潔世王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[潔世]

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潔世王
 
【出自】
 
仲野親王の八男。
 桓武天皇の二世孫王。
『日本三代實録』貞觀九年正月十七日戊午
二品仲野親王薨。・・・・・ 有男十四人、女十五人。茂世、輔世、季世、秀世、房世、當世、基世、潔世、實世、十世、在世、康世十二人【原作「茂世、當世、基世、輔世、潔世、實世、十世、在世、康世十人」】爵爲四位。・・・・・
 
【經歴】
八二〇年(弘仁十一年)生。
卒年より逆算。
文章生となる。
貞觀二年(八六〇)十一月十六日、無位から從四位下に敍される。四十一歳。
『日本三代實録』貞觀二年十一月十六日壬辰
[授]文章生无位潔世王從四位下。
貞觀五年(八六三)二月十六日、大學頭となる。四十四歳。
『日本三代實録』貞觀五年二月十六日己酉
[以]散位從四位下潔世王爲大學頭。
貞觀八年(八六六)七月二日、高山祭使として發遣される。時に從四位下行大學頭。
『日本三代實録』貞觀八年七月二日甲辰
大祓於建礼門前。發遣高山祭使從四位下行大學頭潔世王、外從五位下行音博士C内宿祢雄行等。
貞觀十年(八六八)二月二十五日、山陵使として田邑御陵に發遣される。時に從四位下行大學頭。
『日本三代實録』貞觀十年二月廿五日己丑
詔下公卿及諸儒、博【『紀略』博士】議山陵火災並爲禮制。從四位下行博士兼伊豫權守大春日朝臣雄繼議曰。「礼記曰。『有焚其先人之室、則三日哭』。然則當據礼而行之」。文章博士從五位下兼備後[權]介巨勢朝臣文雄議曰。「漢書曰。『武帝建元六年四月、高園便殿火。帝素服五日。昭帝元鳳四年五月、孝文廟正殿火。帝及群臣皆素服』。山陵失火、未見故實。至于宗廟、前聞如此」。公卿本乎漢家之故事、斟酌礼度之所宜、取文雄議而奏。於是 帝避正殿、服錫紵、撤去常膳、進御蔬菲、輟朝五日。公卿及諸近臣皆失【『紀略』去】彩餝。一准凶儀、遣使於山陵、告以事由。告文曰。 天皇掛畏田邑御陵美毛奏賜倍止。去十八日不慮之外、野火進引御陵燒損介利。聞食那加良驚怪懼畏己止無限量。此驚畏状并怪比悉津良比令奉仕之事、大納言正三位兼行左近衛大將藤原朝臣氏宗、從四位下行大學頭潔世王等差使、聞申奉出。但不愼護奉致怠御陵守等、令勘罪那倍波牟。掛畏御陵平聞食、天皇朝廷護幸國家無事矜助賜倍止美毛奏賜波久止奏。
貞觀十一年(八六九)三月四日、源朝臣信に正一位を贈位する使として、源朝臣生と共に遣わされる。時に從四位下行大學頭。
『日本三代實録』貞觀十一年三月四日壬戌
是日、勅贈故左大臣正二位源朝臣信正一位。遣參議正四位下[行]右衛門督兼讃岐權守源朝臣生、從四位下行大學頭潔世王、就第宣制。
從四位上に敍される。
民部大輔に任じられる。
貞觀十七年(八七五)七月三日、有名王と共に、楯列山陵に祈謝使として遣わされる。時に從四位上行民部大輔。
『日本三代實録』貞觀十七年七月三日癸未
遣從四位上行民部大輔潔世王、散位從五位下有能王向楯列山陵、申謝百姓伐樹【「樹」恐衍】陵中樹、兼祈甘雨。
山城守となる。
少外記平田家本『本朝皇胤紹運録』、「仲野親王」の子
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 從四上 山城守
├──潔 世 王

元慶六年(八八二)四月二十八日、卒去。六十三歳。時に散位從四位上。
『日本三代實録』元慶六年四月廿八日庚子【 [ ] 内、據『日本紀略』補
散位從四位上潔世王卒。潔世王者二品仲野親王第八之子也
 
【子女】
 □
遂良王 のち平朝臣[遂良]
 
【逸事】
幼少より史傳を學び、文章生に補され、大學頭となった。
『日本紀略』元慶六年四月廿八日
 
【文獻等】
稿本桓武天皇實録』四二七〜四二九頁「皇孫潔世王」


 
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公開日時: 2021.03.08.

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