幸宮 韶子女王
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召仕「とき」 家女房「中川」 等覺寺の僧の女子。 |
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文化二年(一八〇五)八月六日生。
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「順宮」 | |||||||||||||
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文化二年(一八〇五)八月十三日、「順(シヅ)宮」を稱號を定められる。
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文化三年(一八〇六)十一月十八日、箸初と髪置の儀が行われる。
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文化四年(一八〇七)十二月六日、色直の儀が行われる。
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文化六年(一八〇九)九月三十日、内々に貞章院(貞子女王。源朝臣重好[コ川(清水)]室)の子に擬せられる。
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「富宮」 | |||||||||||||
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文化七年(一八一〇)二月七日、「富宮」(とみのみや)と稱號を改められる。
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文化七年(一八一〇)十二月五日、深曾木。
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文化十年(一八一三)十一月二十四日、紐直。
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「幸宮」 | |||||||||||||
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文政三年(一八二〇)六月十六日、月見の儀が行われ、「幸宮」(もちのみや)と稱號を改める。
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文政九年(一八二六)三月二十一日、源朝臣忠堯[松平下總守(忍)]との縁組が内定。
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文政九年(一八二六)五月二十一日、松平下總守忠堯との縁組が聽許される。
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文政九年(一八二六)六月十五日、結納。
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文政九年(一八二六)十一月十七日、關東へ發輿。
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文政九年(一八二六)十二月五日、馬場先門邸に入輿。松平下總守忠堯と結婚。
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文政十二年(一八二九)十一月二日、鶴松丸(大監院殿)を出産。
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天保二年(一八三一)六月二十日、登年姫(相協院殿)を出産。
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天保五年(一八三四)二月二十四日、鋼五郎(紹賢院殿)を出産。
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天保八年(一八三七)十一月二十四日、悦姫(玉泉院殿)を出産。
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天保十二年(一八四一)六月九日、男兒(眞空自性禪童子)を流産。
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天保十二年(一八四一)六月二十七日死亡。三十七歳。
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天保十二年(一八四一)六月二十八日、内々に入棺。
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天保十二年(一八四一)六月二十九日、發喪。
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天保十二年(一八四一)七月四日、葬儀。法號・法名「寶雲院殿奇峯妙麗大姉」
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松平(奥平)[忍(もと桑名)]第九代當主。 源朝臣忠翼[松平下總守]の一男。 享和二年(一八〇二)六月九日生。 文政四年(一八二一)五月二十八日、繼承。 上野介、民部大輔、下總守、侍從、修理大夫。 天保九年(一八三八)十月十六日、隱居。號「適翁」。 元治元年(一八六四)八月十四日沒。六十三歳。 「大休院殿」 |
源朝臣忠堯の三男。 文政十二年(一八二九)十一月二日生。 文政十三年(一八三〇)五月十六日沒。二歳。 |
源朝臣忠堯の二女。 天保二年(一八三一)六月二十日生。 天保三年(一八三二)九月七日/八日沒。二歳。 |
源朝臣忠堯の五男。 天保五年(一八三四)二月二十四日生。 天保五年(一八三四)八月二十九日沒。一歳。 |
源朝臣忠堯の女子。 天保八年(一八三七)十一月二十四日生。 天保九年(一八三八)八月五日/七日沒。二歳。 |
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『伏見宮實録』九八「貞敬親王實録」八「王女 韶子女王(松平忠堯室)」(宮内庁公文書館 識別番号75298) |
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『詰所系圖』「伏見殿」 七六頁 |
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『系圖纂要』「伏見宮」 五六五頁 |
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『雲上御系譜』皇族篇「伏見宮」 二二頁 |
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『平成新修 旧華族家系大成 下巻』 六一八頁 |
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『皇統譜録』圖書寮 明治二十八年 第三〇號「皇族御親族調ニ付子爵松平忠敬へ照會案」(『伏見宮實録』九八「貞敬親王實録」八 所引) |
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大沢俊吉『長篠城より桑名城、忍城へ 松平家四百年の歩み』(恒文社、一九八五年十一月)所収「(武蔵忍松平)松平下総守御系図(其三)」 |
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