方子女王 / 李方子


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[方子A]

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方子女王 まさこ
 
 李王垠の妃。
 
 のち李方子 이방자
 
【出自】
 
守正王[梨本宮]の一女。
 
【生母】
 伊都子
 守正王妃
 
【經歴】
明治三十四年(一九〇一)十一月四日生。
方子女王
明治三十四年(一九〇一)十一月十日命名。
大正七年(一九一八)十一月一日、『皇室典範増補』「皇族女子ハ王族又ハ公族ニ嫁スルコトヲ得」が樞密院で議決され、十一月二十八日、成立。
大正七年(一九一八)十二月八日、李垠[王世子]と婚約(納采)。
大正八年(一九一九)一月九日、勲二等寶冠章を賜わる。
方子[李王世子妃](方子女王)
大正九年(一九二〇)四月二十八日、李垠[王世子]と婚姻
『法令全書』大正九年四月 告示 「宮内省告示第十一號(官報 四月二十九日)」
本日方子女王殿下王世子李垠殿下ニ嫁セラル
  大正九年四月二十八日
          宮内大臣 子爵波多野敬直
方子[李王妃](方子女王)
大正十五年(一九二六)四月二十六日、李垠が李王となったのに伴い、李王妃となる。
李方子
昭和二十二年(一九四七)五月二日、女王の稱號を辭退する請願が聽許される。同日、皇室令第十二號により、「皇室令及附屬法令ハ昭和二十二年五月二日限リ之ヲ廢止ス」とされ、「王公家軌範」も廢止される。
『宮内廳記録』
昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本國憲法の施行により王族の身位を失う。
『宮内廳記録』
昭和二十二年(一九四七)十月十八日、朝鮮戸籍に就籍。朝鮮戸籍在籍者として日本國籍を保有しつつも「みなし外國人」として外國人登録令の適用を受け、「朝鮮人」として外國人登録をする。
一九五二(昭和二十七年)四月二十八日、サンフランシスコ平和條約の發効に伴い、法務府民事局長通達四三八號「平和條約の發効に伴う朝鮮人、臺灣人等の國籍及び戸籍事務の處理について」により、日本国籍を喪失する。大韓民國(一九四八年八月十五日建國)の韓國國籍法では、日本に居住する「朝鮮人」も韓國國民とされていたが、李承晩政權から受入れを拒否されていたため、事實上の無國籍状態となる。
一九五七年(昭和三十二年)五月十八日、李玖のマサチューセッツ工科大学(MIT)卒業式(六月七日)に出席するため渡米。
昭和三十五年(一九六〇)六月、再度の渡米に際し、日本國外務省から旅券を取得するため、日本國籍を取得。
朴正熈政權の成立後、一九六二年(昭和三十七年)十一月二十一日公布施行の法律第一一八〇號により韓國國籍法が一部改正され、その適用を受けて大韓民國國籍を取得。日本國籍法第十一條の規定により、日本国籍を喪失。
一九六三年(昭和三十八年)十一月二十二日、腦血栓で殆ど意識不明の状態であった夫 李垠と共に、大韓民國に渡る。
『入江相政日記』昭和三十八年十一月二十一日(木)
『入江相政日記』昭和三十八年十一月二十二日(金)
一九八九年(平成元年)四月三十日、ソウル昌コ宮内の樂善斎の居宅にて死去。八十七歳。
 
【配偶】
 李垠 り ぎん
 李王。韓國皇帝高宗(李熈。コ壽宮李太王)の七男。
 光武元年(一八九七/明治三十年)十月二十日生。
 ※ 大韓帝國の成立は、同年十月十二日。
 光武四年(一九〇〇/明治三十三年)八月十七日、英親王となる。
 光武十一年(一九〇七/明治四十年)三月十一日、元服(冠禮の儀)。
 ※ 光武十一年七月十九日、韓國皇帝高宗、讓位の詔書を發布す。
 ※ 光武十一年七月二十日、韓國皇帝純宗、受禪。
 ※ 光武十一年八月三日、隆煕と改元。高宗を太皇帝と尊稱、宮號をコ壽宮と稱す。
 隆煕元年(一九〇七/明治四十年)八月七日、韓國皇太子に册立。
 ※ 隆煕元年八月二十七日、純宗、韓國皇帝に即位。
 隆煕元年(一九〇七/明治四十年)十二月五日、伊藤博文に伴われ、日本「留學」のため、京城を出發。十二月十五日、東京に到着。
 隆煕四年/明治四十三年(一九一〇)八月二十九日、「韓國併合條約」が公布施行される(官報。調印は二十二日)。同日、皇太子から王世子となり、日本語の訓みは「りこん」と定められる。
『官報(號外)』明治四十三年八月二十九日詔書
『官報』明治四十三年八月二十九日宮廷録事「王族及公族稱呼」
王族及公族ノ稱呼左ノ通御治定相成リタリ
 昌コ宮シヤウトクキウ 李王リワウ殿下
 コ壽宮トクジユキウ 李太王リタイワウ殿下
 王世子ワウセイシ 李垠リコン殿下
 李堈公リカウコウ殿下
 李熹公リキコウ殿下
 ※ 同日、韓國の國號を改めて朝鮮と稱し、朝鮮總督府が設置される。
 大正十五年(一九二六)四月二十六日、昌コ宮李王坧(もと韓國皇帝純宗)の跡を繼承して昌コ宮李王を承襲。
 昭和七年(一九三二)三月四日、日本語の訓みが「りぎん」に改められる。
『官報』昭和七年三月五日宮廷録事「王族稱呼」
昌コ宮李王垠殿下ノ名垠ノ讀方爾今「ギン」ト改メラルヽコトニ一昨四日勅許相成タリ
 陸軍中將。
 昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本國憲法の施行により王族の身位を失う。
 昭和二十七年(一九五二)四月二十八日、サンフランシスコ平和條約の發効に伴い、日本国籍を喪失する。
 昭和三十二年(一九五七)五月十八日、李玖のMIT卒業式(六月七日)に出席するため渡米。
 昭和三十五年(一九六〇)六月、再度の渡米に際し、日本國外務省から旅券を取得するため、日本國籍を取得。
 朴正熈政權成立後、大韓民國國籍を取得。
 一九六三(昭和三十八年)十一月二十二日、腦血栓で殆ど意識不明の状態で大韓民國に渡る。
 一九七〇(昭和四十五年)五月一日歿。
 一九七〇(昭和四十五年)五月七日、大韓皇太子として國葬。
 懿愍皇太子と諡される。
 
【子女】
 李晋 り しん
 李垠の一男。
 大正十年(一九二一)八月十八日生。
 大正十一年(一九二二)五月十一日薨。
 李玖 り きう(きゅう)
 李垠の二男。もと王世子。
 昭和六年(一九三一)十二月二十九日生。「王公家軌範」(大正十五年(一九二六)十一月三十日公布)により、生誕と同時に王世子となる。
 一九五〇年(昭和二十五年)八月三日、アメリカ合衆國留學のため横濱より出港する。(伏見博明と共に)
 一九五七年(昭和三十二年)六月七日、MIT建築學科を卒業する。
 一九五八年(昭和三十三年)十月二十五日、ニュー=ヨークにおいて、ドイツ系アメリカ人ジュリア・ミューロックと結婚。
 一九六一年(昭和三十六年)十一月、アメリカ合衆國永住權を取得する。
 一九八二年(昭和五十七年)、ジュリアと離婚。
 全州李氏の大同種藥院名譽總裁。
 二〇〇五年(平成十七年)七月十六日、長崎のホテルにおいて急死。七十四歳。
 二〇〇五年(平成十七年)七月二十四日、葬儀。
 
【逸事等】
方子の結婚は、日韓融和のための政略結婚であるとされ、表向きは大正天皇の御沙汰というが、實際には、梨本宮家から「極内々にて」李王家に申し入れた結婚であった。
小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記』(小学館、一九九一年十一月第一版)一三二〜一三三頁。
大正八年(一九一七)一月二十五日、李垠[王世子]と婚禮の予定であったが、コ壽宮李太王(高宗)の崩御(二十二日)による服喪のため、婚儀は一年延期となる。
身體障害者のための生活訓練施設「明暉園」や、知的障害兒の養護學校「慈惠學校」を開設。大韓民國政府の援助を受けながらも私財を投じて、福祉活動に奔走した。
 
【著述等】
李方子『動乱の中の王妃』(講談社。一九六八年)
李方子『すぎた歳月』(ソウル、社会福祉法人 明暉園。一九七三年)【『動乱の中の王妃』の改題・再版】
李方子『流れのままに』(啓佑社、一九八四年)【『すぎた歳月』の改題・増補再版】
 ※ 以上三書の編著者(ゴーストライター)は、フリーライターの中島もみ子。
李方子『最後の朝鮮王妃自伝 歳月よ王朝よ』(三省堂、一九八七年八月)
 ※ 大韓民國の『京郷新聞』に一九八四年に連載された姜容子による記事の翻譯。
 
【文獻等】
小田部雄次『李方子 一韓国人として悔いなく』(ミネルヴァ日本評伝選)(京都、ミネルヴァ書房、二〇〇七年九月)
本田節子『朝鮮王朝最後の皇太子妃』(文藝春秋、一九八八年七月)
 ※ 一九九一年、文春文庫。
渡辺みどり『日韓皇室秘話 李方子妃』(讀賣新聞社。一九九八年十月)
平成新修 旧華族家系大成 上巻』、五〇頁
『原敬日記』第三巻・第四巻・第八巻・第九巻(乾元社、昭和二十五年(一九五〇)〜昭和二十六年(一九五一))
小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記』(小学館、一九九一年十一月第一版)
梨本伊都子『三代の天皇と私』(講談社出版研究所編集。講談社、昭和五十年(一九七五)十一月第一刷)
島善高「大正七年の皇室典範増補と王公家軌範の制定」(『早稲田人文自然科学研究』第四九号、一九九六年三月、一〜四九頁)
金英達「朝鮮王公族の法的地位について」(『青丘学術論集』第十四集(財団法人韓国文化研究振興財団。一九九九年三月)、一一五〜一五三頁)
李王垠伝記刊行会『英親王李垠伝 李王朝最後の皇太子』(岡崎清編集。東京、共栄書房。一九七八年八月。一九八八年七月新版)
新城道彦『朝鮮王公族』(中公新書)(中央公論新社、二〇一五年三月)
佐野眞一『枢密院議長の日記』(講談社現代新書1911)(講談社、二〇〇七年十月)、一一五〜一六六頁
河原敏明『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社、昭和五十年(一九七五)四月)、二三七〜二四八頁
佐藤朝泰「梨本家==日韓の「歴史の悲劇」を一身に背負った元帥宮家」(佐藤朝泰『門閥――旧華族階層の復権』(立風書房、一九八七年四月)第二章、四四〜四七頁)
「日本の名家『旧宮家はいま』1」梨本家(『週刊読売』一九八八年五月八・十五日、一八四〜一八七頁)


 
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更新日時: 2020.12.10.
公開日時: 2020.11.30.


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