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元祿三年(一六九〇)十一月八日寅刻、誕生。
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『基量卿記』元祿三年九月十六日
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『基量卿記』元祿三年十一月八日
リ。寅刻、菅中納言之【『皇族考證』之ナシ】局若宮御誕生之由也。則參入。御母子成程無異義御渡之由也。珍重々々。又參院。於御燒火間拜龍顔珍重申入。御機嫌之事也。・・・・・
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『季連宿禰記』元祿三年十一月八日
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『院中番衆所日記』元祿三年十一月八日
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『无上法院宮日記』元祿三年十一月八日乙未
かん中納言殿、若宮たんじやうのよしゆへ、御よろこびに仙洞へ文まいらす。かん中納言へもおなじ。
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「八十宮」
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幼稱「八十宮」。
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『院中番衆所日記』元祿三年十二月九日
今日依御伊美明、八十宮御參。供奉下北面(宗堅、致直)、御待六人。
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「澤宮」
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元祿三年(一六九〇)十二月十一日、稱號を「澤宮」と改める。
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「澤宮」[大覺寺附弟]
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元祿四年(一六九一)五月十五日、大覺寺門跡性眞親王の附弟となる。
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『基量卿記』元祿四年五月十六日
澤宮大覺寺御附弟義、公武時宜無別儀、昨日被仰出候由。珍重々々。
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『院中番衆所日記』元祿四年五月十六日
大覺寺參入(澤宮御附弟之御禮)。於御書院御對面。天盃頂戴。・・・・・
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元祿四年(一六九一)十二月十二日、髪置。
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元祿五年(一六九二)十一月二十四日、色直。
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『基量卿記』元祿五年十一月二十四日
今日澤宮御色直也。依之東向逗留於菅中納言殿局、有御祝儀云々。・・・・・
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元祿七年(一六九四)十一月二十八日、深曾木。
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「澤宮」[大覺寺門跡]
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元禄九年(一六九六)正月四日、大覺寺門跡性眞親王の薨去をうけて、大覺寺門跡となる。
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元祿九年(一六九六)九月十五日、里坊へ移る。
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元祿十一年(一六九八)三月十八日、紐直。
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『仙洞女房日記』元祿十一年三月十六日
さわの宮ノ御かた御ひもなをしに付、御ひりんず、御ねもじ、御つけおびまいる。
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『仙洞女房日記』元祿十一年三月十八日
さわの宮の御かた御ひもなをしにて、かん中納言殿より御かちん二か三しゆしん上【二荷三種進上】。女院の御かたより御ひもなをしの御しうぎに御なままいる。
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『仙洞女房日記』元祿十一年三月廿一日
さわの宮の御かた御ひもなをしの御禮になる。つねの御所にて御さかづき二こんまいる。かん中納言殿へも御さかづきたぶ。さわの宮の御かた御ちより御かちん一ふた、御てうし、ひさげ、御まな一折しん上。かん中納言殿御ちへおりがみたぶ。
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元祿十一年(一六九八)十月二十七日、嵯峨大覺寺より里坊へ移る。
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元祿十二年(一六九九)十一月二十四日、嵯峨御所の離亭へ移る。
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寛敦親王 [大覺寺門跡]
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元祿十三年(一七〇〇)八月二十一日、親王宣下。
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少外記平田家記録 K70-6
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『基量卿記』元祿十三年八月十八日
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『基量卿記』元祿十三年八月廿一日
未刻參。澤宮今日親王宣下也。奉行頭中將髓キ朝臣【鷲尾】。上卿今城中納言【定經】。辨(【右傍】非職權辨)u光【裏松】。勅別當前源中納言(通躬卿【中院】。・・・・・)。申刻儀了。・・・・・
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『季連宿禰記』元祿十三年八月廿一日辛巳
今日申刻澤宮(【振假名】サワノミヤ)御方(仙洞皇子。(【傍】五條)菅中納言故爲庸卿女。菅中納言局云々。今年御十一才。大覺寺門跡御相續也)有親王宣下之事。・・・・・
一、御名字高檀紙之折紙中央爾二字寛敦被書之。御名字寛敦(【振假名】ひろあつ)云々。
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『日野西國豐日記』元祿十三年八月廿一日
天リ或陰不定。大覺寺宮御童形今日申上刻親王宣下。於陣有宣下事。
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『院中番衆所日記』元祿十三年八月廿一日
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『親王宣下記』元祿十三年八月廿一日
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『少外記平田家記録』K70-6
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性應親王 [大覺寺門跡]
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元祿十三年(一七〇〇)十月十一日、大覺寺に入寺、得度。
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『基量卿記』元祿十三年九月廿九日
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『仙洞女房日記』元祿十三年十月七日
澤の宮の御方御ちごおしみ【御稚兒惜】になる。・・・・・
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『院中番衆所日記』元祿十月十一日
今日寛敦親王入室于大覺寺(從御借房御出(覺勝院寺))。・・・・・
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『基量卿記』元祿十三年十月十一日庚午
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『季連宿禰記』元祿十三年十月十一日
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『仙洞女房日記』元祿十三年十月十一日
澤の宮の御かた御とく度御祝義に黄金十兩、一荷二しゆまいる。
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『仙洞女房日記』元祿十三年十月廿一日
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寶永六年(一七〇九)五月十二日、二品に敍される。
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『禁裏番衆所日記』寶永六年五月十二日壬午
大覺寺性應親王二品宣下(消息)。上卿園大納言、職事左少辨治房。・・・・・・
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『院中番衆所日記』寶永六年五月十二日
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『桂宮日記』寶永六年五月十二日壬午
今日大覺寺宮二品宣下也(於御本坊有其儀)。仍遣使被賀之。
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『基長卿記』寶永六年五月十二日
今日性應法親王(大覺寺宮)二品宣下云々。園大納言爲上卿之由或語之。
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寶永七年(一七一〇)七月十八日、關東下向により參内。
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『禁裏番衆所日記』寶永七年七月十八日辛巳
大覺寺宮・聖護院宮參入。於御學問所拜龍顏(依關東下向也)。賜天盃。・・・・・
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寶永七年(一七一〇)閏八月六日、關東より上洛により參内。
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寶永七年(一七一〇)より病惱。
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病惱により林丘寺宮の里坊において保養す。
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『基長卿記』正コ元年六月四日
大覺寺宮此間御病惱、依是於林丘寺宮京屋敷御保養云々。端以使窺御機嫌。少々御快由也。或語御大病難治之由、先當只今被御替由也。
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『基長卿記』正コ二年八月六日
大覺寺宮此間御惱不可然之由傳聞。爲窺御機嫌、以使申入。御惱病云々。
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正コ二年(一七一二)八月十四日、死亡。
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『基熈公記』正コ二年八月十五日丙寅
風聞。大覺寺宮昨日遷化云々。無常迅速々々。先日以來有所勞。仍以使訊之。今日無常、殘念々々。
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『章弘宿禰記』正コ二年八月十六日
大覺寺宮二品性應法親王(御年廿三)薨去。實ハ一昨十四日事切畢。宮中依御~事今日及御沙汰。
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『基長卿記』正コ二年八月十五日
大覺寺宮薨去ニ候。爲御心得申入候。御相番中江可被相達候。追申禁中者御~事故未及御沙汰候也。・・・・・ 抑此宮從去々年御病惱、漸而令得少快之處、今度又御病惱(疫疾云々)、終以令遷化給。近年院皇子皇女等連續薨去。殊女院御事、彼云此云凶事相續。不可然事也。
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『院中番衆所日記』正コ二年八月十五日
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正コ二年(一七一二)八月十六日、薨去(發喪)。二十三歳。
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『章弘宿禰記』正コ二年八月十六日
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『基長卿記』正コ二年八月十六日
觸來云。依大覺寺宮薨去、從今日至十八日朝廢朝之由、自議奏中申來之間、御相番中江可相達之也。則相傳了。
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『輝光卿記』正コ二年七【八】月十六日
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清水正健『皇族考證』五ノ三一二頁
本書【『輝光卿記』】は、薨日を十六日とし、下出章弘記は、十四日とせり、十六日は發喪日なるべく、十四日は傳聞の誤ならむ、大覺寺門跡略記及次第御系譜等に、十五日とあるを正とすべし、
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正コ二年(一七一二)八月二十七日、北嵯峨(大澤北)に葬られる。謚「後佛母心寺」
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『桂宮日記』正コ二年八月廿七日戊寅
遣使於(伴正明)嵯峨、令見送大覺寺性應法親王送葬。御出門酉下刻。葬于大澤北。謚號「後佛母心寺」。行年二十有三。
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『院中番衆所日記』正コ二年八月廿七日
後佛母心寺宮今日(盡七日)。依之(御香奠白銀五十兩)被遣于御本坊(正逸)持參之。
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