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一五〇九年(永正六年)生。
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孝顯王
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永正八年(一五一一)七月十九日、從五位下に敍される。三歳。
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『實隆公記』永正八年七月十七日乙丑
及昏色、雅業王來。・・・・・ 兼又子息(三歳)可申爵。名字兩三談合之。大蔵卿勘云々。「孝顯」(此字可然歟之由命之。高明公ハ「アキラ」也。不可憚歟)。明後日可申入云々。
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『實隆公記』永正八年七月廿日戊辰
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東京大學史料編纂所所藏 [4143/11] 『親王公卿諸王諸臣歴名』諸王 從五位下
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源朝臣孝顯
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源朝臣を賜姓される。
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東京大學史料編纂所所藏 [4143/11] 『親王公卿諸王諸臣歴名』諸臣 從五位上
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『親王公卿諸王諸臣歴名』は、源孝顕が永正八年七月十九日に從五位上に敍されたと作すが、當該の日付は孝顯が從五位下に敍爵された年月日である。しかし、これは、孝顯が敍爵直後に源氏となったことを傳えていると理解することも可能か。
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永正十七年(一五二〇)四月十五日、父雅業王に代わり參内。
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『二水記』永正十七年四月十五日
未刻參當番。賀茂祭御盃如例。・・・・・ 伯三位【雅業王】實父【資氏王】正忌、仍不參候。息ーー丸令參候也。
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永正十八年(一五二一)三月四日、元服。十三歳。
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『二水記』永正十八年三月四日
從白川【雅業王】有使者。『今日子息【孝顯】加首服。可來』之由示之。故障之由令返答了。
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大永三年(一五二三)正月六日、從五位上に敍される。
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大永三年(一五二三)二月一日、左近衛少将に任じられる。十五歳。「白川少將」
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大永五年(一五二五)十二月二十五日、内侍所臨時御~樂に參仕。
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・・・・・ 御劔將資遠朝臣【平松】。御裾頭弁資定朝臣【柳原】。脂燭濟俊【姉小路】・具康(木造少將。近日上洛。俊茂朝臣【木造】息。初(【右】所)役一切初度)・孝顯【白川】・橘以緒・藤原氏直【冨小路】等也。・・・・・
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大永六年(一五二六)四月二十九日、後奈良院の踐祚に參仕。
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『二水記』大永六年四月廿九日
天陰。晩頭雨降。今日踐祚事。薄暮參内(・・・・・)。頃之親王御方【知仁親王】渡御也(・・・・・)。先左少將孝顯【白川】(衣冠)取御劔前行。・・・・・ 頭辨資定朝臣【柳原】爲陪膳、濟俊【姉小路】・孝顯【白川】・諸仲・橘以緒等役送。・・・・・
踐祚
公卿 此外列立殿上人(光繼)、頭辨資定朝臣(光繼朝臣、濟俊、孝顯) 顯量【町】 諸仲
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『資定卿記』大永六年孟夏廿九日(『稿本後奈良天皇實録』五一〜六二頁『資定一品記』)
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大永八年(一五二八)二月十日、御樂に初參。笙を奏す。
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大永八年(一五二八)三月二十八日、内侍所臨時御~樂に參仕。
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『御ゆとのゝ上の日記』大永八年三月廿八日
御かぐら【~樂】。・・・・・ しそく【脂燭】四條の中將【隆重】、あきかずのあそん【町顯量】、ひろなかのあそん【五辻諸仲】、ときつぐのあそん【山科言繼】、たかあき【孝顯】、ゆきお【薄以緒】、うちなを【富小路氏直】。・・・・・
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『二水記』大永八年三月廿八日
御代始初度内侍所御~樂有之。予依所勞不參。御裾頭辨資定朝臣【柳原】、御劔實世朝臣【三條西】、脂燭髀d【四條】、顯量【町】、諸仲【五辻】、言繼【山科】等朝臣、孝顯【白川】、橘以緒【薄】、藤原氏直【富小路】等云々。・・・・・
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『言繼卿記』大永八年三月廿八日庚子
天リ。今夜、内侍所之御~樂。御劔實世朝臣【三條西】、御裾資定朝臣【柳原】、御さうかいョ繼朝臣【葉室】。早參尹豐・兼秀【廣橋】等也。脂燭、殿上人髀d朝臣(四條中將)、顯量朝臣(町左兵衞佐)、諸仲朝臣(五辻左衞門佐)、予(言繼朝臣【山科】)、孝顯(白川少將)、橘以緒(薄極臈)、藤原氏直【富小路】等也。・・・・・
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大永八年(一五二八)四月六日・七日、後柏原院三回忌に參仕。八日は不參。
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『二水記』大永八年四月六日(丁未)
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『二水記』大永八年四月七日(戊申)
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『二水記』大永八年四月八日(己酉)
・・・・・ 四條【髀d】・中院・伯【雅業王】・孝顯【白川】等不參。・・・・・
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大永八年(一五二八)七月七日、七夕節の詩歌・樂御會に參仕。
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『言繼卿記』大永八年七月七日丁丑
天リ。・・・・・ 皆々被參候輩、帥大納言、鷲尾前中納言、老父【山科言綱】、甘露寺中納言、源宰相中將、實世朝臣【三條西】、範久朝臣【高倉】、予、公敍朝臣、孝顯【白川】、季遠也。宮御方、伏見殿も御參候了。・・・・・ 次、御樂、五過時分にはじまり候。於議定所在之。伏見殿御器、予持參。・・・・・ □□□□西園寺大納言、三條大納言、菊亭大納言、、鷲尾前□□□□、持明院宰相【基規】、伯三位【雅業王】、四條中將【髀d】、□□□□、四辻侍從等也。・・・・・
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『二水記』大永八年七月七日【樂目録。所作人交名/笙】
伯三位(【右注】殘ー青ー【青海波殘樂五反】)
・・・・・
孝顯
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源朝臣兼親
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享祿元年(一五二八)十二月二十二日、正五位下に敍される。諱を「兼親」と改める。
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『歴名土代』正五位下「源孝顯」
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※「同六」は「同八」、即ち、享祿元年とあるべきものであろう。
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享祿元年(一五二八)十二月二十九日、内侍所臨時御~樂に參仕。
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『御ゆとのゝ上の日記』大永八年十二月廿九日
御かぐら【~樂】。ぶ行、頭中將(【傍注】さね世)【三条西實世】。御れん【御簾】・御きよ【御裾】・御しやく、頭辨(【傍注】はむろ)【葉室ョ繼】。御さうかい【草鞋】、右中辨(【傍注】かねひで)【廣橋兼秀】。しそく【脂燭】、のり久【高倉範久】、くらのかみ【山科言繼】、かねちか【白川兼親】(【傍注】はく【伯】)、あねがこうぢの少將【姉小路少將高綱】、ながあつ【長敦】、すゑとを【四辻季遠】、うちなを【富小路氏直】、ありたゞ【在忠】。御ふく【御服】たかくる【ママ】【高倉】。御まへしやうぞく【御前装束】にはた【庭田】。御とも、ごんすけ殿・ながはし御まいり。・・・・・
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『二水記』享祿元年十二月廿九日丙申
今夜、内侍所御~樂也。・・・・・ 御裾、頭右大辨ョ繼朝臣【葉室】。御劔、頭中將實世朝臣【三條西】。脂燭殿上人、範久朝臣【高倉】、言繼朝臣【山科】、高綱【姉小路】、兼親【白川】、長敦、季遠【四辻】、藤原氏直【富小路】、菅原在忠等。右中辨兼秀【廣橋】、橘以緒【薄】等候後。・・・・・
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享祿二年(一五二九)正月一日、宮中の四方拜に參仕。
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『御ゆとのゝ上の日記』享祿二年正月一日
四はうはい【四方拜】あり。ぶ行、右中辨(【傍注】かねひで)【廣橋兼秀】。御れん【御簾】・御きよ【御裾】、頭辨(【傍注】よりつぐ)【葉室ョ繼】。御れん【ママ】【御劔】、頭中將(【傍注】さね世)【三條西實世】。しそく【脂燭】、くらのかみ【山科言繼】、かねみちか【ママ】【白川兼親】、ながあつ【長敦】、きよくらう【極臈。薄以緒】。御ふく【御服】、のり久【高倉範久】。御まへしやうぞく【御前装束】、くらのかみ【山科言繼】。・・・・・
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『言繼卿記』享祿二年正月一日戊戌
天リ。時々雪下。四方拜。御指【脂】燭候畢。職事、右中辨兼秀【廣橋】。先、白川少將兼親に装束予きせ候。次、頭辨(ョ繼朝臣【葉室】)にきせ候。次予著之。高倉少納言【範久】へ申之。・・・・・ 七時分出御。御簾、頭辨【葉室ョ繼】。御劔、頭中將(實世朝臣【三條西】)。御草鞋、右中辨【廣橋兼秀】。指【脂】燭、予、白川少將【兼親】、菅少納言(長敦)、橘以緒【薄】(極臈)等也。・・・・・
・・・・・
暮々、御祝參内仕候。・・・・・ 天酌。被參候輩、帥大納言、權大納言、萬里小路中納言、新中納言、實世朝臣、範久朝臣、予、公敍朝臣、兼秀、兼親【白川】、長淳、季遠、橘以緒等也。・・・・・
予外樣之番參候。公兄卿代油小路相轉、相番油小路前中納言(基富卿代)、高綱【姉小路】(番)、予等也。高綱者、故障之事候て退出候了。油小路・高綱等御禮申候。申次範久朝臣。
油小路前中納言、冠・袍・指貫等被借候間、借遣候了。
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享祿二年(一五二九)二月一日、従四位下に敍される。
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享禄三年(一五三〇)正月二十日、左近衞權中將に任じられる。
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土佐國に下向し、土佐一條家に仕え、土佐國高岡郡を支配。
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宮地森城『土佐國古城略史』(『日高村史料』一、84頁)の「日下西城」に、「城主白川兼親」とある。
『日高村史』96〜97頁には、兼親・富親父子が、一條家によって高岡郡日下の土岐城に置かれたとある。
『日高村史』591頁によると、土岐城は、西の古城、別府城とも呼ばれ、本郷鹿古にあり、城台は城八幡宮の境内であるという。
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天文十四年(一五四五)九月、難波和泉守に宛てて中村分使給の坪付状を發給した。
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『土佐國蠧簡集』卷三
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『南路志』卷九十九「年譜拾遺」三
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『南路志』卷三「闔国」第三「一條家」
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『日高村史料』一、1〜2頁
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朝倉慶景「戦国期の土佐国高吾地域の動きについての一考察」(中)23頁
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朝倉慶景「土佐大平氏についての一考察」(上)16頁 註(67)
天文九年六月四日には太【ママ】平元国の子息と考えられる国興が高岡郡日下村葛原若王子社に揚げた棟札を終見とし(註2六〇三号《『県史料』一一四七頁》)、天文十四年九月には土佐一条氏の一門白川兼親が高岡郡日下村で「中村分使給之事」を発給している(註1三三一号《『県史料』二九六頁》)このことは大平氏の支配地が土佐一条氏のものになっている
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『日高村史』100頁は、「天文」を「天正」と誤っている。
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天文二十年(一五五一)正月二十六日、土佐國高岡郡日下村の別符新八幡宮の「大檀那」として、社殿を改築し、棟札を奉納した。
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『土佐國蠧簡集木屑』
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『土佐國古文叢』
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『南路志』卷三「闔国」第三「一條家」
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『日高村史料』一、11頁
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高知県立郷土文化会館『高岡郡日高村資料調査報告書』(『日高村史料』一、117頁)日下村別符新八幡宮棟札
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『日高村史』 99〜100頁
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宮地啓介「仁淀川下流域における土佐一条氏の動向」348頁
また天文二十年(一五五一)の高岡郡日下村別符新八幡宮棟札銘に「□置祭別符新八幡宮、天文二十辛亥正月二十六日、大檀那従四位下行左近衛権中将源朝臣兼親」(『蠧簡集』)とある。源兼親とは一条氏に属して下向した公家白川兼親のことであり、享禄二年(一五二九)に従四位下に叙せられている(『歴名土代』)。
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天文二十四年(一五五五)十月、父 ~祇伯雅業王より中臣秡三種大秡の法を授けられた。
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猪熊信男所藏文書「中臣秡」(『伯家記録考』六一五〜六一八頁所收)一折奧書
從四位下行左近衞權中將源兼親 (花押)
右中臣秡三種大秡所奉授
天文廿四年十月 日 正二位~祇伯雅業
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元龜元年(一五七〇)十一月、長宗我部元親の弟 吉良親貞が率いる長宗我部軍の侵攻により、土岐城は落城。兼親の消息は不明であるが、それより以前に高岡郡を退去したと考えられる。
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『日高村史』 97〜99頁、591頁、611〜612頁、612〜613頁
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