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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[悦仁]
 
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悦仁親王 としひと
 
【幼稱】
 「
高貴宮」 あてのみや
 
【法號】
 「瑠璃光院宮
 
【出自】
 光格天皇の七男。
 
【生母】
 欣子内親王
 
【經歴】
文化十三年(一八一六)正月二十八日寅刻、誕生。
『禁裏執次詰所日記』文化十三年正月廿八日戊申
一、寅刻若宮御降誕。・・・・・
『實久卿記』文化十三年正月廿八日戊申
辰剋計、自頭左大辨俊明朝臣被送書状被示曰、依中宮皇子降誕、御劒使唯今可參内云々。・・・・・ 今曉寅刻皇子降誕。御平産云々。誠天下悦也。
『師贇記』文化十三年正月廿八日
今曉寅時、中宮皇子御降誕。・・・・・
『毫埃』文化十三年正月二十八日
中宮御産。皇子降誕。
『桂宮日記』文化十三年正月廿八日
『外樣言渡』文化十三年正月廿八日
『職寅記』文化十三年正月廿八日戊申
『悦仁親王誕生記』
文化十三年正月廿八日
  今月今日 若宮御誕生雜々日時。
・・・・・
高貴宮
文化十三年(一八一六)二月五日、七夜。稱號を「高貴宮(あてのみや)」と定められる。
『禁裏執次詰所日記』文化十三年二月五日乙卯
『伏見宮日記』文化十三年二月五日
『外樣言渡』文化十三年二月五日
『實起公記』文化十三年二月五日
『定祥卿記』文化十三年二月五日乙卯
此日中宮御七夜也。
『定祥卿記』文化十三年二月七日丁巳
午後廻状到來。若宮從今日(去五日被言渡云々)被稱高貴安天宮之旨也。
『毫埃』文化十三年二月六日
皇子稱高貴宮。
文化十三年(一八一六)二月二十八日、母(欣子内親王)と共に飛香舍に移る。
『禁裏執次詰所日記』文化十三年二月十八日戊辰
『外樣言渡』文化十三年二月廿一日
文化十四年(一八一七)十二月二十五日、髪置。
『洞中執次詰所日記』文化十四年十二月廿五日甲午
『禁裏執次詰所日記』文化十四年十二月二十五日甲午
『忠言卿記』文化十四年十二月二十五日甲午
今日高貴宮御髪置也。以表使御悦申入了。
文政元年(一八一八)十二月十八日、色直。
『洞中執次詰所日記』文化十五年十二月十八日辛巳
『禁裏執次詰所日記』文化十五年十二月十八日辛巳
文政四年(一八二一)二月八日、死亡。
『大宮御所女房日記』文政四年二月八日
一、高て宮樣御樣だい【御容態】御よろしからず、御三度も御かえしありまいらせ候。暮半過比少々御さしこみ、其まゝにて御よろしからず伺いし殘らずうかゞひ候へども、御よう生叫【叶】せられず、早々御しらせ申入候。
『洞中執次詰所日記』文政四年二月八日己丑
『禁裏執次詰所日記』文政四年二月八日己丑
悦仁親王
文政四年(一八二一)二月九日申刻、親王宣下。諱「悦仁(としひと)」
『毫埃』文政四年二月九日
上皇皇子高貴宮御違例危篤、俄親王宣下。
『洞中執次詰所日記』文政四年二月九日庚寅
一、高貴宮樣今夜親王宣下。御諱トシ仁。
  ・・・・・
『禁裏執次詰所日記』文政四年二月九日庚寅
一、今日(申刻)高貴宮立親王宣下陣儀。
  ・・・・・
一、高貴宮樣御諱  悦仁(登志比登)
  ・・・・・
『忠言卿傳奏記』文政四年二月九日庚寅
一、高貴宮立親王宣下云々。奉行職事光成朝臣。
    ・・・・・
一、親王御諱悦仁(登志比登)(・・・・・)
『大宮御所女房日記』文政四年二月九日
一、御所より三條殿御使にて、高貴宮樣よほど御ふれゐにつき、御みまひ仰られ候。御使長谷・冷泉殿。其日こなたより御肝煎御あいさつ御使にまいられ候。
少外記平田家記録 K61-54 『少外記平田家日次記』文政四年二月九日庚寅
文政四年(一八二一)二月十日戌刻、「御養生」のため九條家の土手町河原御殿に移る。
『洞中執次詰所日記』文政四年二月十日辛卯
『禁裏執次詰所日記』文政四年二月十日辛卯
『光格天皇日次案』文政四年二月十日辛卯
高貴宮爲御違例御保養、御退出于九條家別殿(戌刻)。
『伏見宮日記』文政四年二月十日
『忠言卿記』文政四年二月十日辛卯
一、高貴宮御違例ニ付、今晩九條家屋舗御退出候旨、池尻前中納言申入候。
『職寅記』文政四年二月十日辛卯
傳奏廣橋殿より、高貴宮樣御違例ニ付爲御養生今晩九條樣土手町御屋敷え被爲移候觸状到來也。
文政四年(一八二一)二月十一日未半刻「薨逝」。六歳。
『忠言卿傳奏記』文政四年二月十一日壬辰
一、午半刻許退出。兩人同伴、高貴宮【悦仁親王】祗候。以取次御容躰伺申。不被爲勝之趣。第三度御容躰書差出。小時今日未半刻薨去之旨、冷泉局言上。兩人奉即刻散退。
一、兩人參内。御容躰書附、園池前宰相、未半刻薨去之旨言上。自今日三ヶ日廢朝可被仰出哉伺定。自今日三ヶ日廢朝被仰出。訖當參兩役之輩伺御機嫌。以表使申入御返事之後、退出。
一、參院三ヶ日廢朝被仰出候旨、附日野言上。以表使伺御機嫌了。
一、參大宮伺御機嫌(以表使申入)。且御肝煎依參會依高貴宮薨去、自今日三ヶ日廢朝、洞中三ヶ日被停物音之旨、演達以状可申之處、依當參面展候旨申了。
『洞中執次詰所日記』文政四年二月十一日壬辰
『禁裏執次詰所日記』文政四年二月十一日壬辰
『實久卿記』文政四年二月十一日壬辰
リ。親王【悦仁親王】不被爲御養生、今未半剋薨去也。御年六歳。依之自今日三ヶ日廢朝。洞中・大宮等被止物音了。
『光格天皇日次案』文政四年二月十一日壬辰
高貴宮【悦仁親王】、今日未半刻薨去。依之自今日到十三日三箇日、洞中被停物音。爲勅使池尻前中納言參上(依高貴宮薨去也)。爲御使左兵衞督參内(同上)。
『職寅記』文政四年二月十一日壬辰
『大宮御所女房日記』文政四年二月十一日
稿本光格天皇實録』一八二九〜一八三〇頁 文政四年二月十一日「悦仁親王、薨ズ、仍ツテ是日ヨリ三箇日間、物音ヲ停メラル、」
文政四年(一八二一)二月二十日、追號を「瑠璃光院」と定められる。
『洞中執次詰所日記』文政四年二月廿日辛丑
『禁裏執次詰所日記』文政四年二月廿日辛丑
『忠言卿記』文政四年二月二十日辛丑
一、高貴宮御追號瑠璃光院御治定之旨、院傳奏兩卿被書達訖(入道濟仁親王撰進云々)。
文政四年(一八二一)二月二十一日亥刻、入棺。
『禁裏執次詰所日記』文政四年二月廿一日壬寅
『忠言卿記』文政四年二月二十一日壬寅
瑠璃光院宮今晩亥刻御入棺云々。
文政四年(一八二一)二月二十七日、泉涌寺に葬られる。號「瑠璃光院宮」
『禁裏執次詰所日記』文政四年二月廿七日戊申
『毫埃』文政四年二月廿七日
奉葬悦仁親王于泉涌寺。號瑠璃光[院]宮。
『忠言卿記』文政四年二月二十七日戊申
一、瑠璃光院宮今晩泉涌寺御葬送。
『職寅記』文政四年二月廿七日戊申
今日瑠璃光院宮泉涌寺え御葬送也。藏人方よりは參勤等之事無之也。
『伏見宮日記』文政四年二月廿八日戊申
『御系譜』
皇子。御母皇后宮欣子。文化十三年正月二十八日寅刻降誕(去十二月二十五日、皇后宮御着帶、渡御于桂芳坊、御産皇子)。二月五日、號高貴宮旨被仰出。・・・・・ 文政四年二月九日親王宣下()。御諱悦仁。・・・・・ 十一日薨(六歳)。・・・・・ 奉號瑠璃光院宮。
文政四年(一八二一)五月二十一〜二十二日、泉涌寺において百箇日法會が行われる。
『光格天皇日次案』文政四年五月廿一日庚午
朝間雨、午刻後陰、夕景屬リ。今日、瑠璃光院宮【悦仁親王】御百箇日逮夜、於泉涌寺被修御法會。
   ・・・・・
『光格天皇日次案』文政四年五月廿二日辛未
陰、夕陽屬リ。
今日、瑠璃光院宮【悦仁親王】百箇日、於泉涌寺被修御法會。
   ・・・・・
稿本光格天皇實録』一八三四〜一八三五頁 文政四年五月二十二日「昨今兩日ニ亙リ、泉涌寺ニ於テ瑠璃光院宮ノ百箇日御法會ヲ行ハル、御代參トシテ上冷泉爲全ヲ泉涌寺ニ遣サル、」
 
【墓所】
 泉涌寺
『陵墓要覽』(昭和九年版)
皇子悦仁トシヒト親王墓 京都府京都市東山區今熊野字泉山月輪陵域内
    寶篋印塔 瑠璃光院尊儀 四條天皇陵以下廿五陵五灰恚纒謫ッ域
 
【文獻等】
稿本 光格天皇實録』 二六〇〇〜二六一七頁「皇子悦仁親王」
C水正健『皇族考證』第伍巻 三百九十八〜三百九十九頁
『皇室制度史料 皇族三』 三二頁


 
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更新日時: 2008.12.24.
公開日時: 2005.12.17.


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