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元祿九年(一六九六)七月三日、誕生。
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『院中番衆所日記』元祿九年七月三日
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『基量卿記』元祿九年七月四日
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「龜宮」
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元祿九年(一六九六)七月九日、七夜。
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『執次詰所御系譜』靈元院の子「皇女(林丘寺比丘尼元秀)」
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『基量卿記』元祿九年七月九日
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元祿十年(一六九七)八月十六日、中御靈社に宮參。
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『院中番衆所日記』元祿十年八月十六日
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『御湯殿上日記』元祿十年八月十六日
かめの宮ノ御かた御宮參まいりにて、こわく御、御てうし、ひさげ、御まなまいる。
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元祿十年(一六九七)八月十七日、髪置。
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『御湯殿上日記』元祿十年八月十七日
かめの宮ノ御かた御くしおきにて、御かちん、御てうし、ひさげ、御まなまいる。
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『仙洞女房日記』元祿十年八月十七日
かめの宮ノ御かた御くしおきにて、かん中納言殿より二しゆ二か、御かちんしん上。・・・・・
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元祿十一年(一六九八)十二月二日、色直。
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『仙洞女房日記』元祿十一年十二月二日
かめの宮ノ御かた御いろなをしにて、かん中納言殿より二荷二しゆ、かちん一折しん上。・・・・・
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元祿十三年(一七〇〇)十二月十一日、深曾木。
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『院中番衆所日記』元祿十三年十二月十一日
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『仙洞女房日記』元祿十三年十二月十一日
かめの宮ノ御かた御ふかそぎにて、御びんおや、おほいのみかど前右大じん殿なり。・・・・・
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寶永四年(一七〇七)十二月二十一日、林丘寺宮玄瑤(光子内親王)の附弟に治定。
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松嶺元秀
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寶永四年(一七〇七)十二月二十七日、林丘寺へ入室、得度。十二歳。
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『院中番衆所日記』寶永四年十二月廿七日
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『輝光卿記』寶永四年十二月廿七日
今日林宮寺【林丘寺】宮御弟子仙洞姫宮(菅中納言御腹)御入寺得度。
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『諸寺院上申』林丘寺法内親王御事書類
一、十二月【寶永四年】廿七日辰刻御入寺。即日申刻得度。御戒師ハ即法内親王也。龜之宮御年十二歳也。法諱元秀。道號松嶺。
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寶暦二年(一七五二)六月四日、廱瘡のため死亡。
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『諸寺院上申』林丘寺歴代録「當寺二代普光院宮松嶺元秀和尚大禪師」
一、寶暦二年六月七日薨(實ハ四日)。歳五十七。號普光院宮。御葬所前同斷。
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『通兄公記』寶暦二年六月七日丙申
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寶暦二年(一七五二)六月七日、「薨去」(發喪)。五十七歳。
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『御湯殿上日記』寶暦二年六月七日
雨。林丘寺宮【元秀】御所勞。御りやうぢ【療治】かなひ參らせられず、御やうだい書出ル。薨去成候よし御おもてより申入らるゝ。こよひより三日のうち物音うち候事とめらるゝ。はいちやう【廢朝】御つゝしみにもおよび不申候。
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『稙房卿記』寶暦二年六月七日丙申
依林宮寺宮【林丘寺宮元秀】薨、自今日至九日三ヶ日宮中被止物音云々。
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『通兄公記』寶暦二年六月七日丙申
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『桂宮日記』寶暦二年六月七日丙申
從林丘寺宮書付壹通到來。兼而御違例御大切之處、盡醫術、今酉刻薨去云々(御壽五十六云々)。
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寶暦二年(一七五二)六月十五日、葬送。
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『桂宮日記』寶暦二年六月十五日甲辰
遣於御見送使勧覺寺村了(源政重)。就林丘寺宮御葬送也(御葬送酉刻)。
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『伏見宮日記』寶暦二年六月十五日
林丘寺宮今宵御葬送ニ而從兩御所樣御見送。・・・・・ 普光院殿松嶺尼公和尚大禪師ト云々。
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