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延喜十四年(九一四)誕生。
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『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」尻付
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『類聚符宣抄』四「親王皇子賜姓」
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源朝臣兼明
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延喜二十年(九二〇)十二月二十八日、源朝臣を賜姓される。八歳。
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『貞信公記抄』延喜二十年十二月廿五日
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『貞信公記抄』延喜二十年十二月廿八日
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『日本紀略』延喜二十年十二月二十八日
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『扶桑略記』延喜廿年十二月廿八日
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『類聚符宣抄』四「親王皇子賜姓」
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延喜二十一年(九二一)二月五日、左京一條一坊を本貫とする、源朝臣高明を戸主とする戸籍に入れられる。八歳。
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『類聚符宣抄』四「親王皇子賜姓」
太政官符 民部省(承知下中務・式部・大藏・宮内等省)
源朝臣高明(年八) 源朝臣兼明(年八) 源朝臣自明(年四) 源朝臣允明(年三)
源朝臣兼子(年七) 源朝臣雅【ママ】子(年七) 源朝臣嚴子(年六)
右、右大臣宣、奉勅。件七人是皇子也。而依去年十二月廿八日勅書、賜姓、貫左京一條一坊、宜以高明爲戸主者、省宜承知、依宣行之、符到奉行。
左大辨 源悦 左大史 丈部有澤(歟) 延喜廿一年二月五日
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延長七年(九二九)二月十六日、殿上に於いて元服。
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『河海抄』巻第一「桐壺」所引(『岷江入楚』巻一「桐壺」にも所引)『吏部王記』延長七年二月十六日
當代源氏二人【高明・兼明】元服。垂母屋壁代、撤晝御座、其所立椅子爲御座。孫庇第二間有引入左右大臣座。其南第一間置圓座二枚、爲冠者座。・・・・・
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承平二年(九三二)正月七日、一世源氏として從四位上に敍される。
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『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」袖書
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承平二年(九三二)正月十一日、昇殿。
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『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」袖書
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承平二年(九三二)正月二十一日、禁色・雜袍宣旨。
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承平二年(九三二)十月、大嘗會御禊の次侍從となる。
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『北山抄』五「大嘗會御禊事」
承平二年、侍從宗城朝臣奉仕右兵衞督代、以兼明朝臣補次侍從(上卿仰中務輔云。源兼明朝臣、於毛止末不千君仁、乎佐女給云々)。
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承平三年(九三三)正月十二日、播磨權守に任じられる。
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『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」袖書
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天慶二年(九三九)二月一日、右近衞權中將に任じられる。
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『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」袖書
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天慶三年(九四〇)三月二十五日、紀伊權守を兼任。
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『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」袖書
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天慶五年(九四二)三月九日、左近衞權中將に轉任。
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『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」袖書
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天慶七年(九四四)四月九日、參議に任じられる。三十一歳。
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『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」袖書
延木天皇第二源氏(【九條本・前田新寫一本】第十六皇子)。母三木贈三位藤原菅根女(更衣從四位上淑姫)。
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承平二正七從四上(一世)。同十一日昇殿(雑袍)。同三正十二播磨權守【前田新寫一本「播磨守」】。天慶二二一右近權中將。同三年三廿五兼紀伊權守。同五三九【前田新寫一本「廿九」】左近權中將。天慶七年四月九日任三木(昇殿如元)。
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天慶八年(九四五)三月八日、近江權守を兼任。
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『公卿補任』天慶八年 參議 從四位上「源兼明(三十二)」尻付
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天慶八年(九四五)十一月二十五日、治部卿を兼任。
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『公卿補任』天慶八年 參議 從四位上「同【源】兼明(三十二)」尻付
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天慶九年(九四六)正月七日、正四位下に敍される。
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『公卿補任』天慶九年 參議 從三位「源兼明(三十三)」尻付
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天慶九年(九四六)十一月十九日、從三位に敍される。三十三歳。
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『公卿補任』天慶九年 參議 從三位「源兼明(三十三)」尻付
治部卿。近江權守。正月七日正四下。十一月十九日從三位(大嘗會悠紀)。
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『公卿補任』天暦元年 參議 從三位「源兼明(三十四)」尻付
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『公卿補任』天暦二年 參議 從三位「源兼明(三十五)」尻付
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天暦二年(九四八)三月九日、村上天皇の朱雀院行幸に參仕し、御遊に於いて箏を彈奏した。
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『河海抄』「乙通女」所引『李部王記』天暦二年三月九日
歸コ是間、樂所漸遠、絃音不分明。詔右大臣云々。操絃者近候宜歟。右大臣奏之。上皇令召圖書寮御琴。式部卿和琴、余琴、右【左】衞門督(琵琶。高明卿)、治部卿(箏。兼明卿)。又召唱歌數人候南欄。
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『御遊抄』「朝覲行幸」
和琴(式部卿親王)
琴(賜余)
比巴(左衞門督高明)
箏(治部卿兼明)
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天暦三年(九四九)九月二十二日、母藤原淑姫が卒去したため服解。十二月二十八日、復任。
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『公卿補任』天暦三年 參議 從三位「源兼明(三十六)」尻付
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『九暦』天暦三年九月廿二日
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『日本紀略』天暦三年十二月廿八日丁酉
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『公卿補任』天暦四年 參議 從三位「源兼明(三十七)」尻付
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天暦五年(九五一)正月三十日、紀伊權守を兼任。
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『公卿補任』天暦五年 參議 從三位「同【源】兼明(三十八)」尻付
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『公卿補任』天暦六年 參議 從三位「同【源】兼明(三十九)」尻付
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天暦七年(九五三)九月二十五日、權中納言に任じられる。四十歳。
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『公卿補任』天暦七年 權中納言 從三位「同【源】兼明(四十)」尻付
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『公卿補任』天暦八年 權中納言 從三位「同【源】兼明(四十一)」
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天暦九年(九五五)二月十七日、昇殿。
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九條本・前田新寫一本『公卿補任』天暦九年 中納言 從三位「同【源】兼明(四十二)」尻付
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九條本・前田新寫一本『公卿補任』の誤りか。
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天暦九年(九五五)七月二十四日、中納言に轉任。四十二歳。
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『公卿補任』天暦九年 中納言 從三位「同【源】兼明(四十二)」尻付
[【九條本・前田新寫一本】二月十七日聽昇殿]。七月廿四日轉。
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天暦十年(九五六)正月七日、正三位に敍される。
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『公卿補任』天暦十年 中納言 正三位「源兼明(四十三)」尻付
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『公卿補任』天コ元年【九五七】 中納言 正三位「源兼明(四十四)」
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『公卿補任』應和元年【九六一】 中納言 正三位「源兼明(四十八)」
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應和二年(九六二)八月七日、左兵衞督を兼任。
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『公卿補任』應和二年 中納言 正三位「源兼明(四十九)」尻付
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『公卿補任』應和三年 中納言 正三位「源兼明(五十)」尻付
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康保二年(九六五)十月二十八日、致平親王元服の加冠を勤める。
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『御遊抄』御元服「親王御元服加冠以下例」
致平親王、康保二十廿一、於C凉殿
加冠(左兵衞督源兼明卿)
理髪(頭中將源延光朝臣)
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『公卿補任』康保三年 中納言 正三位「源兼明(五十三)」尻付
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康保四年(九六七)正月二十日、權大納言に任じられる。五十四歳。
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『公卿補任』康保四年 大納言 從二位「源兼明(五十四)」尻付
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康保四年(九六七)十月十一日、從二位に敍される。
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『公卿補任』康保四年 大納言 從二位「源兼明(五十四)」尻付
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康保四年(九六七)十二月十三日、大納言に轉任。五十四歳。
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『公卿補任』康保四年 大納言 從二位「源兼明(五十四)」尻付
正月廿日任權大納言。十月十一【九條本・前田新寫一本「十七」】日從二位。十二月十三日轉正。
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『公卿補任』康保五年 大納言 從二位「源兼明(五十五)」
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安和二年(九六九)正月二十七日、侍從を兼任。
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『公卿補任』安和二年 大納言 從二位「源兼明(五十六)」尻付
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安和二年(九六九)三月二十六日、兄 源朝臣高明の失脚に連坐して、昇殿を止められる。
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『公卿補任』安和二年 大納言 從二位「源兼明(五十六)」尻付
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安和二年(九七〇)八月五日、皇太子傅を兼任。
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『公卿補任』安和三年 大納言 從二位「源兼明(五十七)」尻付
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天祿二年(九七一)十一月二日、左大臣に任じられる。五十八歳。
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『公卿補任』天祿二年 大納言 從二位「*源兼明」尻付
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『公卿補任』天祿二年 左大臣 從二位「源兼明(五十八)」尻付
十一月二日任。元大納言。八日東宮傅如元。[【九條本・前田新寫一本】廿四日]勅授帶劒。十一月八日爲藏人所別當。
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「御子左大臣」と稱される。
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天祿二年(九七一)十一月八日、藏人所別當となる。
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『公卿補任』天祿二年 左大臣 從二位「源兼明(五十八)」尻付
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天祿二年(九七一)十一月二十四日、帶劒の宣旨を蒙る。
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『日本紀略』天祿二年十一月廿四日丙辰
今日、二品元長親王輦車、太政大臣牛車、左大臣帶劒宣旨等被下畢。
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九條本・前田新寫一本『公卿補任』天祿二年 左大臣 從二位「源兼明(五十八)」尻付
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天祿三年(九七二)正月三日、天皇(圓融院)元服に於いて理髪を勤める。
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『日本紀略』天祿三年正月三日甲午
天皇於紫宸殿加元服。御年十四。太政大臣【伊尹】加御冠。左大臣【源兼明】理御髪。内藏頭助信朝臣爲能冠。
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◎ | 『大鏡裏書』「圓融院御事」
天祿三年正月三日甲午、於紫宸殿元服(年十四。加冠攝政太政大臣伊尹公。能冠内藏頭助信朝臣。理髪左大臣兼明公)。
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『公卿補任』天祿三年 左大臣 從二位「源兼明(五十九)」尻付
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『公卿補任』天祿四年 左大臣 從二位「源兼明(六十)」尻付
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天延二年(九七四)二月二十八日、輦車を聽される。
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『公卿補任』天延二年 左大臣 從二位「源兼明」尻付
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『公卿補任』天延三年 左大臣 從二位「源兼明(六十二)」尻付
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『公卿補任』天延四年 左大臣 從二位「源兼明」尻付
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兼明親王
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貞元二年(九七七)四月二十一日、親王宣下。二品に敍される。六十四歳。
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『日本紀略』貞元二年四月廿一日辛亥
詔以左大臣從二位源兼明朝臣、正四位下行右兵衞督同昭平朝臣等、爲親王。即敍品。兼明二品、昭平四品。
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『百錬抄』貞元二年四月廿一日
以左大臣源兼明爲親王、敍二品、任中務卿(號御子左)。
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『公卿補任』貞元二年 左大臣 從二位「△源兼明(六十四)」尻付には「四月廿四日有勅爲親王」とある。
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貞元二年(九七七)十二月十日、中務卿に任じられる。
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『公卿補任』貞元二年 左大臣 從二位「△源兼明(六十四)」尻付
皇太子傅。四月廿四【ママ】日有勅爲親王。即敍二品。十二月十日任中務卿。寛和二年正廿五辭卿。永延元九六薨(七十四才)。[【九條本】生年延喜十四甲子。]
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『扶桑略記』貞元二年四月廿四【ママ】日
左大臣源兼明、被停大臣職、改爲親王、敍二品、任中務卿【ママ】。年六十二。
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一品に敍される。
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寛和二年(九八六)正月二十五日、上表して中務卿を辭す。時に一品。
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『本朝文粹』五、前中書王「請被停職中務省卿状」
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『公卿補任』貞元二年 左大臣 從二位「△源兼明(六十四)」尻付
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永延元年(九八七)九月二十六日、薨逝。七十四歳。
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『小記目録』二十一「親王女御薨事」
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『日本紀略』永延元年九月廿六日丙戌
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『公卿補任』貞元二年 左大臣 從二位「△源兼明(六十四)」尻付
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『一代要記』三「第六十醍醐天皇」皇子「兼明親王」
二品、中務卿。母同長明。賜源姓。天祿二年十一月二日、任兼春宮傅左大臣、從二位。改爲親王。異本云。貞元二年四月二十四日、改大臣爲親王。二品。中務卿。永延元年九月二十五日薨、前中書王。
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