仲石伴


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[石伴]

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石伴
 
 仲眞人石伴
   
【出自】
 系譜未詳。
 
石津王(藤原朝臣仲麻呂の養子となり藤原朝臣を賜姓される)と同一人と推定されている。
 
【經歴】
天平寶字三年(七五九)六月十六日、從五位下から從四位下に敍される。
『續日本紀』天平寶字三年六月庚戌
正六位上岡眞人和氣、從五位下仲眞人石伴、從五位上藤原惠美朝臣眞先【眞光】、從五位下藤原惠美朝臣久須麻呂並[授]從四位下。
天平寶字四年(七六〇)正月十六日、河内守となる。
『續日本紀』天平寶字四年正月戊寅
[以]從四位下仲眞人石伴爲河内守。
天平寶字五年(七六一)十月二十二日、遣唐大使、播磨守となる。時に右虎賁衞督、從四位下。
『續日本紀』天平寶字五年十月癸酉
以右虎賁衛督從四位下仲眞人石伴爲遣唐大使。上総守從五位上石上朝臣宅嗣爲副使。以武藏介從五位下高麗朝臣大山爲遣高麗使。又以從四位下藤原惠美朝臣朝獦爲仁部卿、陸奧出羽按察使如故。從四位下和氣王爲節部卿。從五位下藤原惠美朝臣辛加知爲左虎賁衛督。從四位下仲眞人石伴爲播磨守。
天平寶字八年(七六四)正月二十一日、左勇士率となる。
『續日本紀』天平寶字八年正月己未
[以]從四位下仲眞人石伴爲左勇士率。
天平寶字八年(七六四)九月十一日の「惠美仲麻呂」(藤原惠美朝臣押勝から改姓名させられる。もと藤原仲麻呂)の叛に與し、仲麻呂の逃避行に同道し、九月十八日以前に、琵琶湖のほとりの勝野鬼江で斬殺される。
『續日本紀』天平寶字八年九月壬子
軍士石村村主石楯斬押勝、傳首京師。・・・・・ 五日爲番、集都督衙、簡閲武藝、奏聞畢後、私u其數、用太政官印而行下之。大外記高丘比良麻呂懼禍及己、密奏其事。及收中宮院鈴印、遂起兵反。其夜、相招黨與、遁自宇治、奔據近江。山背守日下部子麻呂、衛門少尉佐伯伊多智等、直取田原道、先至近江、燒勢多橋。押勝見之失色。即便走高嶋郡、而宿前少領角家足之宅。是夜、有星、落于押勝臥屋之上。其大如甕。伊多智等馳到越前國、斬守辛加知。押勝不知而僞立鹽燒爲今帝。眞光、朝獦等皆爲三品、餘各有差。遣精兵數十、而入愛發關。授刀物部廣成等拒而却之。押勝進退失據、即乘船向淺井郡塩津。忽有逆風、船欲漂沒。於是、更取山道、直指愛發。伊多智等拒之、八九人中箭而亡。押勝即又還、到高嶋郡三尾埼、与佐伯三野、大野眞本等相戰、從午及申、官軍疲頓。于時、從五位下藤原朝臣藏下麻呂將兵忽至。眞光引衆而退。三野等乘之、殺傷稍多。押勝遥望衆敗、乘船而亡。諸將水陸兩道攻之。押勝阻勝野鬼江、盡鋭拒戰。官軍攻撃之。押勝衆潰。獨与妻子三四人乘船浮江。石楯獲而斬之。及其妻子從【徒】黨卅【卌】四人、皆斬之於江頭。・・・・・
『續日本紀』天平寶字八年九月癸亥
 勅。逆賊惠美仲麻呂、爲性凶悖、威s久。然猶含容冀其自悛、而寵極勢凌、遂窺非望。乃以今月十一日、起兵作逆、掠奪鈴印、竊立氷上塩燒爲今皇、造僞乾政官符、發兵三關諸國、奔據近江國、亡入越前關。官軍賁赫、分道追討。同月十八日、既斬仲麻呂并子孫、同惡相從氷上塩燒、惠美巨勢麻呂、仲石伴、石川氏人、大伴古薩、阿倍小路等、剪除逆賊。天人同慶、宜布告遐迩、咸令聞知。
 
【文獻等】
竹内理三/山田英雄/平野邦雄 『日本古代人名辭典』第五巻(吉川弘文館、昭和四十一年(一九六六)三月) 1246頁下 「仲眞人石伴」
 


 
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公開日時:2022.02.21.

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