大覚寺宮 性応法親王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[性應]

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【僧】性應親王
 
 大覺寺門跡(一八)
 
 もと
寛敦親王 ひろあつ
 
【幼稱】
 「八十宮
 「澤宮」 さわのみや
 
【法號】
 「後佛母心寺
 
【出自】
 靈元院の男子。
『御系譜』靈元院の子
性應親王(二品。大覺寺。性眞法親王資)。母菅中納言局。元祿三年十一月八日生。號八十宮。後澤宮。四年五月十六日爲大覺寺附弟。・・・・・ 十三年八月廿一日親王宣下。俗名寛敦。十月十一日得度(十一歳)。・・・・・ 正コ二年八月十五日寂(二十三歳)。號後佛母心院(【傍注】寺イ)。・・・・・
 
【母】
 菅原朝臣經子
 「菅中納言局」
 菅原朝臣爲庸[五條]の女子。
 作宮[常磐井宮]、元秀[林丘寺宮]の母。
 享保元年(一七一六)八月十三日死去。
 
【法統】
 
性眞親王の附弟
 
【經歴】
元祿三年(一六九〇)十一月八日寅刻、誕生。
『基量卿記』元祿三年九月十六日
雨下。菅中納言局着帶也。・・・・・
『基量卿記』元祿三年十一月八日
リ。寅刻、菅中納言之【『皇族考證』之ナシ】局若宮御誕生之由也。則參入。御母子成程無異義御渡之由也。珍重々々。又參院。於御燒火間拜龍顔珍重申入。御機嫌之事也。・・・・・
『季連宿禰記』元祿三年十一月八日
『院中番衆所日記』元祿三年十一月八日
今曉若宮御誕生。
『无上法院宮日記』元祿三年十一月八日乙未
かん中納言殿、若宮たんじやうのよしゆへ、御よろこびに仙洞へ文まいらす。かん中納言へもおなじ。
「八十宮」
幼稱「八十宮」。
『院中番衆所日記』元祿三年十二月九日
今日依御伊美明、八十宮御參。供奉下北面(宗堅、致直)、御待六人。
「澤宮」
元祿三年(一六九〇)十二月十一日、稱號を「澤宮」と改める。
『院中番衆所日記』元祿三年十二月十一日
以八十宮被改澤宮。
「澤宮」[大覺寺附弟]
元祿四年(一六九一)五月十五日、大覺寺門跡性眞親王の附弟となる。
『基量卿記』元祿四年五月十六日
澤宮大覺寺御附弟義、公武時宜無別儀、昨日被仰出候由。珍重々々。
『院中番衆所日記』元祿四年五月十六日
大覺寺參入(澤宮御附弟之御禮)。於御書院御對面。天盃頂戴。・・・・・
元祿四年(一六九一)十二月十二日、髪置。
『基量卿記』元祿四年十二月十二日
澤宮御方御髪置也。・・・・・
元祿五年(一六九二)十一月二十四日、色直。
『基量卿記』元祿五年十一月二十四日
今日澤宮御色直也。依之東向逗留於菅中納言殿局、有御祝儀云々。・・・・・
元祿七年(一六九四)十一月二十八日、深曾木。
『院中番衆所日記』元祿七年十二月廿八日
澤宮御深曾木(巳刻)。・・・・・
「澤宮」[大覺寺門跡]
元禄九年(一六九六)正月四日、大覺寺門跡性眞親王の薨去をうけて、大覺寺門跡となる。
元祿九年(一六九六)九月十五日、里坊へ移る。
『院中番衆所日記』元祿九年九月十五日
今日澤宮御方移徙於里坊。・・・・・
元祿十一年(一六九八)三月十八日、紐直。
『仙洞女房日記』元祿十一年三月十六日
さわの宮ノ御かた御ひもなをしに付、御ひりんず、御ねもじ、御つけおびまいる。
『仙洞女房日記』元祿十一年三月十八日
さわの宮の御かた御ひもなをしにて、かん中納言殿より御かちん二か三しゆしん上【二荷三種進上】。女院の御かたより御ひもなをしの御しうぎに御なままいる。
『仙洞女房日記』元祿十一年三月廿一日
さわの宮の御かた御ひもなをしの御禮になる。つねの御所にて御さかづき二こんまいる。かん中納言殿へも御さかづきたぶ。さわの宮の御かた御ちより御かちん一ふた、御てうし、ひさげ、御まな一折しん上。かん中納言殿御ちへおりがみたぶ。
元祿十一年(一六九八)十月二十七日、嵯峨大覺寺より里坊へ移る。
『資廉日記』元祿十一年十月廿七日
元祿十二年(一六九九)十一月二十四日、嵯峨御所の離亭へ移る。
『大覺寺門跡略記』「二品親王性應」
元祿十二年十一月廿四日、遷于嵯峨御所離亭。
寛敦親王 [大覺寺門跡]
元祿十三年(一七〇〇)八月二十一日、親王宣下
少外記平田家記録 K70-6
『基量卿記』元祿十三年八月十八日
『基量卿記』元祿十三年八月廿一日
未刻參。澤宮今日親王宣下也。奉行頭中將髓キ朝臣【鷲尾】。上卿今城中納言【定經】。辨(【右傍】非職權辨)u光【裏松】。勅別當前源中納言(通躬卿【中院】。・・・・・)。申刻儀了。・・・・・
『季連宿禰記』元祿十三年八月廿一日辛巳
今日申刻澤宮(【振假名】サワノミヤ)御方(仙洞皇子。(【傍】五條)菅中納言故爲庸卿女。菅中納言局云々。今年御十一才。大覺寺門跡御相續也)有親王宣下之事。・・・・・
一、御名字高檀紙之折紙中央二字寛敦被書之。御名字寛敦(【振假名】ひろあつ)云々。
『日野西國豐日記』元祿十三年八月廿一日
天リ或陰不定。大覺寺宮御童形今日申上刻親王宣下。於陣有宣下事。
『院中番衆所日記』元祿十三年八月廿一日
澤宮親王宣下。爲御祝儀今日被進上。
・・・・・
『親王宣下記』元祿十三年八月廿一日
『少外記平田家記録』K70-6
性應親王 [大覺寺門跡]
元祿十三年(一七〇〇)十月十一日、大覺寺に入寺、得度。
『基量卿記』元祿十三年九月廿九日
澤宮今日爲御暇乞令參内院給。・・・・・
『仙洞女房日記』元祿十三年十月七日
澤の宮の御方御ちごおしみ【御稚兒惜】になる。・・・・・
『院中番衆所日記』元祿十月十一日
今日寛敦親王入室于大覺寺(從御借房御出(覺勝院寺))。・・・・・
『基量卿記』元祿十三年十月十一日庚午
寅下刻發駕參大覺寺。宮今日入室得度也。・・・・・
『季連宿禰記』元祿十三年十月十一日
『仙洞女房日記』元祿十三年十月十一日
澤の宮の御かた御とく度御祝義に黄金十兩、一荷二しゆまいる。
『仙洞女房日記』元祿十三年十月廿一日
大かくじの宮はじめて御院參。・・・・・
寶永六年(一七〇九)五月十二日、二品に敍される。
『禁裏番衆所日記』寶永六年五月十二日壬午
大覺寺性應親王二品宣下(消息)。上卿園大納言、職事左少辨治房。・・・・・・
『院中番衆所日記』寶永六年五月十二日
大覺寺宮今日二品宣下。・・・・・・
『桂宮日記』寶永六年五月十二日壬午
今日大覺寺宮二品宣下也(於御本坊有其儀)。仍遣使被賀之。
『基長卿記』寶永六年五月十二日
今日性應法親王(大覺寺宮)二品宣下云々。園大納言爲上卿之由或語之。
寶永七年(一七一〇)七月十八日、關東下向により參内。
『禁裏番衆所日記』寶永七年七月十八日辛巳
大覺寺宮・聖護院宮參入。於御學問所拜龍顏(依關東下向也)。賜天盃。・・・・・
寶永七年(一七一〇)閏八月六日、關東より上洛により參内。
『禁裏番衆所日記』寶永七年閏八月六日戊辰
大覺寺宮參入(自關東上洛被窺天氣)。
寶永七年(一七一〇)より病惱。
『基熈公記』正コ二年八月十日辛酉
大覺寺宮去年以來所勞、至昨今大切云々。
病惱により林丘寺宮の里坊において保養す。
『基長卿記』正コ元年六月四日
大覺寺宮此間御病惱、依是於林丘寺宮京屋敷御保養云々。端以使窺御機嫌。少々御快由也。或語御大病難治之由、先當只今被御替由也。
『基長卿記』正コ二年八月六日
大覺寺宮此間御惱不可然之由傳聞。爲窺御機嫌、以使申入。御惱病云々。
正コ二年(一七一二)八月十四日、死亡。
『基熈公記』正コ二年八月十五日丙寅
風聞。大覺寺宮昨日遷化云々。無常迅速々々。先日以來有所勞。仍以使訊之。今日無常、殘念々々。
『章弘宿禰記』正コ二年八月十六日
大覺寺宮二品性應法親王(御年廿三)薨去。實ハ一昨十四日事切畢。宮中依御~事今日及御沙汰。
『基長卿記』正コ二年八月十五日
大覺寺宮薨去ニ候。爲御心得申入候。御相番中可被相達候。追申禁中者御~事故未及御沙汰候也。・・・・・ 抑此宮從去々年御病惱、漸而令得少快之處、今度又御病惱(疫疾云々)、終以令遷化給。近年院皇子皇女等連續薨去。殊女院御事、彼云此云凶事相續。不可然事也。
『院中番衆所日記』正コ二年八月十五日
大覺寺宮薨去。依之洞中物音停止。
正コ二年(一七一二)八月十六日、薨去(發喪)。二十三歳。
『章弘宿禰記』正コ二年八月十六日
『基長卿記』正コ二年八月十六日
觸來云。依大覺寺宮薨去、從今日至十八日朝廢朝之由、自議奏中申來之間、御相番中可相達之也。則相傳了。
『輝光卿記』正コ二年七【八】月十六日
清水正健『皇族考證』五ノ三一二頁
本書【『輝光卿記』】は、薨日を十六日とし、下出章弘記は、十四日とせり、十六日は發喪日なるべく、十四日は傳聞の誤ならむ、大覺寺門跡略記及次第御系譜等に、十五日とあるを正とすべし、
正コ二年(一七一二)八月二十七日、北嵯峨(大澤北)に葬られる。謚「後佛母心寺」
『桂宮日記』正コ二年八月廿七日戊寅
遣使於(伴正明)嵯峨、令見送大覺寺性應法親王送葬。御出門酉下刻。葬于大澤北。謚號「後佛母心寺」。行年二十有三。
『院中番衆所日記』正コ二年八月廿七日
後佛母心寺宮今日(盡七日)。依之(御香奠白銀五十兩)被遣于御本坊(正逸)持參之。
 
【墓所】
 京都府京都市右京區北嵯峨山王町 大覺寺墓地 性應親王墓
 寶篋印塔「後佛母心寺殿二品大王性應」
 
【文獻等】
清水正健『皇族考證』五ノ三一二〜三一三頁
稿本靈元天皇實録』一一八六〜一一九八頁「皇子性應親王」


 
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更新日時:2024.06.15.
公開日時:2024.06.08.

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