幸宮 韶子女王


前頁 「 幸 [幸E]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[幸F]

フレームなし

工事中

幸宮」 もちのみや
 
 
韶子[女王] つぐこ
もと順宮」 しづのみや (照宮
富宮」 とみのみや
 
 源朝臣忠堯[松平(忍)]の室。
 
【法號】
 「寶雲院殿奇峯妙麗大姉」(壽操院
 
【出自】
 貞敬親王[伏見殿]の二女。
 
【生母】
 眞珠院
 召仕「とき」
 家女房「中川」
 等覺寺の僧の女子。
 
【經歴】
文化二年(一八〇五)八月六日生。
『伏見宮日記』文化二年八月六日
今曉寅刻頃姫宮御方御誕生也。御産母御召仕とき。御出生後御機嫌克御丈夫之御事被爲在候也。
・・・・・
『伏見宮系譜』貞敬親王の子「韶(ツク)子」
母家女房(等覺寺某女(中川)/號眞珠院)
文化二乙丑年八月六日(寅刻)誕生。号順(シヅ)宮。
『詰所系圖』「伏見殿」七六頁に、「文化三年八月六日生」とある。
平成新修 旧華族家系大成 下巻』六一八頁に、「文化三、八、六生」とある。
『系圖纂要』「伏見宮」五六五頁「韶子女王」に、「文化四年八ノ六生」とあるが、姉「師子女王」が「文化元年十二ノ廿五生」、弟「王子」(普照院)が「文化三年七ノ七生」となっており、「文化四年」が「文化二年」の誤りであれば、出生年が兄弟姉妹順と合致する。
「順宮」
文化二年(一八〇五)八月十三日、「順(シヅ)宮」を稱號を定められる。
『伏見宮日記』文化二年八月十三日
今日姫宮御方御七夜御祝儀被爲在。御名被爲稱シヅ宮樣候也。
 ・・・・・
文化三年(一八〇六)十一月十八日、箸初と髪置の儀が行われる。
『伏見宮日記』文化三年十一月十八日
今日陰陽寮(幸コ井近江守)依勘進順宮御方御喰始御髪置等之御祝共被爲在。・・・・・
文化四年(一八〇七)十二月六日、色直の儀が行われる。
『伏見宮日記』文化四年十二月六日
一、順宮御方今日御色直御祝被爲在 ・・・・・
文化六年(一八〇九)九月三十日、内々に貞章院(貞子女王。源朝臣重好[コ川(清水)]室)の子に擬せられる。
『伏見宮日記』文化六年九月卅日
一、順宮御方御儀清水貞章院宮樣御子分被成進候樣。御内々ゟ御頼被仰進候処、則御領掌之由御内々御返答被仰進候。尤表向ニてハ無之。御内斗ニて之事也。
「富宮」
文化七年(一八一〇)二月七日、「富宮」(とみのみや)と稱號を改められる。
『伏見宮日記』文化七年二月七日
一、シツ宮樣御事今日トミ御改名之由被仰出。・・・・・
文化七年(一八一〇)十二月五日、深曾木。
『伏見宮日記』文化七年十二月六日
・・・・・ 昨日ハ睦宮樣御紐直シ、冨宮樣御深曾木、ヘ宮樣御色直シ御祝義被爲在候ニ付 ・・・・・
文化十年(一八一三)十一月二十四日、紐直。
『伏見宮日記』文化十年十一月廿四日
一、今日依吉辰(陰陽寮勸進)宮樣方御祝儀共有之。先富宮樣御紐直。・・・・・
「幸宮」
文政三年(一八二〇)六月十六日、月見の儀が行われ、「幸宮」(もちのみや)と稱號を改める。
『伏見宮日記』文政三年六月十六日
一、茂知宮御方(冨宮御事)(貞敬親王姫宮也)今日御月見御祝儀爲在候。
【欄外】「但冨宮樣御改名之義御内限ニ而諸向江者一切爲御知無之事。」
・・・・・
文政九年(一八二六)三月二十一日、源朝臣忠堯[松平下總守(忍)]との縁組が内定。
『伏見宮日記』文政九年正月二十五日
『伏見宮日記』文政九年三月二十一日
松平下総守殿幸宮樣御縁組御内約御治定ニ付、・・・・・
文政九年(一八二六)五月二十一日、松平下總守忠堯との縁組が聽許される。
『伏見宮日記』文政九年四月朔日
『伏見宮日記』文政九年五月廿一日
『伏見宮日記』文政九年五月二十二日
文政九年(一八二六)六月十五日、結納。
『伏見宮日記』文政九年四月朔日
文政九年(一八二六)十一月十七日、關東へ發輿。
『伏見宮日記』文政九年十月十日
『伏見宮日記』文政九年十一月十七日
今卯刻過幸宮樣御發輿也。
・・・・・
『伏見宮日記』「文政九年十一月 幸宮御方關東御下向之記」(後藤主殿少允)
文政九年(一八二六)十二月五日、馬場先門邸に入輿。松平下總守忠堯と結婚。
『伏見宮日記』文政九年十二月五日
今日幸宮樣御入輿、即日御婚礼被爲在候。・・・・・
『皇室制度史料 皇族一』、三五九〜三六〇頁
文政十二年(一八二九)十一月二日、鶴松丸(大監院殿)を出産。
『伏見宮日記』文政十二年十一月九日
『伏見宮日記』文政十二年十一月二十四日
天保二年(一八三一)六月二十日、登年姫(相協院殿)を出産。
『伏見宮日記』天保二年六月廿九日
天保五年(一八三四)二月二十四日、鋼五郎(紹賢院殿)を出産。
『伏見宮日記』天保五年三月朔日
天保八年(一八三七)十一月二十四日、悦姫(玉泉院殿)を出産。
『伏見宮日記』天保八年十二月五日
天保十二年(一八四一)六月九日、男兒(眞空自性禪童子)を流産。
『伏見宮日記』天保十二年七月二日
天保十二年(一八四一)六月二十七日死亡。三十七歳。
『伏見宮日記』天保十二年七月二日
『伏見宮日記』天保十二年七月十三日
天保十二年(一八四一)六月二十八日、内々に入棺。
『伏見宮日記』天保十二年七月十三日
天保十二年(一八四一)六月二十九日、發喪。
『伏見宮日記』天保十二年七月六日
『伏見宮日記』天保十二年七月十三日
天保十二年(一八四一)七月四日、葬儀。法號・法名「寶雲院殿奇峯妙麗大姉」
『伏見宮日記』天保十二年七月十五日
平成新修 旧華族家系大成 下巻』六一八頁には、「天保一二、六、二七沒」とある。
『系圖纂要』「伏見宮」五六五頁には、「天保十二年六ノ廿九薨(卅五) 号 宝雲院奇峯妙麗」とある。
 
【墓所】
 谷中坂町の天眼寺
 
【配偶】
 源朝臣忠堯[松平下總守] ただたか
 松平(奥平)[忍(もと桑名)]第九代當主。
 源朝臣忠翼[松平下總守]の一男。
 享和二年(一八〇二)六月九日生。
 文政四年(一八二一)五月二十八日、繼承。
 上野介、民部大輔、下總守、侍從、修理大夫。
 天保九年(一八三八)十月十六日、隱居。號「適翁」。
 元治元年(一八六四)八月十四日沒。六十三歳。
 「大休院殿」
 
【子女】
 鶴松丸 「大監院明光智篤禪童子」
 源朝臣忠堯の三男。
 文政十二年(一八二九)十一月二日生。
 文政十三年(一八三〇)五月十六日沒。二歳。
 登年姫(登年子) 「相協院幽明惠昭禪童女」
 源朝臣忠堯の二女。
 天保二年(一八三一)六月二十日生。
 天保三年(一八三二)九月七日/八日沒。二歳。
 鋼五郎 「紹賢院明堂良儀禪童子」
 源朝臣忠堯の五男。
 天保五年(一八三四)二月二十四日生。
 天保五年(一八三四)八月二十九日沒。一歳。
 悦姫(悦子) 「玉泉院精明祖潤禪童女」
 源朝臣忠堯の女子。
 天保八年(一八三七)十一月二十四日生。
 天保九年(一八三八)八月五日/七日沒。二歳。
 
【文獻等】
『伏見宮實録』九八「貞敬親王實録」八「王女 韶子女王(松平忠堯室)」(宮内庁公文書館 識別番号75298)
『詰所系圖』「伏見殿」 七六頁
『系圖纂要』「伏見宮」 五六五頁
『雲上御系譜』皇族篇「伏見宮」 二二頁
平成新修 旧華族家系大成 下巻』 六一八頁
『皇統譜録』圖書寮 明治二十八年 第三〇號「皇族御親族調ニ付子爵松平忠敬へ照會案」(『伏見宮實録』九八「貞敬親王實録」八 所引)
大沢俊吉『長篠城より桑名城、忍城へ 松平家四百年の歩み』(恒文社、一九八五年十一月)所収「(武蔵忍松平)松平下総守御系図(其三)」


 
次頁 「 幸 [幸嘉]
『 親王 ・ 諸王略傳 』 目次 「 か 」  『 親王 ・ 諸王略傳 』 の冒頭
『 日本の親王 ・ 諸王 』 の目次


公開日時: 2020.12.08.
Copyright: Ahmadjan 2020.12 - All rights reserved.