歌を奉る。
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『萬葉集』第二十卷 第四三〇一歌
七日、天皇・太上天皇・皇太后於東常宮南大殿、肆宴歌一首。
【七日、天皇、太上天皇、皇太后、東の常宮の南大殿に在して肆宴したまふ歌一首】
伊奈美野乃安可良我之波波等伎波安禮騰伎美乎安我毛布登伎波佐禰奈之
【稻見野(印南野)のあから柏は時はあれど君を吾が思ふ時は實無し】
右一首、播磨守安宿王奏。古今未詳。
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天平勝寳六年(七五四)二月、鑑眞の入京の際、鑑眞一行を迎える勅使となる。
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『唐大和上東征傳』
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『東大寺要録』四所引『鑑眞大和尚傳』
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『上宮太子拾遺』七所引『戒律傳來記』
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これに關聯して、滝川政次郎は、
天武天皇と藤原鎌足の血を等分に享けた安宿王は、当代の貴首中の貴種であつて、今を時めく左大臣の佐保の第に人となつたこの王子の風貌には、気品の高いものが備つていたと思う。『唐大和上東征伝』によれば、天平勝宝六年二月、唐僧鑒眞が入京したときには、安宿王は、勅を奉じて鑒眞の一行を平城京羅生門外に迎慰拝労した。安宿王が数ある諸王の中から選ばれてこの任に当つたのは、王の容儀佩帯が特に立派であつたからであろう。
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と述べている。
◎ 滝川政次郎「安宿王」、四二頁上
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天平勝寳六年(七五四)七月二十日、太皇太后(藤原朝臣宮子)の葬送にて御装束司を勤仕。
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『續日本紀』天平勝寶六年七月癸丑
以正一位橘朝臣諸兄、從三位文室眞人珍努、紀朝臣麻路、從【正】四位下安宿王、從五位下厚見王 ・・・・・ 爲御装束司。
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天平勝寳六年(七五四)八月四日、誄人を率いて故太皇太后に誄を奉る。
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天平勝寳六年(七五四)九月四日、内匠頭を兼任する。
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天平勝寶七歳(七五五)八月十三日、「内の南の安殿」における肆宴に列席し、應詔歌を奉る。時に内匠頭兼播磨守正四位下。
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『萬葉集』第二十卷 第四四五二歌
八月十三日、在内南安殿、肆宴歌二首。
乎等賣良我多麻毛須蘇婢久許能爾波爾安伎可是不吉氐波奈波知里都々
【少女等が玉裳裾引く此の庭に秋風吹きて花は散りつつ】
右一首、内匠頭兼播磨守正四位下安宿王奏之。
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天平勝寳八歳(七五六)五月三日、太上天皇(聖武天皇)の葬儀に於いて御装束司を勤仕。
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『續日本紀』天平勝寶八歳五月丙辰
以從二位藤原朝臣豊成、從三位文室眞人珍努、藤原朝臣永手、正四位下安宿王、從四位上黄文王、正四位下橘朝臣奈良麻呂、從四位下多治比眞人國人、從五位下石川朝臣豊成、爲御装束司。
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天平勝寳八歳(七五六)十一月八日、朝集使として上京した出雲掾安宿公奈杼麻呂の家での宴に列席。時に讚岐守(遙任)。また、この時、出雲守山背王が安宿奈杼麻呂に託して安宿王に贈った歌が披露された。
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『萬葉集』第二十卷 第四四七二〜四四七四歌
八日、讚岐守安宿王等、集於出雲掾安宿奈杼麻呂之家宴歌二首
於保吉美乃美許等加之古美於保乃宇良乎曾我比爾美都々美也古敝能保流
右、掾安宿奈杼麻呂。
宇知比左須美也古乃比等爾都氣麻久波美乃比乃其等久安里等都氣己曾
右一首、守山背王歌也。主人安宿奈杼麻呂語云。「奈杼麻呂被差朝集使擬入京師。因此餞之日、各作此歌。聊陳所心也」。
武良等里乃安佐太知伊爾之伎美我宇倍波左夜加爾伎吉都於毛比之其等久(一云、於毛比之母乃乎)
右一首、兵部少輔大伴宿禰家持、後日追和出雲守山背王歌作之。
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『稿本天武天皇實録』「皇曾孫安宿王」三五〇頁には、
十一月八日、出雲守山背王等ト共ニ出雲掾安宿奈杼麿ノ家ニ宴ヲ行フ、
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とあり、山背王も宴に列席したと解釋している。
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なお、『日本古代人名辭典』第一巻「安宿王」二頁上には、
同【勝宝】八・十一出雲国に赴き、同国掾宅に集って宴をひらいた時「讃岐守安宿王等出雲掾安宿奈杼麻呂の家に集ひて宴せる歌二首」を残している。時に王の弟山背王が出雲守であって同席し、主人奈杼麻呂は朝集使として上京する際であった
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とあり、安宿王が出雲國に下向したと解釋している。
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天平勝寳八歳(七五六)十二月三十日、講梵網經の山階寺使を勤仕。時に讚岐守正四位下。
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『續日本紀』天平勝寶八歳十二月己酉
勅遣皇太子及右大辨從四位廨巨勢朝臣堺麻呂於東大寺。・・・・・ 讚岐守正四位下安宿王、左大辨正四位下大伴宿禰古麻呂於山階寺、講梵網經。・・・・・
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これについて、滝川政次郎は、
受領の讃岐守が、聖武太上天皇の葬儀の御装束司になつたり、その追善供養の講経の奉行となることは有り得ないから、この讃岐守も遙任である。
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と述べている。
◎ 滝川政次郎「安宿王」、四五頁上
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天平勝寳九歳(七五七)六月二十九日、黄昏時、黄文王に誘われ、橘奈良麻呂らの謀議の場に到る。
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天平勝寳九歳(七五七)七月二日、中衞舍人の上道臣斐太都が、橘朝臣奈良麻呂らの陰謀を内相藤原朝臣仲麻呂に密告。その中に安宿王の名もあり。
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『續日本紀』天平寶字元年七月戊申
是日夕、中衛舍人從八位上上道臣斐太都告内相云。「今日未時、備前國前守小野東人喚斐太都謂云。『有王臣謀殺皇子及内相。汝能從乎』。斐太都問云。『王臣者爲誰等耶』。東人答云。『黄文王、安宿王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂等。徒衆甚多』。・・・・・」
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天平勝寳九歳(七五七)七月三日、藤原仲麻呂に召喚されたが、皇太后(光明皇后)の詔により、放免される。
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『續日本紀』天平寶字元年七月己酉
・・・・・ 即日夕、内相仲麻呂侍御在所、召鹽燒王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂五人。傳太后詔、宣曰。「鹽燒等五人乎人告謀反。汝等、爲吾近人、一毛吾乎可怨事者不所念。汝等乎皇朝者己己太久高治賜乎何乎怨志岐所止志氐加然將爲不有加止奈母所念。是以、汝等罪者免賜。今徃前然莫爲止宣」。詔訖、五人退出南門外、稽首謝恩。
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天平勝寳九歳(七五七)七月四日、小野東人の白状により再び召喚され、訊問を受け、事情を知らずに欺かれて謀議の場に加わったと答えた。
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『續日本紀』天平寶字元年七月庚戌
・・・・・ 於是、追被告人等隨來、悉禁着、各置別處、一一勘問。始問安宿。欵云。「去六月廿九日黄昏、黄文來云。奈良麻呂欲得語言云尓。安宿即從往、至太政官院内。先有廿許人。一人迎來礼揖。近着看顔、是奈良麻呂也。又有素服者一人。熟看此小野東人也。登時衆人共云。『時既應過。宜須立拜』。安宿問云。未知何拜。答云。『拜天地而巳』云尓。安宿雖不知情、隨人立拜。被欺徃耳」。・・・・・
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安宿
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妻子とともに佐渡へ配流される。その際、族籍と官位は剥奪されたと考えられる。
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『續日本紀』天平寶字元年七月庚戌
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『續日本紀』天平寶字七年【七六三】十月丙戌
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これについて、滝川政次郎は、
安宿王は、取調べの結果、謀反の罪は免れたようであるが、謀反の事を知つて告言せざる罪に坐し、死一等を減ぜられて遠流に処せられたものと推定せられる。
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と述べている。
◎ 滝川政次郎「安宿王」、四八頁上
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天平勝寳九歳/天平寳字元年(七五七)八月十八日、勅に逆賊として名を擧げられている。
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『續日本紀』天平寶字元年八月甲午
勅曰。・・・・・ 於是、去三月廿日、皇天賜我以天下太平四字、區宇之安寧、示歴數之永固。尓乃賊臣廢皇[太]子道祖、及安宿、黄文、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、大伴古慈斐、多治比國人、鴨角足、多治比犢養、佐伯全成、小野東人、大伴駿河麻呂、荅本忠節等、禀性兇頑、昬心轉虐、不顧君臣之道、不畏幽顯之資、潜結逆徒、謀傾宗社。悉受天責、咸伏罪嘖。・・・・・
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安宿王
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神護景雲四年(七七〇)七月二十三日、罪を免じられ屬籍を復される。しかし、入京は許されず。
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『續日本紀』寶龜元年七月癸未
太政官奏。「奉去六月一日 勅、『前後逆黨縁坐人等、所司量其輕重、奏聞』者。臣曹司且勘、天平勝寳九歳逆黨橘奈良麻呂等并縁坐惣四百卌【四十】三人、數内二百六十二人、罪輕應免。且注名簿、伏聽 天裁」。奉 勅、依奏。但名簿【籍】雖編本貫、正身不得入京。
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*高階眞人安宿
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寶龜四年(七七三)十月六日、高階眞人を賜姓される。
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『續日本紀』寶龜四年十月戊申
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『稿本天武天皇實録』「皇曾孫安宿王」三五三頁〔按〕に、
吹上本帝王系圖、本朝皇胤紹運録、一代要記等ニ寶龜三年賜姓トアルモ採ラズ、
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とある。
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