慈悲心院
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女御[准三后] のちの新皇嘉門院[贈皇后] 藤原朝臣政煕[鷹司]の女子。 |
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文政六年(一八二三)四月一日未刻頃または二日巳半刻、誕生。即日、死亡。
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文政六年(一八二三)四月三日、發喪。
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文政六年(一八二三)四月十日、法號を「慈悲心院」と稱せられ、同日酉刻、入棺。
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文政六年(一八二三)四月二十五日戌刻、葬送。
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猪熊兼繁「維新前の公家」によると、妊娠中の女御藤原繋子は、文政六年(一八二三)の四月に、後宮の縁側で轉倒、皇女「慈悲心院」を出産したが、母子共に死亡した。その縁側は、十二年前の文化八年(一八一一)の四月に、光格天皇の後宮、菅原朝臣和子(菅原朝臣益長[東坊城]の女子)が轉倒し、皇女「靈妙心院」を出産して母子共に死亡し、その後、「毎晩、白衣に黒髪をたれ、乳のみ子をだいた幽霊が現れた」、という所であった。しかも皇女の法號が共に「・・・・・心院」と同じであることに「当時の公家たちは驚いた。やはり先年の菅原和子の怨霊がたたった、いや女御も同じ幽霊で現われた、などといって恐れた。そこで、その現場に霊社を設け、両事件の方々の霊をまつられた。もう幽霊もでなくなったが、その当時の殿舎は嘉永に焼けて同じ様式で安政に再建されても、この霊社はまた再興されてまつられていた」。明治天皇が東京に移ってからは、「この宮中の怪談も旧弊とされたものか、あの霊社はそのままに京都御所の旧所に放置されて、祭られることもなかった。ところが、明治天皇の後宮では皇子の御誕生はあっても成長されなかった。京都在住の冷泉為紀はじめ旧公家たちは、これはやはりあの霊社のたたりかも知れないといいはじめ、この霊社のお祭を再興してその神霊を御所の産土神である上御霊神社に移した。そして、東京のお内儀からもお使がきて祭られた。やがて、大正天皇が御誕生になった」、という。
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『稿本仁孝天皇實録』 一六一一〜一六一四頁「皇女某」 |
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