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安政七年(一八六〇)二月二十四日酉刻、誕生。
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『伏見宮日記』安政七年二月廿四日
一、五十君樣暮六ッ時御安産、姫宮御誕生被爲在。御二方様共御機嫌能被爲在候也。
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安政七年(一八六〇)三月一日、幼稱を「理宮(あやのみや)」と定められる。
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『伏見宮日記』安政七年三月朔日乙丑
一、今日依吉辰姫宮御方御七夜御祝儀被為催候也。
一、御祝儀爲御取替、且被下物等左之通。
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御名字兼日修理大夫江勘進被仰付。
御名字之事
理(安哉)
修理大夫菅原量長
引文之事
理(安哉 阿屋)
禮記曰。婦順備而后内和理内和。
理而后家可長久也。
修理大夫菅原量長
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文久元年(一八六一)六月二十七日、死亡。表向き容態重篤として相國寺大通院に移される。
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『伏見宮日記』文久元年六月廿七日
一、理宮御方此間中御暏【暑】邪御感被爲在候而御勝不被遊候處、至今曉甚御六ヶ敷御容躰、醫師共種々御藥調進療養奉申上候得共、兎角御勝不被爲在、依之西尾土佐守江御使(青侍)を以、右之御容躰ニ付拜診之義被仰遣処、折節他行中、歸宅次第直樣參殿可仕旨奉申上候処、未參上無之内、御内々御大切之御容躰ニ被爲移候也。
一、今夜子剋後御出門ニ而理宮御方爲御養生相國寺中大通院ヘ被爲成候也。
一、執匕矢野修吉より理宮樣御容躰書、左之通差出し候也。
小奉書四ツ折
御容體書
理宮樣御天稟御薄弱御解顱之症被爲在、專其御手當之藥劑差上、當春以來御快方ニ被爲在候處、五月下旬時邪御感冒、御發熱御喘咳ニ付解肌湯加杏仁桑白皮御兼用雜腹藥調進、一段御輕快ニ被爲在候得共、御再感御順快ニ難被爲趣、去廿四日更暑邪御閉塞御熱渇強、御吐逆御上竄御驚搐御昏睡之状奉伺候故、龍胆湯御兼用、偏風方調進仕候。右之御容體ニ而者何時御急變之程難斗、一同奉恐入候。以上。
六月廿七日
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『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「伏見宮」
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十八日の死去とするのは誤り。
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文久元年(一八六一)六月二十八日酉刻「薨逝」。二歳。戌刻、入棺。法號「法界性院」。
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『伏見宮日記』文久元年六月廿八日
一、今夜戌剋理宮御方御入棺。・・・・・ 奉納御棺。上書左之通。
安政七庚申年二月二十四日誕
理宮之柩
文久辛酉年六月廿八日 薨
一、理宮御方薨去御發覺今酉刻。
一、心華院役者相招、御用人出會、左之通申達ス。
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一、心華院役者參殿(右京大進)、出會之所、御院号相伺且御法事御日取も相伺候也。
法界性院
施食云。
應レ観二法界性一、一切唯心造。
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文久元年(一八六一)七月三日酉刻、葬送。相國寺内の伏見宮墓地に葬られる。
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『伏見宮日記』文久元年七月三日
一、今酉剋法界性院理宮(二才)御葬送也。御本所大通院堂前江御棺居之。讀經引導(心華院獨園)C衆九員。次御燒香縫殿頭。次御守刀導師江給之。・・・・・
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