兼明親王


前頁 「 兼 [兼名A]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[兼明@]

フレームなし

工事中

兼明親王
 もと源朝臣兼明(左大臣 從二位)
 
【官位】
 中務卿
 一品
 
【稱號】
 「
前中書王」「前中書親王
『二中歴』十二「詩人歴」親王
延喜親王(小倉親王/前中書王兼明)
具平親王の「後中書王」に対して「前中書王」と稱される。
『和歌色葉集』上 六名譽歌仙者 親王十八人(附宮)
後撰拾遺
前中書親王 兼明。同帝【醍醐天皇】十六御子。
 「小倉親王
『二中歴』十二「詩人歴」親王
延喜親王(小倉親王/前中書王兼明)
隱棲の地から「小倉親王」と呼ばれた。
 
唐名
 「謙光
『二中歴』十三「名人歴」飜名人
兼明(謙光)
 
【出自】
 醍醐天皇の男子(第二源氏)
 
【母】
 藤原朝臣淑姫
 更衣
 參議藤原朝臣菅根の女子。
 
【經歴】
延喜十四年(九一四)誕生。
『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」尻付
延木十四年甲戌生。
『類聚符宣抄』四「親王皇子賜姓」
源朝臣兼明
延喜二十年(九二〇)十二月二十八日、源朝臣を賜姓される。八歳。
『貞信公記抄』延喜二十年十二月廿五日
定當代源氏。了直物。
『貞信公記抄』延喜二十年十二月廿八日
賜源氏勅書。
『日本紀略』延喜二十年十二月二十八日
賜皇子等源朝臣姓。
『扶桑略記』延喜廿年十二月廿八日
皇子等賜源朝臣姓。
『類聚符宣抄』四「親王皇子賜姓」
延喜二十一年(九二一)二月五日、左京一條一坊を本貫とする、源朝臣高明を戸主とする戸籍に入れられる。八歳。
『類聚符宣抄』四「親王皇子賜姓」
太政官符 民部省(承知下中務・式部・大藏・宮内等省)
  源朝臣高明(年八) 源朝臣兼明(年八) 源朝臣自明(年四) 源朝臣允明(年三)
  源朝臣兼子(年七) 源朝臣雅【ママ】子(年七) 源朝臣嚴子(年六)
右、右大臣宣、奉勅。件七人是皇子也。而依去年十二月廿八日勅書、賜姓、貫左京一條一坊、宜以高明爲戸主者、省宜承知、依宣行之、符到奉行。
     左大辨 源悦   左大史 丈部有澤(歟)        延喜廿一年二月五日
延長七年(九二九)二月十六日、殿上に於いて元服。
『河海抄』巻第一「桐壺」所引(『岷江入楚』巻一「桐壺」にも所引)『吏部王記』延長七年二月十六日
當代源氏二人【高明・兼明】元服。垂母屋壁代、撤晝御座、其所立椅子爲御座。孫庇第二間有引入左右大臣座。其南第一間置圓座二枚、爲冠者座。・・・・・
承平二年(九三二)正月七日、一世源氏として從四位上に敍される。
『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」袖書
承平二年(九三二)正月十一日、昇殿。
『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」袖書
承平二年(九三二)正月二十一日、禁色・雜袍宣旨。
『貞信公記抄』承平二年正月廿一日
兼明朝臣、俊連、滋典侍等、禁色・雜袍宣旨仰下。
承平二年(九三二)十月、大嘗會御禊の次侍從となる。
『北山抄』五「大嘗會御禊事」
承平二年、侍從宗城朝臣奉仕右兵衞督代、以兼明朝臣補次侍從(上卿仰中務輔云。源兼明朝臣、於毛止末不千君仁、乎佐女給云々)。
承平三年(九三三)正月十二日、播磨權守に任じられる。
『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」袖書
天慶二年(九三九)二月一日、右近衞權中將に任じられる。
『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」袖書
天慶三年(九四〇)三月二十五日、紀伊權守を兼任。
『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」袖書
天慶五年(九四二)三月九日、左近衞權中將に轉任。
『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」袖書
天慶七年(九四四)四月九日、參議に任じられる。三十一歳。
『公卿補任』天慶七年 參議 從四位上「源兼明(三十一)」袖書
延木天皇第二源氏(【九條本・前田新寫一本】第十六皇子)。母三木贈三位藤原菅根女(更衣從四位上淑姫)。
承平二正七從四上(一世)。同十一日昇殿(雑袍)。同三正十二播磨權守【前田新寫一本「播磨守」】。天慶二二一右近權中將。同三年三廿五兼紀伊權守。同五三九【前田新寫一本「廿九」】左近權中將。天慶七年四月九日任三木(昇殿如元)。
天慶八年(九四五)三月八日、近江權守を兼任。
『公卿補任』天慶八年 參議 從四位上「源兼明(三十二)」尻付
天慶八年(九四五)十一月二十五日、治部卿を兼任。
『公卿補任』天慶八年 參議 從四位上「同【源】兼明(三十二)」尻付
三月廿八日兼近江權守。十一月廿五日兼治部卿。
天慶九年(九四六)正月七日、正四位下に敍される。
『公卿補任』天慶九年 參議 從三位「源兼明(三十三)」尻付
天慶九年(九四六)十一月十九日、從三位に敍される。三十三歳。
『公卿補任』天慶九年 參議 從三位「源兼明(三十三)」尻付
治部卿。近江權守。正月七日正四下。十一月十九日從三位(大嘗會悠紀)。
『公卿補任』天暦元年 參議 從三位「源兼明(三十四)」尻付
治部卿。近江權守。
『公卿補任』天暦二年 參議 從三位「源兼明(三十五)」尻付
治部卿。近江[【九條本・前田新寫一本】權]守。
天暦二年(九四八)三月九日、村上天皇の朱雀院行幸に參仕し、御遊に於いて箏を彈奏した。
『河海抄』「乙通女」所引『李部王記』天暦二年三月九日
歸コ是間、樂所漸遠、絃音不分明。詔右大臣云々。操絃者近候宜歟。右大臣奏之。上皇令召圖書寮御琴。式部卿和琴、余琴、右【左】衞門督(琵琶。高明卿)、治部卿(箏。兼明卿)。又召唱歌數人候南欄。
『御遊抄』「朝覲行幸」
和琴(式部卿親王)
琴(賜余)
比巴(左衞門督高明)
箏(治部卿兼明)
天暦三年(九四九)九月二十二日、母藤原淑姫が卒去したため服解。十二月二十八日、復任。
『公卿補任』天暦三年 參議 從三位「源兼明(三十六)」尻付
治部卿。九月服解。十二月ー復任。
『九暦』天暦三年九月廿二日
延喜更衣藤原淑姫朝臣卒。
『日本紀略』天暦三年十二月廿八日丁酉
復任宣旨給二省。
『公卿補任』天暦四年 參議 從三位「源兼明(三十七)」尻付
治部卿。
天暦五年(九五一)正月三十日、紀伊權守を兼任。
『公卿補任』天暦五年 參議 從三位「同【源】兼明(三十八)」尻付
治部卿。正月卅日兼紀伊權守。
『公卿補任』天暦六年 參議 從三位「同【源】兼明(三十九)」尻付
治部卿。紀伊權守。
天暦七年(九五三)九月二十五日、權中納言に任じられる。四十歳。
『公卿補任』天暦七年 權中納言 從三位「同【源】兼明(四十)」尻付
九月廿五日[【九條本・前田新寫一本】任]。
『公卿補任』天暦八年 權中納言 從三位「同【源】兼明(四十一)」
「 」
天暦九年(九五五)二月十七日、昇殿。
九條本・前田新寫一本『公卿補任』天暦九年 中納言 從三位「同【源】兼明(四十二)」尻付
九條本・前田新寫一本『公卿補任』の誤りか。
天暦九年(九五五)七月二十四日、中納言に轉任。四十二歳。
『公卿補任』天暦九年 中納言 從三位「同【源】兼明(四十二)」尻付
[【九條本・前田新寫一本】二月十七日聽昇殿]。七月廿四日轉。
天暦十年(九五六)正月七日、正三位に敍される。
『公卿補任』天暦十年 中納言 正三位「源兼明(四十三)」尻付
正月七日正三位。
『公卿補任』天コ元年【九五七】 中納言 正三位「源兼明(四十四)」
「 」
『公卿補任』應和元年【九六一】 中納言 正三位「源兼明(四十八)」
「 」
應和二年(九六二)八月七日、左兵衞督を兼任。
『公卿補任』應和二年 中納言 正三位「源兼明(四十九)」尻付
八月七日兼左兵衞督。
『公卿補任』應和三年 中納言 正三位「源兼明(五十)」尻付
左兵衞督。
康保二年(九六五)十月二十八日、致平親王元服の加冠を勤める。
『御遊抄』御元服「親王御元服加冠以下例」
致平親王、康保二十廿一、於C凉殿
 加冠(左兵衞督源兼明卿)
 理髪(頭中將源延光朝臣)
『公卿補任』康保三年 中納言 正三位「源兼明(五十三)」尻付
左兵衞督。
康保四年(九六七)正月二十日、權大納言に任じられる。五十四歳。
『公卿補任』康保四年 大納言 從二位「源兼明(五十四)」尻付
康保四年(九六七)十月十一日、從二位に敍される。
『公卿補任』康保四年 大納言 從二位「源兼明(五十四)」尻付
康保四年(九六七)十二月十三日、大納言に轉任。五十四歳。
『公卿補任』康保四年 大納言 從二位「源兼明(五十四)」尻付
正月廿日任權大納言。十月十一【九條本・前田新寫一本「十七」】日從二位。十二月十三日轉正。
『公卿補任』康保五年 大納言 從二位「源兼明(五十五)」
「 」
安和二年(九六九)正月二十七日、侍從を兼任。
『公卿補任』安和二年 大納言 從二位「源兼明(五十六)」尻付
安和二年(九六九)三月二十六日、兄 源朝臣高明の失脚に連坐して、昇殿を止められる。
『公卿補任』安和二年 大納言 從二位「源兼明(五十六)」尻付
正月廿七日兼侍從。三月廿六日依兄大臣事下殿上。
安和二年(九七〇)八月五日、皇太子傅を兼任。
『公卿補任』安和三年 大納言 從二位「源兼明(五十七)」尻付
侍從。八月五日兼皇太子傅。
天祿二年(九七一)十一月二日、左大臣に任じられる。五十八歳。
『公卿補任』天祿二年 大納言 從二位「*源兼明」尻付
東宮傅。
『公卿補任』天祿二年 左大臣 從二位「源兼明(五十八)」尻付
十一月二日任。元大納言。八日東宮傅如元。[【九條本・前田新寫一本】廿四日]勅授帶劒。十一月八日爲藏人所別當。
御子左大臣」と稱される。
天祿二年(九七一)十一月八日、藏人所別當となる。
『公卿補任』天祿二年 左大臣 從二位「源兼明(五十八)」尻付
天祿二年(九七一)十一月二十四日、帶劒の宣旨を蒙る。
『日本紀略』天祿二年十一月廿四日丙辰
今日、二品元長親王輦車、太政大臣牛車、左大臣帶劒宣旨等被下畢。
九條本・前田新寫一本『公卿補任』天祿二年 左大臣 從二位「源兼明(五十八)」尻付
天祿三年(九七二)正月三日、天皇(圓融院)元服に於いて理髪を勤める。
『日本紀略』天祿三年正月三日甲午
天皇於紫宸殿加元服。御年十四。太政大臣【伊尹】加御冠。左大臣【源兼明】理御髪。内藏頭助信朝臣爲能冠。
『大鏡裏書』「圓融院御事」
天祿三年正月三日甲午、於紫宸殿元服(年十四。加冠攝政太政大臣伊尹公。能冠内藏頭助信朝臣。理髪左大臣兼明公)。
『公卿補任』天祿三年 左大臣 從二位「源兼明(五十九)」尻付
皇太子傅。藏人所別當。
『公卿補任』天祿四年 左大臣 從二位「源兼明(六十)」尻付
皇太子傅。
天延二年(九七四)二月二十八日、輦車を聽される。
『公卿補任』天延二年 左大臣 從二位「源兼明」尻付
東宮傅。二月廿八[【九條本】日聽]輦車。
『公卿補任』天延三年 左大臣 從二位「源兼明(六十二)」尻付
皇太子傅。
『公卿補任』天延四年 左大臣 從二位「源兼明」尻付
東宮傅。
兼明親王
貞元二年(九七七)四月二十一日、親王宣下。二品に敍される。六十四歳。
『日本紀略』貞元二年四月廿一日辛亥
詔以左大臣從二位源兼明朝臣、正四位下行右兵衞督同昭平朝臣等、爲親王。即敍品。兼明二品、昭平四品。
『百錬抄』貞元二年四月廿一日
以左大臣源兼明爲親王、敍二品、任中務卿(號御子左)。
『公卿補任』貞元二年 左大臣 從二位「源兼明(六十四)」尻付には「四月廿四日有勅爲親王」とある。
貞元二年(九七七)十二月十日、中務卿に任じられる。
『公卿補任』貞元二年 左大臣 從二位「源兼明(六十四)」尻付
皇太子傅。四月廿四【ママ】日有勅爲親王。即敍二品。十二月十日任中務卿。寛和二年正廿五辭卿。永延元九六薨(七十四才)。[【九條本】生年延喜十四甲子。]
『扶桑略記』貞元二年四月廿四【ママ】日
左大臣源兼明、被停大臣職、改爲親王、敍二品、任中務卿【ママ】。年六十二。
一品に敍される。
寛和二年(九八六)正月二十五日、上表して中務卿を辭す。時に一品。
『本朝文粹』五、前中書王「請被停職中務省卿状」
『公卿補任』貞元二年 左大臣 從二位「源兼明(六十四)」尻付
永延元年(九八七)九月二十六日、薨逝。七十四歳。
『小記目録』二十一「親王女御薨事」
永延元年九月廿七日、兼明親王薨事。
『日本紀略』永延元年九月廿六日丙戌
一品行中務卿兼明親王薨(年七十四)。
『公卿補任』貞元二年 左大臣 從二位「源兼明(六十四)」尻付
『一代要記』三「第六十醍醐天皇」皇子「兼明親王」
二品、中務卿。母同長明。賜源姓。天祿二年十一月二日、任兼春宮傅左大臣、從二位。改爲親王。異本云。貞元二年四月二十四日、改大臣爲親王。二品。中務卿。永延元年九月二十五日薨、前中書王。
 
【逸事等】
博學多才。日本の皇族詩人の筆頭とされる。詩作品は白樂天の影響が濃厚であるが、豪放にして格調高いと言われる。
大曾根章介「かねあきらしんのう 兼明親王」(『国史大辞典』)に、
親王は博学多才で詩文を能くし、わが国第一の皇室詩人といわれた。しかもその悲劇的生涯は多くの同情を生み、多くの伝説が生まれている。中世においては『源氏物語』にゆかりの地として嵯峨山荘が見做され、近世の詩人たちは親愛の心で、兼明親王を詩賦に詠みこんでいる。
とある。
天暦七年(九五三)十月五日、博士でなかったが特に殘菊宴に侍して詩を奉った。
『政治要略』廿四「九月九日節會事 殘菊宴事」
能書家として知られる。
『榮花物語』によると、字をたいへん優美に趣深く書いた。
『江談抄』によると、藤原佐理・藤原行成に劣らなかったという。
『榮花物語』巻第一「月の宴」
左大臣に源氏の兼明ときこゆるなり給ぬ。これも醍醐のみかとの御子におはして、姓えて、たゝ人にておはしつるなりけり。御てを、えもいはす、かき給ふ。道風【小野】なといひける手をこそは、よにめてたき物にいふめれと、これ【兼明】はいとなまめかしう、おかしけに、かゝせ給へり。
『河海抄』十二「梅枝」
掌中暦云。高名能書。・・・・・ 前中書王(兼明)
『夜鶴庭訓抄』「能書人々」
兼明(親王。中書王)
『江談抄』二 雜事「兼明、佐理、行成等同手書事」
兼明、佐理、行成三人等、同之手書也。各皆樣少相乖也。後人難決殿最歟。故源右相府(【傍注】師房)云。行成卿世人謂劣於道風歟。信者、佐理、兼明等止奈牟世人稱ケル。
太田道灌の故事で名高い山吹の歌を詠じた。
『後拾遺和歌集』十九 雜五
小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、簑かる人の侍りければ、山吹の枝を折りてとらせて侍りけり。心もえでまかり過ぎて、又の日、山吹の心もえざりしよし、いひおこせて侍りける返事に、いひ遣はしける。
                中務卿兼明親王
七重八重花はさけ共山吹のみの一つだになきぞかなしき
母、更衣藤原淑姫の本願により、觀音寺を造立。私稻三千束を正税に加擧し、永く其の燈分料に充てることを請願。次いで、觀音寺を定額寺にして施無畏寺と改稱することを請願。天暦七年(九五三)二月、私稻三千束を正税に加擧し、施無畏寺三昧料に充てることを請願した。
『本朝文粹』五、前中書王「請被以私稻三千束加擧正税充給觀音寺燈分料状」
『本朝文粹』五、前中書王「請被以施無畏寺爲定額寺状」
『本朝文粹』五、前中書王「請被以私稻各三千束加擧正税充給施無畏寺三昧料状」
 
【源朝臣兼明の左大臣解任と、「菟裘賦」】
源兼明が要職の左大臣から解かれたのは、關白太政大臣藤原朝臣兼通が、右大臣藤原朝臣ョ忠を左大臣に昇格させるために仕組んだ謀略によるとされる。源朝臣兼明を左大臣から解任させるため、源朝臣昭平と共に兼明を親王にして、形式上 昇格させる、という方法を取った。所謂「藤原氏の他氏排斥」の最後とされる。
『榮花物語』巻第二「花山たづぬる中納言」
かゝる程に、大殿【藤原兼通】おぼすやう。『よの中もはかなきに、いかでこの右大臣【藤原頼忠】いますこしなしあげて、わがゝはりのそく【職】をもゆづらん』とおぼしたちて、たゞいまの左大臣兼明のおとゞときこゆるは、延喜のみかどの御十六の宮におはします。それ御心地なやましげなりときこしめして、もとのみこになしたてまつらせたまひつ。さて左大臣には小野宮の頼忠のおとゞをなしたてまつりたまつ。
源兼明は、以前より閑雅な生活を求め、自ら隱棲しようと望んでいた。
ところが、實質上、左遷に等しい人事に遭ったため、心中平かならず、「菟裘賦」をつくり、嵯峨小倉の山荘に移り、以後、悠々自適の生活を送った。「菟裘」とは、官を辭して隱棲する地のこと。『春秋左氏傳』魯の隱公の故事にちなむ。
『江談抄』によると、「唐人」が「菟裘賦」に感動したという。
『江談抄』六 長句事「唐人感菟裘賦事」
 
工事中 【嵯峨の隠君子と兼明親王】
 
工事中 【著述等】
漢詩文が現存。
『本朝文集目録』上 巻三十九「兼明親王」
菟裘賦(并序)
防禦新羅勅符
下陸奧勅符
停止買取田地舍宅官符
文章生并得業生復舊例官符
征罰平將門官符
太政官符
請停中務省状【『本朝文粹』作「請被停職中務卿状」】
請以私稻充觀音寺燈料状
請以施無畏寺爲定額寺状
請以私稻給施無畏寺三昧料状
髪落詞(并序)
座左銘(并序)
施無畏寺鐘銘
池亭記
山亭起請
祭龜山~文
村上天皇御筆法華經供養問者表白
發願文(二條)
供養自筆法華經願文
村上天皇奉爲母后周忌修御八講記
前中書王(兼明)「菟裘賦(并序)」
『本朝文粹』巻之一「賦」幽隱
前中書王「池亭記」(天コ三年十二月二日)
『本朝文粹』巻之十二「記」
前中書王「髪落詞」
『本朝文粹』巻之十二「辭」
前中書王「座左銘(并序)」
『本朝文粹』巻之十二「銘」
前中書王「山亭起請」
『本朝文粹』巻之十二「起請文」
『朝野群載』巻第一「文筆下(起請)」(新訂増補國史大系二十九上ノ四四頁)
 
【配偶】
 源朝臣衆望の女子
 源朝臣伊陟の母。
稿本醍醐天皇實録』 一一三九頁 「兼明親王妃源氏」
 
【子女】
 源朝臣伊陟
 正三位
 中納言
 源朝臣兼明(のちの兼明親王)の一男。
 母は、從四位下伊勢守源朝臣衆望の女子。
 天慶元年(九三八)生。
 天暦六年(九五二)正月七日、從五位下に敍される(氏爵。延喜御後)。
 應和元年(九六一)閏三月、宇佐使を勤仕するが、路次において發病したため、歸京、任務を解かれた。
『西宮記』二十四「臨時十二」裏書所引『村上天皇御記』應和元年閏三月廿一日・廿二日
 貞元二年(九七七)四月二十四日、父の親王宣下の日に、參議に任じられる。
『公卿補任』貞元二年 參議 從四位下「源伊陟」尻付
[【九條本】天慶元年戊辰生]。四月廿四日任。元藏人頭左兵衞督。
『公卿補任』貞元二年 參議 從四位下「源伊陟」袖書
二品[【九條本】中務卿]兼明親王一男(【九條本】元左大臣從二位)。母從四位下伊勢守衆望女。
天暦六年正月七日從五下(氏。延木御給【ママ】)。九年十ー侍從。同十九【九條本「五」】[【九條本・前田新寫一本】八]左兵衞權佐。天コ二壬七廿八左少將。八月廿七昇殿。同四正廿五近江權介。同五正七從五上。同三月ー爲~寶使參向宇佐之間、途中煩病。[【九條本】稽]留備後國不達前途。壬三月廿一日下部【卜部】方生注事由言上。其後同廿三日已以【九條本「次」】參上。[【九條本・前田新寫一本】同八月八日停左近少將(猶帶近江介)。應和三九九任近江權介。同四三廿七民部少輔。天祿三【二】三廿右少辨]。十二月十五日左少辨。同三正七正五下(辨勞)。同四七廿六右中辨。天延二正七從四下(辨勞)。三月廿八日昇殿(花宴次)。四月十藏人頭。三年正廿六左兵衞督(止辨)。四年正廿八周防權守。
 貞元三年(九七八)二月三日、備後權守を兼任。
『公卿補任』貞元二年 參議 從四位下「源伊陟」尻付
二月三日備後權守。
 天元二年(九七九)三月二十八日、從四位上に敍されるべきところ、男子 ョ之の敍爵を申請した。
『公卿補任』天元二年 參議 從四位下「源伊陟」尻付
備後權守。三月廿八可叙從四上、而以男ョ之申叙從五下。
 天元三年(九八〇)正月七日、從四位上に敍される。
『公卿補任』天元三年 參議 從四位下「源伊陟」尻付
備後權守。正月七日從四上。
 天元四年(九八一)十二月四日、正四位下に敍される。
『公卿補任』天元四年 參議 從四位上「源伊陟」尻付
備後權守。十二月四日正四下(造宮行事賞)。
 天元六年(九八三)正月、備中權守を兼任。十一月十一日、近江權介を兼任。
『公卿補任』天元六年 參議 正四位下「源伊陟」尻付
正月備中權守。十一月十一日近江權介。
 寛和元年(九八五)十一月三十日、從三位に敍される(悠紀國司)。
『公卿補任』永觀三年 參議 正四位下「源伊陟」尻付
近江權介。十一月卅日從三位(悠紀國司)。
 寛和二年(九八六)三月九日、播磨守を兼任。八月十三日。近江守に轉任。十一月十八日、正三位に敍される。
『公卿補任』永觀三年 參議 從三位「源伊陟」尻付
三月九【九條本「五」】日、播磨守。八月十三日近江守。十一月十八日正三位(悠紀國司賞)。
 永延二年(九八八)二月二十七日、右衞門督に任じられる。
『公卿補任』永延二年 參議 正三位「源伊陟」尻付
近江守。二月廿七日右衞門督。
 永延三年(九八九)二月二十三日、權中納言に任じられる。十一月二十八日、太皇太后宮權大夫となる。
『公卿補任』永延三年 權中納言 正三位「源伊陟(五十二)」尻付
二月廿三日任。止督。十一月廿八日大皇大后宮權大夫。
 永祚二年(九九〇)正月二十九日、右兵衞督に任じられる。
『公卿補任』永祚二年 權中納言 正三位「源伊陟」尻付
太皇大后宮權大夫。正月廿九日右兵衞督。大夫如元。二月十日丙辰着座。
『權記』正暦二年【九九一】九月七日
伊陟卿(左【右】兵衞督兼大【太】皇大【太】后權大夫)
『小右記』正暦四年【九九三】五月廿日乙未條に、藤原朝臣實資が藤原朝臣公任の所持する『清愼公記』を書寫するために、伊陟・伊ョから同記を返却させたが、その時 伊陟は「殊有怨氣」であり。伊頼には「頗不首尾」であり、「各本病發動歟」と實資は記している。
 正暦五年(九九四)九月八日、右衞門督に任じられる。
『公卿補任』正暦五年 權中納言 正三位「源伊陟」尻付
太皇大后宮權大夫。右兵衞督。九月八日右衞門督。
 正暦六年(九九五)正月十三日、中納言に轉任。
 長コ元年(九九五)五月廿五日薨逝。五十八歳。
『公卿補任』正暦六年 中納言 正三位「×源伊陟」尻付
正月十三日轉任。大夫・右衞門督等如元。五月廿五日薨。20五日[【九條本・前田新寫一本】薨]奏。[【九條本・前田新寫一本】頭四年。參議十三年。中納言七年。]
『古事談』『十訓抄』等によると、兼明親王が薨じた後、帝は、親王の子の源伊陟に、「故人は家に居たとき何をしていたのか」と聞いた。伊陟は、「ただ兎裘をもてあそんでいただけです」と答えた。帝は、兎(うさぎ)の裘(かわごろも)であると思い、それを獻上させた。ところがそれは「菟裘賦」であった。賦の序には、「君は昏(くら)く臣は諛(へつら)う」と書かれてあった。時の人は、伊陟が博学多才の兼明親王の子でありながら、父の才を承けていなかったことを難じたという。但し、伊陟は藏人頭を勤めあげて參議に轉じているので、漢學の才は兎も角、事務能力は十分にあったと考えられる。
『古事談』六「亭宅諸道」
『十訓抄』
『河海抄』卷八「松風」(三四九頁)
『河海抄』卷九「乙通女」(三七二頁)
『花鳥餘情』十「松風」
『本朝皇胤紹運録』等に、[源朝臣]伊行が、兼明親王の子として見える。しかし、『尊卑分脈』「延喜 醍醐」に、伊行は伊陟の子として見える。年代から見て、伊行は伊陟の子であると考えるべきであろう。なお、伊行は、天元五年(九八二)正月十日、正五位下に敍された。この敍位については、東宮學士としての勤仕が七年に當るところを外記勘文が誤って「六年」と注をつけたため、正月七日の敍位から漏れてしまい、そのため、十日に正五位下に敍された(『小右記』天元五年正月十日癸卯)、という事情がある。
 
【子孫の略系圖】
 兼明親王 ── 源朝臣伊陟 ─┬ 源朝臣ョ之
               ├ 源朝臣伊ョ ─┬ 源朝臣伊經 ── 源朝臣伊實
               │       ├ 舜照【または源伊經の子】
               │       ├ ョ縁【または源伊經の子】
               │       └ 長慶【または源伊經の子】
               ├ 源朝臣伊行
               ├ 源朝臣伊光 ── 源朝臣兼行
               └ 延漢
 
工事中 【文獻等】
『大日本史料』第二編之一、一六五〜一八三頁、永延元年九月二十六日「一品中務卿兼明親王薨ズ、」
稿本醍醐天皇實録』 一一〇四〜一一三八頁 「皇子兼明親王」
清水正健『皇族考證』第參巻 百七十五〜百七十六頁
大曾根章介「かねあきらしんのう 兼明親王」(『国史大辞典』第三巻、吉川弘文館、昭和五十八年二月)469頁bc
大曾根章介「菟裘賦と鵩【服鳥】鳥賦との比較考察 ── 兼明親王の文学 ──」(東京大学国語国文学会『國語と國文學』第三十四巻第六號、昭和三十二年(一九五七)六月、一〇〜一九頁)
兼明親王の「菟裘賦」を、賈誼の「鵩【服鳥】鳥賦」と比較。「菟裘賦が鵩【服鳥】鳥賦を規模として作られたにも拘らず、全篇の基底をなす思想は決して同じでない」と結論。
大曽根章介「兼明親王の生涯と文学」(上)(東京大学国語国文学会『國語と國文學』第三十九巻第一号、昭和三十七年(一九六二)一月、二七〜三七頁)
大曽根章介「兼明親王の生涯と文学」(下)(東京大学国語国文学会『國語と國文學』第三十九巻第二号、昭和三十七年二月、三五〜四八頁)
「平安時代第一の皇室詩人として、卓越した文才と悲劇的な生涯に、後人の賞賛と同情を一身に受けた」という兼明親王の「生涯と文学を考察」。親王は「孤独で感受性の強い芸術家肌の人」であり、「人々から畏敬されることはあつても、親愛の情を抱かれることは少な」く、「その文学は孤高であつたといふことが出来ようか」と総括し、「悲劇的な生涯を終へた高貴な一文人として眺めた時、私は親王の生涯に限りない同情の念を抱くと共に、その文学に対して惜みない賞賛の言葉を送りたい」と結ぶ。
今浜通隆「兼明親王論」(『岡一男博士頌寿記念論集 平安文学研究 作家と作品』(早稲田大学平安朝文学研究会 編。東京都千代田区神田神保町、有精堂出版、昭和四十六年(一九七一)三月)、六四九〜六六二頁)
藤本孝一「兼明親王と定家と小倉の山荘」(『角田文衛博士古稀記念 古代学叢論』)
「兼明親王の小倉の山荘の故地に藤原定家の山荘が営まれたことを指摘する」。「貴族の生活史への接近を試みている」(回顧と展望五、四五七頁)。
蔵中進「「和名類聚抄」と兼明親王」(『神戸外大論叢』22-4、一九七一年十月)
張利利「「方丈記」と慶滋保胤・兼明親王の「池亭記」と白楽天の「池上篇並序」について──先行文学の中日比較」(広島女学院大学大学院言語文化研究科[編]『広島女学院大学大学院言語文化論叢』4、二〇〇一年三月)
于永梅「「菟裘賦」における兼明親王の思想──仏教的表現に着目して」(『中国文化研究』22、二〇〇六年)



 
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公開日時: 2012.02.13.

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