林丘寺宮 元秀女王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[元秀]

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【尼】元秀
 
 林丘寺宮(二)
 
【稱號】
 「
龜宮
 
【法號】
 「普光院宮
 
【出自】
 靈元院の女子。
 
【生母】
 菅原朝臣經子
 「菅中納言局」
 菅原朝臣爲庸[五條]の女子。
 作宮[常磐井宮]、性應親王[大覺寺宮]の母。
 享保元年(一七一六)八月十三日死去。
 
【法統】
 玄瑤
(光子内親王)の資。
 
【經歴】
元祿九年(一六九六)七月三日、誕生。
『院中番衆所日記』元祿九年七月三日
今朝姫宮御降誕(菅中納言御局御腹)。
『基量卿記』元祿九年七月四日
菅中納言昨朝御平産。姫宮云々。・・・・・
「龜宮」
元祿九年(一六九六)七月九日、七夜。
『執次詰所御系譜』靈元院の子「皇女(林丘寺比丘尼元秀)」
元祿九年七月三日生。號龜宮。
『基量卿記』元祿九年七月九日
一、菅中納言姫宮御七夜也。・・・・・
元祿十年(一六九七)八月十六日、中御靈社に宮參。
『院中番衆所日記』元祿十年八月十六日
龜宮御方御宮參(中御靈社)。・・・・・
『御湯殿上日記』元祿十年八月十六日
かめの宮ノ御かた御宮參まいりにて、こわく御、御てうし、ひさげ、御まなまいる。
元祿十年(一六九七)八月十七日、髪置。
『御湯殿上日記』元祿十年八月十七日
かめの宮ノ御かた御くしおきにて、御かちん、御てうし、ひさげ、御まなまいる。
『仙洞女房日記』元祿十年八月十七日
かめの宮ノ御かた御くしおきにて、かん中納言殿より二しゆ二か、御かちんしん上。・・・・・
元祿十一年(一六九八)十二月二日、色直。
『仙洞女房日記』元祿十一年十二月二日
かめの宮ノ御かた御いろなをしにて、かん中納言殿より二荷二しゆ、かちん一折しん上。・・・・・
元祿十三年(一七〇〇)十二月十一日、深曾木。
『院中番衆所日記』元祿十三年十二月十一日
龜宮深曾木。依之前右大臣參入。被召御内儀。
『仙洞女房日記』元祿十三年十二月十一日
かめの宮ノ御かた御ふかそぎにて、御びんおや、おほいのみかど前右大じん殿なり。・・・・・
寶永四年(一七〇七)十二月二十一日、林丘寺宮玄瑤(光子内親王)の附弟に治定。
『院中番衆所日記』寶永四年十二月廿一日
今度龜宮御方林丘寺宮御弟子御治定。・・・・・
松嶺元秀
寶永四年(一七〇七)十二月二十七日、林丘寺へ入室、得度。十二歳。
『院中番衆所日記』寶永四年十二月廿七日
今日龜宮御方入室御得度也。・・・・・
『輝光卿記』寶永四年十二月廿七日
今日林宮寺【林丘寺】宮御弟子仙洞姫宮(菅中納言御腹)御入寺得度。
『諸寺院上申』林丘寺法内親王御事書類
一、十二月【寶永四年】廿七日辰刻御入寺。即日申刻得度。御戒師ハ即法内親王也。龜之宮御年十二歳也。法諱元秀。道號松嶺。
寶暦二年(一七五二)六月四日、廱瘡のため死亡。
『諸寺院上申』林丘寺歴代録「當寺二代普光院宮松嶺元秀和尚大禪師」
一、寶暦二年六月七日薨(實ハ四日)。歳五十七。號普光院宮。御葬所前同斷。
『通兄公記』寶暦二年六月七日丙申
寶暦二年(一七五二)六月七日、「薨去」(發喪)。五十七歳。
『御湯殿上日記』寶暦二年六月七日
雨。林丘寺宮【元秀】御所勞。御りやうぢ【療治】かなひ參らせられず、御やうだい書出ル。薨去成候よし御おもてより申入らるゝ。こよひより三日のうち物音うち候事とめらるゝ。はいちやう【廢朝】御つゝしみにもおよび不申候。
『稙房卿記』寶暦二年六月七日丙申
依林宮寺宮【林丘寺宮元秀】薨、自今日至九日三ヶ日宮中被止物音云々。
『通兄公記』寶暦二年六月七日丙申
林丘寺宮薨去云々(廱瘡云々)。
『桂宮日記』寶暦二年六月七日丙申
從林丘寺宮書付壹通到來。兼而御違例御大切之處、盡醫術、今酉刻薨去云々(御壽五十六云々)。
寶暦二年(一七五二)六月十五日、葬送。
『桂宮日記』寶暦二年六月十五日甲辰
遣於御見送使勧覺寺村了(源政重)。就林丘寺宮御葬送也(御葬送酉刻)。
『伏見宮日記』寶暦二年六月十五日
林丘寺宮今宵御葬送ニ而從兩御所樣御見送。・・・・・ 普光院殿松嶺尼公和尚大禪師ト云々。
 
【墓所】
 京都府京都市左京區一乘寺葉山 林丘寺宮墓地 元秀女王墓
 無方塔「林丘第二世普光院宮松嶺元秀尼和尚大禪師」
 
【文獻等】
稿本靈元天皇實録』一二一〇〜一二一五頁「皇女元秀」
稿本桃園天皇實録』四四五頁 寶暦二年六月七日「林丘寺宮元秀(靈元天皇皇女)ノ薨去ニ依リ、是日ヨリ三箇日間、物音ヲ停メラル、」


 
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公開日時:2024.06.18.

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