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長コ四年(九九八)誕生。
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長保六年(一〇〇四)五月二日、祖父 冷泉院の子となる宣旨を賜わり、冷泉院の五宮となる。
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『御堂關白記』長保六年五月二日乙酉
華山院宮達可爲親王宣旨。實成朝臣來仰云。依有被院申、雖不宜、被下宣旨、冷泉院五六宮者。
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『御堂關白記』長保六年五月三日丙戌
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『榮花物語』八「はつ花」
院このみやだちのしのびがたくかなしくおぼえ給えば、中つかさがはらの一のみこ、むすめの腹のみこふた宮をとのに申させ給て、これ冷泉院の御子のうちにいれさせ給へとある御消息度々゙々あれば、・・・・・ 花山院は冷泉院の一のみこ、たゞいまの春宮は二のみこ、故彈正宮は三のみこ、今の帥宮は四のみこにぞおはしますかし。さればうちにまいらせ給て、ことのよしそうせさせ給て、よきひして宣旨くださせ給。おやばらの御子をば五の宮【ママ】、むすめばらの御子をば六宮【ママ】とて、をのをのみななべてのみやだちのえ給ふほどの御封どもたまはらせ給。・・・・・
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『小右記』寛仁三年三月五日壬戌「三條院女親王叙三品并當院男女親王宣旨事」
・・・・・・ [藤原資平]又云。故三條院女親王【禔子】(皇后宮腹。一夜着袴親王)被叙三品。
當時院【小一條院】男女(男【敦貞】者左大臣【藤原顯光】女【延子】腹。女【儇子】者前太政大臣【藤原道長】女【寛子】腹(高松))爲親王之宣旨下也。爲故三條院王子今被下爲親王之宣旨云々。
故華山院御子二人【C仁・昭登】爲故冷泉院王子爲親王。依彼例所被行云々。已不相合之例也。所以者何。冷泉院御坐之時爲彼王子。而三條院崩已三箇年。令【今】更爲彼王子如何。一時議歟。就中高松腹去年産給。以崩後産給女王入彼三條院王子爲親王、天下必有言乎。
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長保六年(一〇〇四)五月四日、C仁親王と共に、親王宣下。
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『日本紀略』寛弘元年五月四日丁亥
以冷泉院皇子昭登・C仁爲親王。實花山院御出家之後産生也。
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『一代要記』「花山天皇」皇子「C仁親王」
四品彈正尹。長保六年五月四日爲親王。寛弘八年敍四品。同十月十六日勅聽帶劒【ママ】。
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寛弘八年(一〇一一)八月二十三日、C仁親王と共に元服。
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『小右記』寛弘八年七月一日壬申
去月廿七日、公誠朝臣【平】云。故華山院宮達御元服八月廿三日者、天下大事【※一條院崩御】間、密々可被行之由相示畢。亦仰可從侍從中納言(【傍注】行成)指歸之由。・・・・・ [※藤原行成]答云。『御元服事有何事乎。但院【一條院】崩給之間如何。被尋前例被行可宜歟。但密々被行又有何事。有御元服者、被奉仕御即位【三條院即位式】威儀役、依其事被奏叙位品事、有便宜歟者』。余【藤原實資】云。『院【一條院】崩給間、御四十九日内不可有也。過御忌之後、密々被行、可無事難歟。重喪人非無元服例(葬送日元服其例多云々)。何況論實不坐服親。但入給冷泉院御戸。仍可申從父兄弟。其服七箇日歟。可無事忌者也』。抑拾遺納言【藤原行成】親昵人也。又洩申左相府(【傍注】入道殿【道長】)、可被隨氣色由相示又畢。天下巨細雜事只在左府之一言。
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『小右記』寛弘八年八月十八日己未
公成【誠カ】朝臣來。陣【陳】花山院親王達【昭登・C仁】御元服事、乍兩官【宮】以予【藤原實資】可爲引入者。此事有前例之故也。延喜之間事也。
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『小右記』寛弘八年八月十九日庚申「元服加冠事」
今日於内右衞門督告云。「今日參左府、被命云。『廿三日於家可令加藤大納言子【兼經】首服。爲加冠可招下官』云々。又云。『彼日華山院宮達元服。可爲加冠』云々」。彼申剋、是亥剋。不可指合云々。一日兩度役未聞事也。・・・・・
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『小右記』寛弘八年八月廿三日甲子
今日故花山院宮達御元服(先年爲冷泉上皇々子、即爲親王。號五六親王)。・・・・・
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寛弘八年(一〇一一)九月十日、C仁親王と共に四品に敍される。
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『御堂關白記』寛弘八年九月十日庚辰
參内、著左仗座。定御即位侍從。・・・・・ 無可奏威儀親王。仍華山院親王二所、元服後未賜品位、仍受四品、指之。
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『小右記』寛弘八年九月十日庚辰「定即位擬侍從事」「親王叙品事」
・・・・・ 左大臣定申即位擬侍從。左四品昭登親王、從四位上藤原顯信。右四品C仁親王、從四位下藤原朝臣資平。・・・・・。兩親王元服後未參内、而依無可然之親王、今日敍四品。但書載定文未被仰内記。左大臣云。今日可有内印事。・・・・・ 晩頭退出。故院宮達敍四品之御慶事、送書状於母氏【平祐忠女、平祐之女】許也。
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寛弘八年(一〇一一)九月十七日、C仁親王と共に、參内して奏慶。昇殿を聽される。
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『御堂關白記』寛弘八年九月十七日丁亥
出土御門、入夜參内、候宿。華山院親王二所被參入、奏慶賀之由。而後昇殿、召御前。
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『小右記』寛弘八年九月十八日戊子「故院親王達拜賀事」
昨日(戌剋)故院宮達參内。於射場令奏慶賀訖(・・・・・)。即被聽昇殿。依召參御前。・・・・・
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長和二年(一〇一三)四月二十五日、昭登親王家燒亡。
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長和五年(一〇一六)二月七日、後一條院の即位式に於いて左侍從を勤仕。帶劒を聽される。
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『天祚禮祀職掌録』「後一條院 長和五年二月七日即位(大極殿)」
・・・・・ 左侍從 四品昭登親王 ・・・・・ 右侍從 彈正尹C仁親王 ・・・・・
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『小右記』長和五年二月七日壬午「御即位事」「着礼服公卿等事」「勅授宣旨事」
今日、【後一條天皇】御即位。・・・・・ 左侍從昭通【昭登】親王進御前稱礼。畢退本位。・・・・・ 殿上侍從。左昭通【昭登】親王、・・・・・ 右C仁親王、・・・・・
臨還御時、資平傳仰云。可聽勅授於昭通【昭登】親王者。・・・・・ C仁親王初御即位被聽勅授。
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兵部卿に任じられる。
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治安四年(一〇二四)正月二十六日、C仁親王、儇子内親王と共に、巡給に預かる。
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『小右記』治安四年正月廿六日甲寅「除目入眼事儀」
早旦大外記ョ髦メ。仰雜事。右頭中將顯基來。傳勅云。兵部卿昭登親王、彈正尹C仁親王、□子【儇子】内親王(小一條院高松腹)可預巡給者。即召ョ隆宣下。宰相依宮召參入者。
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『魚魯愚抄』五「藏人方」丙「下勘文」上
兵部卿四品昭登親王
彈正尹四品C仁親王
无品儇子内親王
右大臣宣奉勅件等親王從今年@a巡給者
治安四年正月廿三日大外記兼主税權助C原眞人ョ髟
・・・・・
治安四年正月廿六日、右頭中將顯基來傳勅云。兵部卿昭登親王、彈正尹C仁親王、儇子内親王(小一條院高松腹)可預巡給者。即召ョ隆宣下。
昭登・C仁兩親王者華山院御子。但稱冷泉院親王歟。儇子内親王者小一條院親王也。可見大間。
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年來、弟のC仁親王と共に正月擬侍從を勤仕していたが、萬壽元年(一〇二四)十二月六日に妹の女王が路頭で殺害されたため、翌年の正月擬侍從は三條院の子、敦儀親王・敦平親王が勤仕することとなった。
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『小右記』萬壽元年十二月八日壬戌
一昨、華山院女王、爲盗人被殺害、路頭死。夜中、爲犬被食。奇恠也。此女王、被候太皇太后宮【藤原彰子】。或云。非盗人所爲。將出女王於路頭殺云々。
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『小右記』萬壽元年十二月十六日庚午
・・・・・ 先定元日擬侍從。花山兩親王(【右注】兵部卿【昭登親王】・彈正尹【C仁親王】)年來入定。而妹女王被殺云々。可有服歟。雖秘藏多入人耳、仍定三条院兩親王(式部卿【敦儀親王】・中務卿【敦平親王】)。・・・・・
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萬壽元年(一〇二四)十二月十六日以降、長元八年(一〇三五)四月十四日以前に、中務卿に任じられる。
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長元八年(一〇三五)四月十四日、薨逝。三十八歳。
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