平高平


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[高平@]

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高平王
 のち平朝臣高平
 
【出自】
 
正行王の男子。
 桓武天皇の三世王。
 萬多親王の孫。
 
【經歴】
高平王
平朝臣高平
元慶元年(八七七)十二月二十七日、平朝臣を賜姓される。
『日本三代實録』元慶元年十二月廿七日癸巳
无位高平王、賜姓平朝臣。贈一品萬多親王孫。正四位下正行之男也。
正六位上に敍される。
『日本三代實録』仁和元年十月十九日庚午
『日本三代實録』仁和元年十二月廿三日癸酉
大宰大監に任じられ、大宰府に赴任する。
『日本三代實録』元慶八年七月五日癸亥
元慶七年(八八三)六月三日夜に起きた筑後守都朝臣御酉殺害事件に對する事後對應が法に觸れていたため、仁和元年(八八五)十月十九日、斷罪。同年十二月二十三日、銅を以て贖罪した。
『日本三代實録』元慶八年七月五日癸亥
『日本三代實録』仁和元年十月十九日庚午
『日本三代實録』仁和元年十二月廿三日癸酉
 
【筑後守都朝臣御酉殺害事件への事後處理に關聯した、大宰府官人の處罰】
元慶七年(八八三)六月三日夜、筑後守 都朝臣御酉が群盗によって殺害されたが、大宰府は六月六日の解状によって大宰少監中原眞人長城を差遣するまで盗賊の追捕に取り掛からず、また、一箇月以上を經ても追捕者を捕えることができなかった。そのため、元慶七年七月十九日、大宰府司(大宰大監は平高平)を譴責する太政官符が發された。
『日本三代實録』元慶七年七月十九日癸未
先是、大宰府六月六日解偁、管筑後國解偁、今月三日夜[分]、群盗百許人圍守從五位上都朝臣御酉館、射殺御酉、掠奪財物。傍吏聞人叫聲、俄發兵仗、赴集之間、群賊逃散。夜暗冥【夜暗兵寡】、不獲追捕者。府依解状、差遣少監正六位上中原眞人長城等、率將兵卒、發遣搜索。仍且言上者。是日、太政官符譴責大宰府司曰。「牧宰之官、委寄攸重、而肆行殺戮、何惡之甚。筑後國去大宰府往還半日。縱三日之夜、夜暗兵少、則四日五日、何不益兵追討。殆是傍吏〓【りっしんべん+(而大)】弱之所致也。且管部之亂、鎭在府司、虎兕出柙。是誰之過。又發向長城等之後、既積月餘日、擒獲之状于今無聞。盖是長城有致逗撓歟。抑亦府司無心惡々歟。都督之任、豈合如此。又事出非常、理須馳驛、而修解付脚、既以稽遲。宜窮尋蹤跡。早速翦除。重致懈緩、國有常刑」。
元慶七年(八八三)十月九日、藤原朝臣良積が推問筑後國司殺害使となる。
『日本三代實録』元慶七年十月九日壬寅
以從五位下守左衞門權佐藤原朝臣良積爲推問筑後國殺害使。判官一人、主典一人。
元慶八年(八八四)四月二十六日、(藤原朝臣良積に代わって)安倍朝臣肱主が推問筑後國司殺害使となる。
『日本三代實録』元慶八年四月廿六日丙辰
以彈正少弼從五位下安倍朝臣肱主爲推問筑後國司殺害使。
元慶八年(八八四)六月二十日、推問筑後國司殺害使が大宰府に派遣される。大宰大貳安倍朝臣貞行の辭状によると、元慶七年八月一日に追捕者を捕えていたが、大宰府の監典ら(大宰大監は平高平)は、多忙等により、彼らの尋問を推問筑後國司殺害使が行うよう望んだ。
『日本三代實録』元慶八年六月廿日己酉
是日、遣彈正少弼從五位下安倍朝臣肱主、判官巡察彈正正六位上菅原朝臣宗岳、主典左衞門少志大初位下櫻井田部連貞世等於大宰府、推殺害筑後守都朝臣御酉事。太政官下符大宰府偁。依彼府去六月六日解状、可早追捕射殺筑後國守都朝臣御酉凶賊之状、七月十九日下知已了。而弦望屡遷、寂無音驛、論之急務、何其可然。今得大貳從四位上安倍朝臣貞行辭状偁。八月一日捕獲賊類。須加覆鞫、具以言上。而所有監典等【※大監は平高平】或奉使未歸、或隨例多事、望請被遣朝使、勘糺罪人者。凡凶黨爲害、國家所憂。禍數發於匪圖、情何拘其【于カ】常理。而寄事繁劇、遲留不斷。外朝之請、豈容如此乎。夫有非常之變、當施一切之議。仍特遣件等人、發擿其事。府宜承知能【聽】使處分。
元慶八年(八八四)七月五日、推問筑後國司殺害使により、大宰大監平高平らが罪人に對して行った處置に失誤があり「獄令」に反していたこと等が奏上され、勅が下された。
『日本三代實録』元慶八年七月五日癸亥
推筑後國殺害使彈正少弼從五位下安倍朝臣肱主奏言。「獄令云。『犯罪、皆於事發處官司、推斷』。又條云。『犯罪、笞罪郡決之。杖罪以上、郡斷定送國、覆審訖、從【徒】杖罪及流應決杖。若應贖者、即決配徴贖、[刑部省及]諸國斷流以上、若除免官當者、皆連寫案、申太政官』。然則推斷之法、皆於犯處。而大宰府解偁。大監平高平等連繋罪人向府訖者、高平等不請處分、輙捕送府。府司不責其由、輙受拷問。今使等欲向事發處、罪人在府。就罪人居、可乖法意。欲率罪人向事發國。府司且經勘問、略知端緒。使等在彼。訊鞫之日、事有失誤。可喚府司、加之罪人數多。率將有煩。望請於府推問。使還之日、依法責返抄并印署日記。一准諸國之例」。右大臣【源朝臣多】宣、奉 勅、依請下知。
仁和元年(八八五)十月十九日、刑部省が、「職制律」および「名例律」の規定に從い、大宰大監平高平を含む大宰府の官人たちを斷罪。高平には杖九十の刑が下されたが、正六位上の位階を帶びていることにより一等を減じ杖八十となり、これは銅八斤の贖罪に相當するとされた。
『日本三代實録』仁和元年十月十九日庚午
大宰府少貳已下官人徴贖銅。先是、彼府年貢鵜違期。 詔下刑官斷罪。刑部省斷云。「職制律云『事有期會、而違者一日笞卅五、日加一等、罪止徒一年』。名例律云。『同司犯公坐者、長官爲一等、次官爲一等、判官爲一等、主典爲一等、各以所由爲首、其闕無所承之官、亦依此四等、爲法』。又條云。『五位已上犯流罪以下、減一等』。又條云。『七位已上犯流罪以下、各從減一等』。又條云。『七位已上犯流罪以下、各從減一等之例』【重複アルカ】。又條云。『應[議]請減、及八位[已上]犯流罪已下、聽贖』。據檢此等文、府司須四月以前貢進、而違官符旨、延及七月。計其日數、既過罪止。仍以少貳源朝臣精、御室朝臣安常、爲第二從杖一百。並帶從五位上、請減一等、各杖九十杖、合贖銅九斤。大監平高平、少監多治有友、爲第三杖九十。高平帶正六位上、例減一等、杖八十、合贖銅八斤。有友帶正八位上、合贖銅九斤。少典C科全棟帶從七位上、例減一等、杖七十、合贖銅七斤。豐井安基帶正八位下、合贖銅八斤。
仁和元年(八八五)十二月二十三日、刑部省の處罪により、高平らは銅を以て贖罪した。
『日本三代實録』仁和元年十二月廿三日癸酉
府司大監正六位上平朝臣高平、大典正七位上秦忌寸末吉、從七位下御船宿禰貞範、少典正八位下C科朝臣全棟等、追捕罪人、拷掠違法、放免自由。刑部省節級處罪、贖銅有差。
 
【文獻等】
稿本桓武天皇實録』四八八頁「皇曾孫高平王」



 
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更新日時: 2012.06.10.
公開日時: 2006.04.26.

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