梨本宮守正王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[守正]

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守正王 もりまさ
 梨本宮(三) なしもとのみや
 もと 「多田宮」 ただのみや
多田王 ただ
 のち 梨本守正 なしもと もりまさ
 
【出自】
 
朝彦親王[久邇宮(一)]の四男。
 
【生母】
 原田光枝(光枝子)
 一乘院御近習原田吉治の女子。
 
【經歴】
明治七年(一八七四)三月九日、生誕。
『明治天皇紀』
「多田宮」
明治七年(一八七四)三月十五日、稱號が「多田宮(ただのみや)」と定められる。
『明治天皇紀』
能久親王妃光子が病弱で嫡子を儲け難かったため、多田王(朝彦親王[久邇宮]の四男。のちの守正王[梨本宮])が、能久親王・光子のもと北白川宮家に預けられたが、明治十八年(一八八五)、光子妃の離婚により解消、北白川宮家を離れた。
多田王[梨本宮] ただ
明治十八年(一八八五)十二月二日、思召(勅旨)によって梨本宮の相續を仰せ付けられる。
菊麿王[梨本宮(二)]が山階宮に復歸した跡を繼承。
明治十九年(一八八六)三月三日、陸軍幼年學校に通學。
守正王[梨本宮]
明治十九年(一八八六)六月八日(イ九日)、「守正(もりまさ)」と改名。
『明治天皇紀』
明治二十四年(一八九一)九月一日、陸軍幼年學校に入學。
明治二十七年(一八九四)六月十六日、陸軍幼年學校を卒業。
明治二十七年(一八九四)六月二十六日、士官候補生として廣島の第五師團歩兵第十一聯隊に入隊。
『明治天皇紀』
明治二十八年(一八九五)一月七日、陸軍士官學校に入學。
『明治天皇紀』
明治二十八年(一八九五)十一月十日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。
『明治天皇紀』
明治二十九年(一八九六)五月二十七日、陸軍士官學校を卒業。
『明治天皇紀』
明治三十年(一八九七)一月二十五日、陸軍歩兵少尉に任じられ、同日、歩兵第十一聯隊附に補される。
明治三十二年(一八九九)二月十一日、陸軍歩兵中尉に任じられる。
明治三十三年(一九〇〇)五月二十八日、本職を免じられ、士官學校附を仰せ付けられる。
明治三十三年(一九〇〇)七月五日、宮中顧問官正二位勲一等侯爵 鍋島直大[佐賀]の二女 伊都子との結婚の儀が勅許される。
『明治天皇紀』
明治三十三年(一九〇〇)十一月二十八日、鍋島伊都子と結婚。
『明治天皇紀』
明治三十四年(一九〇一)三月二十一日、陸軍歩兵大尉に任じられ、同日、士官學校ヘ官に補される。
明治三十五年(一九〇二)十二月二十六日、見學のため歐洲へ差遣される旨の御沙汰があった。
明治三十六年(一九〇三)三月四日、歐洲差遣につき、本職を免じられる。
明治三十六年(一九〇三)三月二十八日、フランス陸軍士官學校へ留學のため渡歐(出航)。
『明治天皇紀』
明治三十七年(一九〇四)四月四日、歸朝。
日露戰爭の勃發により歸國。
『明治天皇紀』
明治三十七年(一九〇四)四月五日、參謀本部附を仰せ付けられる。
明治三十七年(一九〇四)六月二十三日、日露戰爭に出征。
明治天皇より乘馬を下賜される。
『明治天皇紀』
明治三十七年(一九〇四)七月十日、宇品より出航。
明治三十七年(一九〇四)十一月三日、大勲位に敍され、菊花大綬章を授けられる。
『明治天皇紀』
明治三十七年(一九〇四)十一月二十三日、陸軍歩兵少佐に任じられる。
戰地にて赤痢に罹患し、歸國。別府にて、轉地療養。
靜養。
『明治天皇紀』
明治三十九年(一九〇六)一月十二日、日露戰爭より凱旋。
『明治天皇紀』
明治三十九年(一九〇六)七月三十日、參謀本部附を免じられる。
明治三十九年(一九〇六)五月三十日、歐洲へ差遣される旨の御沙汰があった。
明治三十九年(一九〇六)八月十一日、フランスへ再留學のため渡歐(横濱より出航)。
『明治天皇紀』
明治三十九年(一九〇六)四月一日附で、明治三十七八年戰役の功により、功四級に敍され、金鵄勲章を授けられ、金五百圓を賜わる。
明治四十一年(一九〇八)四月一日、陸軍歩兵中佐に任じられる。
妃と共にスペイン國皇帝より勲章を受贈。
『明治天皇紀』
明治四十二年(一九〇九)七月二十九日、歸朝。
『明治天皇紀』
明治四十二年(一九〇九)十一月三十日、歩兵第六聯隊附に補される。
日佛協會名譽總裁となる。
『明治天皇紀』
明治四十三年(一九一〇)十二月一日、陸軍歩兵大佐に任じられ、同日、歩兵第六聯隊長に補される。
大正二年(一九一三)八月三十一日、陸軍少將に任じられ、同日、歩兵第二十八旅團長に補される。
大正五年(一九一六)八月十八日、本職を免じられ、歩兵第一旅團長に補される。
大正六年(一九一七)八月六日、陸軍中將に任じられ、同日、第十六師團長に補される。
大正四年(一九一五)十一月十日附で、大禮記念章を授與される。
大正八年(一九一九)十一月二十五日、本職を免じられ、軍事參議官に補される。
大正十二年(一九二三)四月十一日、第二特命檢閲使を仰せ付けられる。
大正十二年(一九二三)八月六日、陸軍大將に任じられる。
大正十五年(一九二六)四月十二日、特命檢閲使を仰せ付けられる。
昭和三年(一九二八)十一月十日附で、大禮記念章を授與される。
昭和六年(一九三一)十二月二十四日、帝都復興記念章を授與される(昭和五年十二月五日附)。
『官報』第一四九九號 昭和六年十二月二十八日 敍任及辭令
◎昭和六年十二月二十四日
      陸軍歩兵大尉大勲位 雍仁親王
        海軍大尉大勲位 宣仁親王
     陸軍大將大勲位功二級 載仁親王
     海軍大將大勲位功四級 博恭王
        海軍少佐大勲位 博義王
        海軍少佐勲一等 武彦王
      陸軍騎兵大尉勲一等 恒憲王
        海軍大尉勲一等 朝融王
            勲一等 邦英王
(各通) 陸軍大將大勲位功四級 守正王
        ~宮祭主大勲位 多嘉王
        陸軍少將大勲位 鳩彦王
        同       稔彦王
                永久王
      陸軍騎兵少尉勲一等 恒コ王
      陸軍騎兵中尉勲一等 春仁王
      陸軍歩兵少佐大勲位 李王垠
      陸軍騎兵少尉勲一等 李鍵公
            大勲位 李堈
昭和五年勅令第百四十八號ノ旨ニ依リ帝都
復興記念章ヲ授與セラル(五年十二/月五日 賞勲局)
昭和七年(一九三二)八月八日、元帥府に列せられ、特に元帥の稱號を賜わる。
昭和九年(一九三四)四月二十九日附で、昭和六年乃至九年事變の功により金杯一組を賜わる。
昭和九年(一九三四)四月二十九日附で、昭和六年乃至九年事變從軍記念章を授與される。
昭和十二年(一九三七)十月十四日、臨時~宮祭主を兼任。[伊勢~宮祭主(七)]
『木戸幸一日記』昭和十二年十月十二日(金)
九時半出勤。
 十時半、大臣と多嘉王の御跡の始末、華族制度の改正につき意見を交換す。
 十一時半、松浦別當【賀陽宮別當】來廳、神宮祭主につき、殿下【賀陽宮恒憲王】より明治天皇の甞ての思召等を御話あり、現在のところ、軍籍を去って奉仕するの意思はなく、兼任なれば梨本宮【守正王】も御いでのことなれば、此の次位には御勤めしても宜しとの御意を漏されたりとの話ありたり。
 ・・・・・
 一時半、東宮假御所に小出事務官【英經】を訪ふ。石川傅育官より、神宮祭主につき高松宮は予てより神宮祭主の御希望あり、今回も其御氣持はあり、予て多嘉王の御勤務振り等も御調べありたり、殿下は軍籍を退きてとの御考へなるが、右は今日海軍に於て容易に御同意せざるべしと申上たるに、殿下も其の点は御同樣に思召され、結局今回は別段御申出はなかりしなりとの話ありたり。
『官報』第三二三七號 昭和十二年十月十五日 敍任及辭令
◎昭和十二年十月十四日 ・・・・・
 元帥陸軍大將大勲位功四級 守正王
兼任臨時~宮祭主
昭和十五年(一九四〇)八月十五日附で、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
昭和十七年(一九四二)四月四日、支那事變における功により、特に菊花章頸飾を授けられ、金四千二百圓を下賜され、支那事變從軍記章を授與される(昭和十五年四月二十九日附)。
『官報』第四五七〇號 昭和十七年四月七日 宮廷録事
◎勲章親授式 本月四日午後二時勲章親授
式ヲ行ハセラレ元帥陸軍大將載仁親王元帥
海軍大將博恭王兩殿下ニ功一級金鵄勲章ヲ
元帥陸軍大將守正王殿下ニ大勲位菊花章頚
飾ヲ陸軍大章鳩彦王同稔彦王兩殿下 ・・・・・
・・・・・ ニ功一級金鵄勲章
ヲ授ケラレタリ
昭和二十年(一九四五)十二月二日、皇族唯一の戰爭犯罪容疑者に指名される。
昭和二十年(一九四五)十二月八日、願に依り兼官の臨時~宮祭主を免じられる。
昭和二十年(一九四五)十二月十二日、巣鴨拘置所に収監される。七十二歳。
『宣仁親王日記』昭和二十年十二月十三日(木)(『高松宮日記』八ノ二〇七〜二〇八頁)
・・・・・ 全くお老人の兩殿下【守正王・伊都子】にわけもわからぬ拘引で御氣の毒の至りなり。旅行【宣仁親王の山陵參拜差遣】前に火曜日には解除の了解ありとの情報あり、それを信じてゐたのでびつくりした。どうにも皇室の尊嚴を、ひびを入らせて國民に知らせようと云ふつもりとより思へぬことなり。それには又あまりに御年召しをひどいことだと思へる。
昭和二十一年(一九四六)四月十三日、巣鴨拘置所より釋放される。
結局、戰犯容疑が不明であったため、四箇月後に釋放された。
木下道雄『側近日誌』昭和二十年十二月四日(火)
梨本守正
昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十一條の規定により、皇族の身分を離れる。
『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示
○宮内府告示第十五号
 博明王、光子女王、章子女王、武彦
王、恒憲王、朝融王、守正王、鳩彦王、
稔彦王、故成久王妃房子内親王、道久
王、肇子女王、恒コ王及び春仁王各殿
下は、皇室典範第十一條の規定によ
り、昭和二十二年十月十四日皇族の身
分を離れられる。
 昭和二十二年十月十三日
     宮内府長官 松平 慶民
昭和二十六年(一九五一)一月一日、歿。
 
【墓所】
 東京都文京區大塚の豐島岡皇族墓地
 
【配偶】
 伊都子 いつこ
 守正王妃
 のち梨本伊都子
 鍋島直大[佐賀]の二女。
 明治十五年(一八八二)二月二日、ローマにて誕生。
 明治三十三年(一九〇〇)十一月二十八日、成婚。同日、勲二等に敍され、寶冠章を授けられる
 明治三十九年(一九〇六)一月十三日、渡歐。
『明治天皇紀』
 明治三十九年(一九〇六)四月一日附で、明治三十七八年戰役從軍記章を授與される。
 明治四十三年(一九一〇)二月十一日、勲一等に敍され、寶冠章を授けられる。
『明治天皇紀』
 昭和三年(一九二八)十一月十日附で、大禮記念章を授與される。
 昭和十五年(一九四〇)八月十五日附で、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
 昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十三條の規定により、皇族の身分を離れる。
『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示
◎宮内府告示第十六号
 恒憲王妃敏子、邦壽王、治憲王、章
憲王、文憲王、宗憲王、健憲王、邦昭
王、朝建王、朝宏王、朝子女王、通子
女王、英子女王、典子女王、守正王妃
伊都子、孚彦王、孚彦王妃千賀子、誠
彦王、冨久子女王、美乃子女王、稔彦
王妃聰子内親王、盛厚王、盛厚王妃成子
内親王、信彦王、文子女王、俊彦王、
恒コ王妃光子、恆正王、恆治王、素子
女王、紀子女王及び春仁王妃直子各殿
下は、皇室典範第十三條の規定によ
り、昭和二十二年十月十四日皇族の身
分を離れられる。
 昭和二十二年十月十三日
     宮内府長官 松平 慶民
 昭和五十一年(一九七六)八月十九日歿。九十四歳。
 
【子女】
 ○
方子女王 のち李方子
 ○ 規子女王 のち廣橋規子
 
【繼承者】
 梨本儀光 なしもと よしみつ
 廣橋眞光と廣橋規子(もと規子女王)の三男。守正王の外孫。
 梨本伊都子の養子。
 梨本家を相續。
 昭和四十一年(一九六六)二月一日、梨本家より離籍。
 梨本徳彦 なしもと のりひこ
 多嘉王(朝彦親王[久邇宮]の五男)の三男。
 梨本伊都子の養子。
 もと徳彦王、龍田徳彦(伯爵)。
 昭和四十一年(一九六六)四月二十七日、梨本家(五)を相續。
 徳彦王を見よ。
 
【逸事等】
二・二六事件に際し、昭和十一年(一九三六)二月二十八日午前十時、守正王は參内し、昭和天皇に言上。これについて、昭和天皇は「梨本宮は泣かぬ許りにして御話であった」と述べている。
『木戸幸一日記』昭和十一年二月二十八日
戰爭反對論者であったが、それを積極的に主張することはなかった、という。
『昭和天皇獨白録』「近衛の辭職と東條の組閣(昭和十六年)」(六六〜六七頁)
十月の初伏見宮が來られて意見を述べられた。即近衛、及川【古志郎】、永野【修身】、豐田【貞次郎。外相】、杉山【元】、東條の六人を並べて戰爭可否論をさせ、若し和戰兩論が半々であつたらば、戰爭論に決定してくれとの事であつた。私【昭和天皇】は之には大藏大臣【小倉正恒】を參加せしむべきだと云つて不贊成を表明した。高松宮も砲術學校に居た爲、若い者にたき付けられ戰爭論者の一人であつた。・・・・・ 皇族その他にも戰爭論多く、平和論は少くて苦しかつた。
 東久邇宮【稔彦王】、梨本宮【守正王】、賀陽宮【恒憲王】は平和論だつた、表面には出さなかつた。
昭和二十年(一九四五)四月、鈴木貫太郎内閣成立の際、小磯國昭内閣の陸軍大臣杉山元を排斥する動きを、崇仁親王[三笠宮]らと示した。
『昭和天皇獨白録』「鈴木内閣」、「(三)陸軍大臣の任命」(一一一〜一一三頁)
米内【光政】は海相に留任したが、陸相には阿南【惟幾】がなつた。當時杉山を排斥する空氣は陸軍省にも、參謀本部にもあり、賀陽宮【恒憲王】も三笠宮【崇仁親王】も、之に動かされていた。三笠宮は參謀本部の者から云はれて、特に私【昭和天皇】に對して杉山はどう思ふかと云ふから、私は杉山を排斥するのは面白くないと云つた。話は遡るが、小磯内閣成立の時、陸相推薦の爲、陸軍三長官會議を開いた。
 ・・・・・
 杉山自身は大臣になり度くなかつたけれ共、東條を退ける意味で、無理に引受けたのである。かゝる經緯も有つたのである。
 だから今更杉山を退けることは出來ないから、三笠宮にはそれとなく話して置いた。
 又三笠邸には東久邇【稔彦王】、賀陽、梨本【守正王】、朝香【鳩彦】等五人の皇族が集り、杉山排斥の相談をなし梨本宮が代表となつて、蓮沼〔蕃〕武官長をよび意見を聞かれた事があつた。武官長は極力之に反對し、そんな事をなさると、殿下の御責任になると云つたので、梨本宮はこの代表を斷る爲に三笠邸に行かれたが、殿下不在の爲、厚東別當にこの旨話された事がある。
 ・・・・・
 
【文獻等】
平成新修旧華族家系大成 上巻』四一頁
昭和新修華族家系大成 上巻』三五頁
小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記』(小学館、一九九一年十一月第一版)
梨本伊都子『三代の天皇と私』(講談社出版研究所編集。講談社、昭和五十年(一九七五)十一月第一刷)
佐藤朝泰「梨本家==日韓の「歴史の悲劇」を一身に背負った元帥宮家」(佐藤朝泰『門閥−−旧華族階層の復権』(立風書房、一九八七年四月)第二章、四四〜四七頁)
「日本の名家『旧宮家はいま』1」梨本家(『週刊読売』一九八八年五月八・十五日、一八四〜一八七頁)


 
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公開日時: 2015.07.22.
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