方子女王 / 李方子
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守正王妃 |
李王。韓國皇帝高宗(李熈。コ壽宮李太王)の七男。 光武元年(一八九七/明治三十年)十月二十日生。 ※ 大韓帝國の成立は、同年十月十二日。 光武四年(一九〇〇/明治三十三年)八月十七日、英親王となる。 光武十一年(一九〇七/明治四十年)三月十一日、元服(冠禮の儀)。 ※ 光武十一年七月十九日、韓國皇帝高宗、讓位の詔書を發布す。 ※ 光武十一年七月二十日、韓國皇帝純宗、受禪。 ※ 光武十一年八月三日、隆煕と改元。高宗を太皇帝と尊稱、宮號をコ壽宮と稱す。 隆煕元年(一九〇七/明治四十年)八月七日、韓國皇太子に册立。 ※ 隆煕元年八月二十七日、純宗、韓國皇帝に即位。 隆煕元年(一九〇七/明治四十年)十二月五日、伊藤博文に伴われ、日本「留學」のため、京城を出發。十二月十五日、東京に到着。 隆煕四年/明治四十三年(一九一〇)八月二十九日、「韓國併合條約」が公布施行される(官報。調印は二十二日)。同日、皇太子から王世子となり、日本語の訓みは「りこん」と定められる。
大正十五年(一九二六)四月二十六日、昌コ宮李王坧(もと韓國皇帝純宗)の跡を繼承して昌コ宮李王を承襲。 昭和七年(一九三二)三月四日、日本語の訓みが「りぎん」に改められる。
昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本國憲法の施行により王族の身位を失う。 昭和二十七年(一九五二)四月二十八日、サンフランシスコ平和條約の發効に伴い、日本国籍を喪失する。 昭和三十二年(一九五七)五月十八日、李玖のMIT卒業式(六月七日)に出席するため渡米。 昭和三十五年(一九六〇)六月、再度の渡米に際し、日本國外務省から旅券を取得するため、日本國籍を取得。 朴正熈政權成立後、大韓民國國籍を取得。 一九六三(昭和三十八年)十一月二十二日、腦血栓で殆ど意識不明の状態で大韓民國に渡る。 一九七〇(昭和四十五年)五月一日歿。 一九七〇(昭和四十五年)五月七日、大韓皇太子として國葬。 懿愍皇太子と諡される。 |
李垠の一男。 大正十年(一九二一)八月十八日生。 大正十一年(一九二二)五月十一日薨。 |
李垠の二男。もと王世子。 昭和六年(一九三一)十二月二十九日生。「王公家軌範」(大正十五年(一九二六)十一月三十日公布)により、生誕と同時に王世子となる。 一九五〇年(昭和二十五年)八月三日、アメリカ合衆國留學のため横濱より出港する。(伏見博明と共に) 一九五七年(昭和三十二年)六月七日、MIT建築學科を卒業する。 一九五八年(昭和三十三年)十月二十五日、ニュー=ヨークにおいて、ドイツ系アメリカ人ジュリア・ミューロックと結婚。 一九六一年(昭和三十六年)十一月、アメリカ合衆國永住權を取得する。 一九八二年(昭和五十七年)、ジュリアと離婚。 全州李氏の大同種藥院名譽總裁。 二〇〇五年(平成十七年)七月十六日、長崎のホテルにおいて急死。七十四歳。 二〇〇五年(平成十七年)七月二十四日、葬儀。 |
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方子の結婚は、日韓融和のための政略結婚であるとされ、表向きは大正天皇の御沙汰というが、實際には、梨本宮家から「極内々にて」李王家に申し入れた結婚であった。
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大正八年(一九一七)一月二十五日、李垠[王世子]と婚禮の予定であったが、コ壽宮李太王(高宗)の崩御(二十二日)による服喪のため、婚儀は一年延期となる。 | ||
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身體障害者のための生活訓練施設「明暉園」や、知的障害兒の養護學校「慈惠學校」を開設。大韓民國政府の援助を受けながらも私財を投じて、福祉活動に奔走した。 |
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李方子『動乱の中の王妃』(講談社。一九六八年) |
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李方子『すぎた歳月』(ソウル、社会福祉法人 明暉園。一九七三年)【『動乱の中の王妃』の改題・再版】 |
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李方子『流れのままに』(啓佑社、一九八四年)【『すぎた歳月』の改題・増補再版】 ※ 以上三書の編著者(ゴーストライター)は、フリーライターの中島もみ子。 |
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李方子『最後の朝鮮王妃自伝 歳月よ王朝よ』(三省堂、一九八七年八月) ※ 大韓民國の『京郷新聞』に一九八四年に連載された姜容子による記事の翻譯。 |
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小田部雄次『李方子 一韓国人として悔いなく』(ミネルヴァ日本評伝選)(京都、ミネルヴァ書房、二〇〇七年九月) |
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本田節子『朝鮮王朝最後の皇太子妃』(文藝春秋、一九八八年七月) ※ 一九九一年、文春文庫。 |
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渡辺みどり『日韓皇室秘話 李方子妃』(讀賣新聞社。一九九八年十月) |
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『平成新修 旧華族家系大成 上巻』、五〇頁 |
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『原敬日記』第三巻・第四巻・第八巻・第九巻(乾元社、昭和二十五年(一九五〇)〜昭和二十六年(一九五一)) |
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小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記』(小学館、一九九一年十一月第一版) |
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梨本伊都子『三代の天皇と私』(講談社出版研究所編集。講談社、昭和五十年(一九七五)十一月第一刷) |
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島善高「大正七年の皇室典範増補と王公家軌範の制定」(『早稲田人文自然科学研究』第四九号、一九九六年三月、一〜四九頁) |
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金英達「朝鮮王公族の法的地位について」(『青丘学術論集』第十四集(財団法人韓国文化研究振興財団。一九九九年三月)、一一五〜一五三頁) |
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李王垠伝記刊行会『英親王李垠伝 李王朝最後の皇太子』(岡崎清編集。東京、共栄書房。一九七八年八月。一九八八年七月新版) |
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新城道彦『朝鮮王公族』(中公新書)(中央公論新社、二〇一五年三月) |
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佐野眞一『枢密院議長の日記』(講談社現代新書1911)(講談社、二〇〇七年十月)、一一五〜一六六頁 |
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河原敏明『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社、昭和五十年(一九七五)四月)、二三七〜二四八頁 |
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佐藤朝泰「梨本家==日韓の「歴史の悲劇」を一身に背負った元帥宮家」(佐藤朝泰『門閥――旧華族階層の復権』(立風書房、一九八七年四月)第二章、四四〜四七頁) |
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「日本の名家『旧宮家はいま』1」梨本家(『週刊読売』一九八八年五月八・十五日、一八四〜一八七頁) |
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