慈悲心院


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[慈悲心院]

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慈悲心院
 
【出自】
 
仁孝天皇の女子。
 
【母】
 藤原朝臣繋子
 女御[准三后]
 のちの新皇嘉門院[贈皇后]
 藤原朝臣政煕[鷹司]の女子。
 
【經歴】
文政六年(一八二三)四月一日未刻頃または二日巳半刻、誕生。即日、死亡。
『禁裏執次詰所日記』文政六年四月朔日庚子
『禁裏執次詰所日記』文政六年四月二日辛丑
『平田職寅日記』文政六年四月二日辛丑
稿本仁孝天皇實録』一六一二頁〔按〕に、
皇女某ノ誕生日次、平田職寅日記ニ據レバ一日ノ如キモ、今姑ク禁裏執次詰所日記ノ記載ニ從フ、尚ホ夭逝ニ就キテハ本實録女御藤原繋子ノ項ヲ參看スベシ、
とある。
文政六年(一八二三)四月三日、發喪。
『禁裏執次詰所日記』文政六年四月三日壬寅
『光格天皇日次案』文政六年四月三日壬寅
リ。
皇女【慈悲心院】今日(未刻)逝去。
准后【藤原繋子】同日(申半剋)薨去。
就准后薨去、自今日至七日五箇日、洞中被停物音。
爲御使左兵衞督參内、就同上、御氣色被聽食度旨被仰進。
歸參御返答、附于女房言上。
『洞中執次詰所日記』文政六年四月三日壬寅
リ。
一、姫宮樣【慈悲心院】今三日(未剋)御逝去。准后御方【藤原繋子】今三日(申半剋)薨去ニ付、從今三日來七日迄五ヶ日之間廢朝之旨、被仰出候段、傳奏衆被仰渡。同役諸役所申觸、上同役よりも以書面申來。
一、右同斷ニ付今三日より來七日迄五ヶ日之間、洞中被止物音候旨、傳奏衆・評定衆より被仰渡。御内儀よりも被仰出如左申達。
『實久卿記』文政六年四月三日壬寅
リ。皇女【慈悲心院】今未剋逝去。准后御方【藤原繋子】今申剋薨去。御年二十七歳也。依之自今日五ヶ日廢朝。洞中・大宮等被止物音了。自來十一日觸穢云々。
稿本光格天皇實録』一八八六〜一八八七頁 文政六年四月三日、「仁孝天皇ノ皇女竝ニ准后藤原繋子、薨ズ、仍ツテ是日ヨリ五箇日間、物音ヲ停メラル、」
文政六年(一八二三)四月十日、法號を「慈悲心院」と稱せられ、同日酉刻、入棺。
『禁裏執次詰所日記』文政六年四月十一日庚戌
『洞中執次詰所日記』文政六年四月十一日庚戌
文政六年(一八二三)四月二十五日戌刻、葬送。
『禁裏執次詰所日記』文政六年四月廿五日甲子
 
【墓所】
 泉涌寺雲龍院
 
【逸事等】
猪熊兼繁「維新前の公家」によると、妊娠中の女御藤原繋子は、文政六年(一八二三)の四月に、後宮の縁側で轉倒、皇女「慈悲心院」を出産したが、母子共に死亡した。その縁側は、十二年前の文化八年(一八一一)の四月に、光格天皇の後宮、菅原朝臣和子(菅原朝臣益長[東坊城]の女子)が轉倒し、皇女「靈妙心院」を出産して母子共に死亡し、その後、「毎晩、白衣に黒髪をたれ、乳のみ子をだいた幽霊が現れた」、という所であった。しかも皇女の法號が共に「・・・・・心院」と同じであることに「当時の公家たちは驚いた。やはり先年の菅原和子の怨霊がたたった、いや女御も同じ幽霊で現われた、などといって恐れた。そこで、その現場に霊社を設け、両事件の方々の霊をまつられた。もう幽霊もでなくなったが、その当時の殿舎は嘉永に焼けて同じ様式で安政に再建されても、この霊社はまた再興されてまつられていた」。明治天皇が東京に移ってからは、「この宮中の怪談も旧弊とされたものか、あの霊社はそのままに京都御所の旧所に放置されて、祭られることもなかった。ところが、明治天皇の後宮では皇子の御誕生はあっても成長されなかった。京都在住の冷泉為紀はじめ旧公家たちは、これはやはりあの霊社のたたりかも知れないといいはじめ、この霊社のお祭を再興してその神霊を御所の産土神である上御霊神社に移した。そして、東京のお内儀からもお使がきて祭られた。やがて、大正天皇が御誕生になった」、という。
猪熊兼繁「維新前の公家」(『明治維新のころ』(朝日新聞社、昭和四十三年(一九六八)十一月)所收)九六〜九七頁
 
【文獻等】
稿本仁孝天皇實録』 一六一一〜一六一四頁「皇女某」


 
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公開日時: 2013.03.24.
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