宗諄女王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[宗諄]

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宗諄女王 そうじゆん
 
 もと
法山宗諄光格太上天皇の養子)[靈鑑寺宮
 
【稱號】
 「萬志宮」(滿志宮) ましのみや
 
【出自】
 貞敬親王[伏見殿(一九)]の九女。
 もと光格太上天皇の養子。
 
【母】
 藤原朝臣輝子
 貞敬親王の御息所
 「壽美君」
 藤原朝臣輝良[一條]の十二女。
 
【母儀】
 「新大納言局」
 藤原朝臣正子 をさこ
 藤原朝臣基理[園]の猶子。藤原朝臣保香[高野]の女子。
 
【經歴】
文化十三年(一八一六)十一月二十七日、誕生。
『伏見宮日記』文化十三年十一月廿七日
一、壽美君御方今朝ゟ御産御進被為在候。・・・・・ 未剋姫宮御誕生被為在。御二方様共益御丈夫被為成候。
「萬志宮」
文化十三年(一八一六)十二月四日、幼名を「萬志宮(マシノミヤ)」と定められる。
『伏見宮日記』文化十三年十二月四日
一、御息所御方今日御七夜御祝儀被爲催候ニ付御所樣ゟ御誕生之姫宮御名被進之。大鷹三ツ折御染筆萬志マシ被認之。・・・・・
文化十四年(一八一七)十二月十日、髪置、箸初。
『伏見宮日記』文化十四年十二月十日
文政元年(一八一八)十二月二十八日、色直。
『伏見宮日記』文政元年十二月廿八日
文政二年(一八一九)四月二十三日、靈鑑寺宮宗恭の附弟となることが内約される。
『伏見宮日記』文政二年四月廿三日
文政二年(一八一九)六月二十七日、靈鑑寺宮宗恭の附弟となり、同日、光格太上天皇の養子となる。
『伏見宮日記』文政二年閏四月十三日
万志宮御方兼而霊鑑寺宮御附弟御内約被為在候處、此度御附弟且仙洞御所御養子之御願表向被仰達。仍而御双方ゟ今日左之通之御願書傳奏月番山科前大納言殿被差出之処、雜掌(松田兵庫)出會、御口上之趣委細被致承知、右御書付慥被致落手候由、夫ゟ御同役廣橋前大納言殿參、前段之趣御口上申入。尤御願書則御月番山科殿被差出置候。ョ思召之旨御口上申入候処、雜掌濱路雅樂權助出會、御口上之趣委細被致承知之段御請被申上候也。
 ・・・・・
『伏見宮日記』文政二年六月廿七日
一、非藏人口午剋左衞門大尉罷出候處、兩傳奏(山科前大納言殿、廣橋前大納言殿)御立會ニて靈鑑寺宮御内田原右馬允御出會相濟、左衞門大尉被申聞候、兵部卿宮御末女滿志宮【萬志宮】御方靈鑑寺宮御附弟仙洞養子之儀、先達被仰立候御願之通被仰出候ニ付此段被申上候。尤御養子之義【儀】院中傳奏衆ゟも被申上候ニ付、外樣口罷越候樣被申聞。仍姫宮御方可申上之旨申之退出。夫ゟ外樣口罷越候處、院傳奏(平松前大納言【ママ】殿、日野中納言殿)御立會ニて靈鑑寺宮相濟、左衞門大尉被申聞候、兵部卿宮御末女滿志宮【萬志宮】御方靈鑑寺宮御附弟御願之通被仰出候ニ付、當御所御養子之義御願之通被仰出候。此段被申上候旨也。仍之退出言上之後、爲御使同人罷越、被仰渡之趣承知被成候。御請之義何分可然御沙汰ョ思召候段、非藏人口、外樣口夫々申入候處、御承知也。
『靈鑑寺日記』文政二年六月廿七日
『洞中日次案』文政二年六月廿七日
兵部卿宮参入、被窺御氣色(霊鑑寺宮万志宮御養子被仰出之事被畏申)。
『禁裏執次所日記』文政二年六月廿九日
一、霊鑑寺宮附弟万志宮仙洞御養子被仰出候段、一昨廿七日、議奏衆御達書面御附衆被為見。右万志宮、実伏見兵部卿宮御末女有之候事。
『伏見宮日記』文政二年八月七日
萬志宮御方靈鑑寺宮御附弟仙洞御所御養子之儀、御願之通被爲濟候ニ付、靈鑑寺宮於御里坊御廣目御祝儀被相催候。
『靈鑑寺日記』文政二年八月七日
一、萬志の宮様御ひろめ、御里坊ニて被為有、御所様ならせられ候。・・・・・
文政三年(一八二〇)八月二十五日、内々に靈鑑寺に移る。
『伏見宮日記』文政三年六月二日
『靈鑑寺日記』文政三年六月二日
『靈鑑寺日記』文政三年八月廿四日
『伏見宮日記』文政三年八月廿五日
今日依吉辰、万志宮御方靈鑑寺宮御内々御引移被為有候也。
・・・・・
『靈鑑寺日記』文政三年八月廿五日
文政六年(一八二三)三月十六日、内々に深曾木の儀を行う。
『靈鑑寺日記』文政六年三月十五日
文政六年(一八二三)十月七日、「新大納言局」(藤原正子)が母儀と定められる。
『仙洞御所詰所日記』文政六年十月七日
『靈鑑寺日記』文政六年十月七日
『伏見宮日記』文政六年十月八日
文政六年(一八二三)十月十三日、靈鑑寺に「入寺」。
『靈鑑寺日記』文政六年十月十三日
『洞中日次案』文政六年十月十三日
今日万志宮入寺(霊鑑寺也)。・・・・・
『大宮御所女房日記』文政六年十月十三日
一、ましの宮御かた御入寺にて御院参加。院御所にて御對面成。・・・・・
『伏見宮日記』文政六年十月十三日
靈鑑寺滿志宮【萬志宮】御方今日御入寺也。・・・・・
法山宗諄[靈鑑寺門跡]
文政六年(一八二三)十月十四日、得度。道號を「法山」、法諱を「宗諄」と稱す。
『靈鑑寺日記』文政六年九月廿三日
一、仙洞御所御得度の日時御伺。御別紙に御じつめう【實名】御伺。廿五日仙洞御所御爪点被仰出。
   御実名   御道号
    宗諄    法山
    宗叡    高山
    宗猷    紫山
『靈鑑寺日記』文政六年九月廿五日
一、仙洞御所ゟ御ふミ、一昨日御伺御返事、御得度御実名御伺あそハし、十月十四日仰出され候。
            新大納言殿/権中納言殿 ゟ
『靈鑑寺日記』文政六年十月十四日
『伏見宮日記』文政六年十月十四日
靈鑑寺万志宮御方(奉稱法山宗諄。伏見殿一品兵部卿貞敬親王姫宮。御母御息所御方)今日御得度也。
・・・・・
『御湯殿上日記』文政六年十月十四日
『禁裏執次所日記』文政六年十月十四日
『洞中日次案』文政六年十月十四日
『大宮御所女房日記』文政六年十月十四日
文政十三年(一八三〇)三月十一日、南禪寺において大觀長老より受戒。
『靈鑑寺日記』文政十三年三月五日
『靈鑑寺日記』文政十三年三月十一日
天保十一年(一八四〇)七月二十七日、南禪寺において大觀長老より再び受戒。
『靈鑑寺日記』天保十一年七月二十一日
『靈鑑寺日記』天保十一年七月廿四日
『靈鑑寺日記』天保十一年七月廿七日
天保十二年(一八四一)十二月二十九日、幾佐宮(骼q)が靈鑑寺宮法山宗諄のもとに御預となり、靈鑑寺に移る。
『伏見宮日記』天保十二年十二月六日
『伏見宮日記』天保十二年十二月廿五日
『伏見宮日記』天保十二年十二月廿九日
天保十三年(一八四二)七月二十九日、梅操院が、濟範親王と幾佐宮(骼q)の出奔に連坐し、靈鑑寺宮法山宗諄のもとに御預となり、靈鑑寺に移り、剃髪・蟄居する。
『東坊城聰長日記』天保十三年七月廿九日
『伏見宮日記』嘉永元年十一月八日
安政四年(一八五七)七月一日、栗色法衣の着用を勅許される。
『靈鑑寺日記』安政四年七月朔日
萬延元年(一八六〇)閏三月十四日、兼帶の禪智院(近江國拜戸)に赴き、十一月二十一日まで滯在。翌二十二日、靈鑑寺に歸着。
『靈鑑寺日記』安政六年十二月二日
『靈鑑寺日記』安政六年十二月五日
『押小路甫子日記』萬延元年三月廿三日
『靈鑑寺日記』萬延元年閏三月八日
『靈鑑寺日記』萬延元年閏三月十四日
『伏見宮日記』萬延元年閏三月十四日
靈鑑寺宮今日御抱所禪智院御下向、御發輿也。
『伏見宮日記』萬延元年十一月朔日
『靈鑑寺日記』萬延元年十一月廿一日
『靈鑑寺日記』萬延元年十一月廿二日
『伏見宮日記』萬延元年十一月廿三日
文久三年(一八六三)二月十三日、藤原紀子[堀河](和宮降嫁に關與)が剃髪、靈鑑寺に御預となる。
慶應四年(一八六八)七月十七日、紫衣の着用を勅許される。
『靈鑑寺日記』慶應四年六月廿九日
『靈鑑寺日記』慶應四年七月十七日
『押小路甫子日記』慶應四年七月十七日
『伏見宮日記』慶應四年七月十八日
『靈鑑寺日記』慶應四年七月廿三日
明治四年(一八七一)六月二十四日、太政官より、御所號・門跡號等の廢止等に關する通達を受領。
明治六年(一八七三)七月三十一日、靈鑑寺門を離れ伏見宮へ復籍すること等が定められる。
宗諄女王
明治六年(一八七三)八月十三日、宮内省より、靈鑑寺門を離れ伏見宮に復籍すべき等の旨が到る。
『伏見宮日記』明治六年八月十三日
一、宮内省ヨリ依招家令出省之処、左之通被相達候也。
        靈鑑寺宗諄宮
        圓照寺文秀宮
  今般皇族家事向改正被仰出候ニ付、自今寺門ヲ離レ伏見家ヘ復籍之上、従前之米相廢シ、以来賄料として更ニ一ヶ年金五百圓宛被下候事。
  但本年ハ當七月より賄料ニ替可賜候事。
『靈鑑寺日記』明治六年八月十八日
明治六年(一八七三)九月九日、京都への寄留が許可され、引續き靈鑑寺に居住する。
『伏見宮日記』明治六年九月九日
『靈鑑寺日記』明治六年九月十五日
明治六年(一八七三)十月十一日、靈鑑寺を出て、岩倉の如意寺(杉御殿)に移る。
『靈鑑寺日記』明治六年十月十一日
明治六年(一八七三)十一月十五日、誕生日を太陽暦に換算し、紀元二千四百七十七年一月十四日と定められる。
『伏見宮日記』明治六年十月十五日
明治六年(一八七三)十一月二十日、靈鑑寺における寄留が許可される。
『靈鑑寺日記』明治六年十月廿四日
『伏見宮日記』明治六年十一月廿日
明治十三年(一八八〇)九月十三日、法體復歸を許される。
『伏見宮日記』明治十三年八月卅一日
一、宮内省左之願書被差出。
    宗諄宮御法躰願
  當宮御伯母宗諄宮御儀、先年山城國愛宕郡鹿ヶ谷村靈鑑寺御住職御座候處、明治六年八月當宮御復歸被仰付、其後引續同寺御寄留被致候。然ルニ同宮御儀御高年ニも被為在、且豫佛門御帰依之御事故、今般更御法躰之儀御許容相成候様被相願度候間、可然御取計之程奉願候也。
         伏見宮御附
   八月三十一日  浦田長民 印
   宮内卿宛
 願之趣被聞食候事
  明治十三年九月十三日 印

『皇親録』明治十三年九月十三日「伏見宗諄女王法體願之義伺」
明治十三年(一八八〇)十一月二十二日、中ヘ正に補される。
『靈鑑寺日記』明治十三年九月卅日
『靈鑑寺日記』明治十三年十二月九日
一、府出頭      正よし
  左之通御書附渡ス
   補中教正  宗諄女王
    明治十三年十一月廿二日
      太政官
 恐悦申入。
『伏見宮日記』明治十三年十二月十五日
明治十五年(一八八二)八月九日、權大ヘ正に補される(明治十五年七月廿二日付)。
『靈鑑寺日記』明治十五年八月九日
『伏見宮日記』明治十五年八月十二日
明治十七年(一八八四)八月一日、權大ヘ正に補される(明治十七年八月一日付)。
『靈鑑寺日記』明治十七年八月十四日
『官報』明治十七年八月二日 敍任
明治二十四年(一八九一)一月二十一日、靈鑑寺において死亡(喪を秘す)。
『靈鑑寺日記』明治廿四年一月廿日
『伏見宮日記』明治二十四年一月二十一日
『伏見宮日記』明治二十四年一月二十三日
『伏見宮日記』明治二十四年二月一日
明治二十四年(一八九一)一月二十四日「薨去」。七十六歳。
『伏見宮日記』明治二十四年一月二十四日
『官報』明治二十四年一月二十六日 告示
明治二十四年(一八九一)一月三十一日葬儀。
『伏見宮日記』明治二十四年一月二十六日
『伏見宮日記』明治二十四年一月三十一日
『皇親録』明治廿四年一月廿四日
『官報』明治二十四年二月三日 宮廷録事
 
【墓所】
 京都府上京區鹿ヶ谷町(左京区南禅寺北ノ坊町)光雲寺内伏見宮墓地
 
【文獻等】
『伏見宮實録』一〇三『貞敬親王實録』一三「王女 宗諄女王 一」(宮内庁公文書館 識別番号75303)
『伏見宮實録』一〇四『貞敬親王實録』一四「王女 宗諄女王 二」(宮内庁公文書館 識別番号75304)
『詰所系圖』光格天皇、六二頁
『詰所系圖』「伏見殿」七六頁
『系圖纂要』「伏見宮」五六九頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』四五頁
『皇室制度史料 皇族三』三六五頁、三九九〜四〇〇頁


 
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公開日時: 2020.12.05.

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