三方王
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舍人親王の子と作すは誤り。 |
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天平二十一年/天平感寶元年(七四九)四月十四日、大佛殿行幸の日、無位から從五位下に敍される。
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天平勝寶九歳(七五七)六月二十三までに大監物に任じられる。
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天平勝寶九歳(七五七)六月二十三日、大監物三形王(三方王)宅において宴あり、大伴宿禰家持が「移りゆく 時みるごとに 心いたく 昔の人し 思ほゆるかも」と作歌。
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天平寶字元年(七五七)十二月二十八日、大監物三形王(三方王)宅において宴あり、「みゆき降る 冬は今日のみ 鶯の 鳴かむ春へは 明日にしあるらし」と作歌。また、甘南備眞人伊香(もと伊香王)は「うちなびく 春を近みか ぬばたまの 今夜の月夜 かすみたるらむ」と、大伴宿禰家持は「あらたまの 年ゆきかへり 春たたば まづ我が宿に 鴬は鳴け」と作歌。
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年月不詳であるが、大監物御方王(三方王)、大伴宿禰家持、甘南備眞人伊香(もと伊香王)が歌題「屬目山齋」の歌題で、それぞれ「鴛鴦(をし)の住む 君がこのしま 今日見れば 馬酔木(あしび)の花も 咲きにけるかも」「池水に 影さへ見えて 咲き匂ふ 馬酔木(あしび)の花を 袖にこきれな」「磯影の 見ゆる池水 照るまでに 咲ける馬酔木(あしび)の 散らまく惜しも」と作歌。
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淡路廢帝(淳仁天皇)の皇位繼承に伴い、天平寶字三年(七五九)六月十六日、從五位下から從四位下に敍される。
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天平寶字三年(七五九)七月三日、木工頭となる。
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惠美押勝(藤原仲麻呂)の亂に坐して官位を剥奪されたと推測される。 | |||||
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寶龜三年(七七二)正月三日、あらためて三世王として無位から從五位下に復敍。
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寶龜三年(七七二)八月十八日、淡路廢帝(淳仁天皇)を淡路に改葬する使となる。
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寶龜五年(七七四)正月七日、從五位下より從五位上に敍される。
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寶龜五年(七七四)三月五日、備前守に任じられる。
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寶龜八年(七七七)正月七日、正五位下に敍される。
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寶龜十年(七七九)正月二十三日、正五位下から從四位下に敍される。
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天應二年(七八二)閏正月十八日、氷上川繼の謀反に坐し、日向介に左遷される。
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天應二年(七八二)三月二十六日、妻 弓削女王らと共に乘輿を厭魅した大罪に坐したが、詔により死一等を減刑され、妻と共に日向に配流される。
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三原王の女子。 天武天皇三世王(もと崇道盡敬皇帝二世) |
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『稿本天武天皇實録』四三八〜四四二頁「皇曾孫御方王」 |
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竹内理三/山田英雄/平野邦雄 編 『日本古代人名辭典』第六卷 1642頁上 「三方王」 |
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竹内理三/山田英雄/平野邦雄 編 『日本古代人名辭典』第六卷 1642頁中・下 「三形王」 |
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