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一一五六年(久壽三年/保元元年)生。
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永萬元年(一一六五)七月二十七日、六條院の即位式において、左褰帳を勤仕。十歳。
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『顯廣王記』永萬元年七月廿七日甲戌
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『顯廣王記』永萬元年七月廿七日甲戌裏書
今日御即位也(御年二歳)。午二點行幸八省、中宮同輿也。申二點令付高御倉御。内辯左大臣。二省參入賜位記。此間雨下、或差笠、或不差。褰帳參上。開門了。惣禮之間、人數不足之由。藏人辨加勘發之間、已秉燭。此間雨脚彌増。及K暗了。褰帳退之後、大略儀式散々。・・・・・ 抑女子參褰帳(十歳)。頗雖申辭退、敢難遁。仍今曉參入東廊宿所了。・・・・・
此事、家勤三代也。及四箇度也(彈正宮【C仁親王】御女C子女王/伯殿【康資王】女仁子女王/僕【顯廣王】女二人也(顯子女王/ヽヽ))。
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續史料大成本『伯家五代記』所收『顯廣王記』永萬元年七月廿七日
[※六條院]御即位。御歳二歳。裏書【校訂者注「註文カ」】ニ御即位之事アル。
(裏書アリ)。此事、家勤三代也。及四箇度也(彈正宮【C仁親王】御女C子女王、伯殿【康資王】女仁【校訂者注「信」】子女王)。(示)。装束ノ事等アリ。略之(綾女二人也。顯子女王【顯廣王の女】)。
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雅光王『褰帳女王年之例』(宮内廳書陵部所藏 白川家記録)「褰帳女王年之例」
六条院 永万元七廿七御即位
左信子女王顕廣王女十才
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「三代」「四箇度」とは、
(1) C仁親王の女子が@後冷泉院褰帳(C子女王/永子女王)
(2) 康資王の女子がA鳥羽院褰帳(源朝臣仁子)
(3) 顯廣王の女子がB後白河院褰帳(顯子女王)とC六條院褰帳
となる。よって、白川家の系圖に見える信子女王(C仁親王の女子。後三條院・白河院褰帳)は誤りである可能性が高い(『天祚禮祀職掌録』にも信子女王ではなく「小一條院女王」と見える)。
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C仁親王の女子は、系圖には、永子女王(後冷泉院褰帳)と信子女王(後三條院・白河院褰帳)が見えるが、C子女王は不見。信子女王は系圖の誤りである可能性が高く、永子女王がC子女王に比定されるものと考えられる。
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此處に見える仁子女王は、源朝臣仁子(康資王の女。鳥羽院褰帳)。校訂者が「信子女王」と訂正したのには從う必要がない。康資王の女に「信子女王」が存在するとは確認できない。
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永萬元年(一一六五)十一月九日、六條院御即位敍位において、「昨子女王」として從五位下に敍される。しかし、後三條院褰帳女王(のち女御)と同名であるため、「信子」と改名する。
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『顯廣王記』永萬元年十一月九日甲寅
御即位【※六條院】女敍位也。・・・・・ 姫御前【顯廣王の女子】敍從五位下。其名「昭子【昨子か】」也。而依相當後三條院女御、有沙汰、被改「信子」。
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續史料大成本『伯家五代記』所收『顯廣王記』永萬元年十一月九日
御即位【※六條院】女敍位也。・・・・・ 姫御前【顯廣王の女子】敍從五位。其名「昨子」也。而依相當後三條院女御、有沙汰、被改「信子」。
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此處に見える「後三條院女御」の「昨子」とは、後三條院・白河院褰帳女王の「小一條院女王」(『天祚禮祀職掌録』)に當ると考えられる。白川家の系圖によると、後三條院・白河院褰帳女王はC仁親王の女の信子女王となっているが、これは誤りであると考えられる。
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仁安二年(一一六七)二月十八日、後白河院のもとに參ず。
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仁安二年(一一六七)三月十六日、後白河院のもとより退出。
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安元三年(一一七七)二月二十二日、熊野參詣に出發するため、精進の宅に入る。
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『顯廣王記』安元三年二月廿二日壬辰
姫御前入熊乃【熊野】精進宅(向陰陽家。女房五人、侍五人。陰陽其中也)。
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安元三年(一一七七)三月十七日、熊野參詣より歸る。
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治承二年(一一七八)五月十五日、供花のため、後白河院のもとに參ずる。
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治承二年(一一七八)十月二十七日、高倉院の典侍に補される。
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『顯廣王記』治承二年十月廿七日丁已「姫御前仰拜典侍事」
今夕有除目。以姫君【信子女王】被補典侍了。是一家之風也。夕方、藏人左少辨兼光、奉天命尋名字。「從五位下信子女王」之由注進了。
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續史料大成本『伯家五代記』所收『顯廣王記』治承二年十月廿七日
今夕有除目。以姫君【信子女王】被補典侍了。是一家之風也。夕方、藏人左少弁兼光、奉天命尋名字。「從五位下信子女王」之由注進。亥時大外記中原師尚自陣來、拜慶賀之由。可云興感。
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治承二年(一一七八)十一月十八日、參内。
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『顯廣王記』治承二年十一月十八日丁丑
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續史料大成本『伯家五代記』所收『顯廣王記』治承二年十一月十八日
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