前頁 「 永 [永邦]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[永平]
 
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□ 永平親王
 
【稱號】
 「八宮

 
【出自】
 村上天皇の第八親王。
 
【生母】
 藤原朝臣芳子
 藤原朝臣師尹の女子。
 藤原朝臣濟時の妹。
『大鏡裏書』「四品兵部卿永平親王」
村上天皇第八皇子。母女御藤原芳子。小一條左大臣師尹公女。
『一代要記』村上天皇 皇子「永平親王」
四品、兵部卿。母同昌平。號八宮。
『一代要記』村上天皇 皇子「昌平親王」
母女御藤芳子。
 
【經歴】
九六五年(康保二年)生。
『扶桑略記』永延二年十月十三日條より逆算。
康保三年(九六六)四月十九日、親王宣下。
『日本紀略』康保三年四月十九日甲寅
今上第八皇子永平爲親王。
母方のオジ 藤原朝臣濟時に扶養され、小一條院殿に住む。
『榮華物語』巻第一「月宴」
天元二年(九七九)正月四日、臨時客。
天元二年(九七九)二月二十日、小一條第において元服。同日、四品に敍される。
『花鳥餘情』一「桐壺」所引『小右記』天元二年二月廿日
八宮【永平親王】御元服。仍參小一條院。理髪頭中將正清【】。引入左大臣雅信【】。引入祿并馬一疋。理髪鷹一聯等也。
『日本紀略』天元二年二月廿日己巳
村上第八永平親王於小一條第加元服。左大臣(【傍注】雅信)加冠。其禮了、初參内。有御遊。親王敍四品。
兵部卿に任じられる。
永延二年(九八八)十月十三日、薨逝。二十四歳。
『日本紀略』永延二年十月十二【十三】日丙寅
兵部卿四品永平親王(【傍注】村上皇子)薨。
國史大系本頭注
「十三日丙寅諸本作十二日丙寅今据通暦推干支訂之且永平親王薨略記係十三日可以徴」
『扶桑略記』永延二年十月十三日
兵部卿四品永平親王薨(廿四)。
永延二年(九八八)十一月二十三日、薨奏。
『小右記』永延二年十一月廿三日丙午「兵部卿親王永平薨奏事」
・・・・・ 奏兵部卿永平親王薨由 ・・・・・
 
【子女】
「宮達五六人」がいたという。
『榮華物語』巻第十「日かげのかづら」
・・・・・ 大殿【藤原道長】も、『 ・・・・・ いみじき村上の先帝と申しゝかど、かの大將【藤原濟時】の妹の宣耀殿の女御【芳子】の産み給へりし八の宮【永平親王】こそは、世の痴者のいみじき例よ。それに、この宮達、五・六人おはするに、すべて痴れかたくなしきがなきなり』などこそは申させ給ふに、まいて世の人は聞きにくきまでぞ申しける。
 
【逸事等】
容姿端麗であったが、「いみじきしれもの」「よの第一のしれもの」であった、という。
『榮華物語』巻第一「月宴」
『榮華物語』巻第十「日かげのかづら」
かの【藤原濟時の】御妹の宣耀殿の女御【藤原芳子】、村上の先帝の いみじきものに思ひ聞えさせ給ひけれど、女御にて止み給ひにき。男宮【永平】一人【ママ】産み給へりしかども、その宮、賢き御中より出で給へるとも見え給はず、いみじき痴者にて やませ給ひにけり ・・・・・
『大鏡』第二巻「左大臣師尹」
・・・・・ 御女【藤原芳子】村上の御時の宣耀殿女御、かたちおかしげに うつくしう おはしけり。・・・・・ この女御の御はらに、八宮とて男[親王一人]【ママ】むまれたまへり。御かたちなどは きよげに おはしけれど、御心きはめたる よの第一のしれものと[ぞ]きゝたてまつりし。世中の かしこきみかどの御ためしには、もろこしには堯のみかどゝ舜のみかどゝ申。この國には延喜・天暦とこそは申めれ。延喜とは だいごの先帝の御事、天暦と申は村上の先帝の御事なり。そのみかどの御子は小一條大臣【藤原師尹】[の]むまごにてしかしれ給へりける。いと々々あやしき事なりかし。
幼少の頃、母方のイトコである藤原〓【女成/女戎】子を戀慕した、という。
『榮華物語』巻第一「月宴」
かゝるほどに、かのむらかみの先帝の御おとこ八宮、宣耀殿の女御【藤原芳子】の御はらのみこに おはします。いとうつくしく おはしませど、あやしう御心ばへぞ心えぬさまに おひいで給める。御おぢの濟時のきみ、いまは宰相にて おはするぞ、よろづに あつかひ聞えたまひて、小一條のしんでんに おはするに、此宰相は枇杷の大納言延光【】のむすめにぞ すみ給ける。母は中納言敦忠【藤原】の御女也。えもいはず美しき姫君【藤原〓【女成/女戎】子】、さゝげものにして かしづき給。かの八宮【永平親王】は、はゝ女御【藤原芳子】も うせ給にしかば、この小一條の宰相のみぞ、よろづに あつかひ聞え給ふに、まだ おさなきほどに おはすれど、この八宮、いと わづらはしき程に思ひ聞へ給へれば、ゆゝしうて、あへて みせ奉り給はず なりにたり。おさなき程は、うつくしき御心ならで、うたて ひが々々しく しればみて、又さすがに かやうの御心さへ おはするを、いと心づきなしと おぼしけり。・・・・・
母方のイトコにあたる藤原實方・藤原相任らによって嘲弄されていた、という。
『榮華物語』巻第一「月宴」
宰相【藤原濟時】の御をいの實方の侍從も、この宰相を おやにし奉り給ふ。この ひめぎみ【藤原〓【女成/女戎】子】の御あにゝて、おとこ君を【は】長命君【藤原相任】といひておはす。おば【おほ】北の方とりはなちて、びは殿にてぞ やしなひたてまつり たまひける。そのきみだちも、たゞこの宮【永平親王】をぞ もてわづらひぐさに したてまつり給ければ、ともすれば うちひそみたまふを、いとゞおこがましきことに わらひたてまつり給へるに、にくさは、ひめ君を いとめでたきものに見奉り給ひて、つねに參りより給けるを、宰相むげに心づきなしと おぼしなりにけり。この八宮、十二ばかりにぞ なり給にける。この御心ざまの心えぬ なげきをぞ、宰相は いみじう覺したる。實方侍從・長命君など あつまりて、『むまに のりならはせたまへ。のらせ給はぬは、いと あしき事也。宮達は さるべきおり々々は馬にてこそ ありかせたまはめ【給へ】』とて、御まやの御馬めしいでゝ、おまへにて のせたてまつりて、さゝと みさはげば、おもて いと あかくなりて、むまのせなかに ひれふし給へば、いみじう わらひのゝしるを、宰相かたはらいたしと おぼすに、『いだきおろし たてまつれ。おそろしと おぼすらん』と の給へば、さゝと笑ひのゝしりて、いだきおろし たてまつりたれば、むまのかみを ひとくち くゝみて おはするを、宰相いと わびしと み給ふ。女房たちなど わらひのゝしる。
子のなかった中宮 昌子内親王(朱雀院の女子)は、容姿の美しい永平親王を子としようとしたが、親王の痴者であることが明らかとなり、沙汰止みとなった、という。
『榮華物語』巻第一「月宴」
・・・・・ かゝるほどに、冷泉院のきさいのみや【昌子内親王】、みこも おはしまさず つれ々々なるを、『この八宮【永平親王】、こにしたてまつりて かよはし奉らん』となむ のたまはする、といふことを宰相【藤原濟時】つたへきゝ給て、『いと々々うれしう めでたき事ならん。かの宮【昌子内親王】は、たから いとおほく もたせ給へる宮なり。故朱雀院の御たから物は、たゞこの宮にのみこそは あんなれ。此みやは、幸おはさる【おはしける】宮なり。たからの王になり給なんとす』とて、よき日して參りぞめさせ給へり。中宮、『さりとも、かの宮、小一條の宰相 をしへたてたらむ心のほど、こよなからん』と おぼして、むかへ奉らせ給ふ。宰相いみじう したてゝゐてたてまつりたまへければ、み奉り給に、御かたち にくげもなし。御ぐしなど いと おかしげ【をかしげ】にて、よほろ【よをろ】ばかりに おはします。うつくしき御なをしすがたなりや。やがて よびいれ奉らせ給ひて、みなみおもての ひのおましの方に かしづき すへ【すゑ】奉らせ給ふ。御ともの人々に かつげ物 給ひ、御をくり物などして、かへし たてまつらせ たまふ。ものなど申させ給ひけるに、すべて御いらへなくて、たゞ御かほのみ あかみければ、『かぎりなく あてに、おほどかに おはするなめり』とおぼしけり。そのゝち、とき々々まいり給に、なを ものゝたまはず。あやしう おぼしめす程に、きさいの宮、なやましうせさせ給ければ、宰相、宮の御とぶらひに いだしたてまつらせ給。『まいりては、いかゞいふべき』と のたまはすれば、『御なやみのよし うけたまはりてなん、とこそは申給はめ』など、をしへられて參り給へれば、れいの よびいれたてまつり給に、ありつることを、いとよく のたまはすれば、みや【昌子内親王】、なやましうおぼせど、うつくしう おぼしめして、『さは、のどかに又おはせよ』など きこえさせたまふ。まかで給ひて、宰相に『ありつる事、いとよく いひつ』と の給へば、いで あな しれがましや、いと心ぢきなう おぼして、『いかで、いひつ、とは申給ぞ、それは かたじけなき人を』と きこえ給へば、『をい々々、さなり々々々』と の給ふほど、いたはりどころなう、心うく みえさせ給ふを、わびしうおぼす程に、天祿三年になりぬ。ついたちには、かの宮【永平親王】、御さうぞく めでたくしたてゝ、みやへ まいらせ たてまつり給。聞え給ふべき事を このたびは わすれて、教へたてまつり給はずなりにけり。宮には、八宮參らせたまひて、御まへにて はいしたてまつり給へば、いと々々あはれにうつくしと みたてまつらせ給ふ。心ことに御しとねなどまゐり、さるべき女房たちなど、花やかに さうぞきつゝいでゐて、『いらせ給へ』と申せば、うちふるまひ いらせ給ほど、いと うつくしければ、『あな うつくしや』など めできこゆる程に、しとねに いと うるはしく ゐさせ給て、『なにごとを きこへ給べきにか』と、あつまりて、あふぎを さしかくしつゝ、をしこりて みな居なみて、かつは、『あな恥しや。小一條の姫君の御方の いみじからんものを』など、口々きこえあへる程に、うちこはづくりて申いで給ふことぞかし、いと あやし。『御なやみのよし 承りてなん 參りつる事』と申給ものか。こぞの御なやみのおりに まいりたまへりしに、宰相の をしへ きこえ給ひしことを、正月のついたちの はいらいに まいりて申給なりけり。宮の御前、あきれて ものも の給はぬ【のたまはせぬ】に、女房たち、なにとなく、さとわらふ。『よがたりにも しつべき みやの御ことばかな』とさゞめき、しのびもあへず わらひ のゝしれば、いと はしたなく、かほ あかみて ゐ給ひて、『いなや。おぢの宰相の、こぞの御こゝちのおり、まいりしかば かう申せ、といひしことを、けふは いへば、など、これが おかしからん。物わらひ いたうしける女房たち おほかりけるみやかな。やくなし。まいらじ』と、うちむづかりて まかで給ふありさま、あさましう、おかしうなむ。小一條に おはして、『あさましき事こそ ありつれ』と かたりたまへば、宰相、『なに事にか』と聞え給へば、『いまは、みやに すべて まいらじ。たゞころしにころされよ』と のたまはすれば、『いなや。いかに はべりつることぞ』と きこえたまへば、『御なやみのよし うけたまはりてなん まいりつる、と申つれば、女房の十・廿人といでゐて、ほゝと わらふぞや。いとこそ はらだゝしかりつれ。されば、いそぎ出できぬ』と の給へば、との、いと あさましう いみじと おぼして、すべて物も の給はず、『いなや。ともかくも の給はぬは、まろが あしういひたる事か。こぞ まいりしに、さ申せと のたまひしかば、それをわすれず申たるは、いづくの あしきぞ』と のたまふを、いみじとおぼしいりためり。
酒好きであった母方のオジ 藤原濟時は、永平親王に大饗を開催させ、人々を集めて呑み樂しもうと企畫したが、かえって親王の「見ぐるしき御ありさま」を人々に見せてしまうこととなった、という。
『大鏡』第二巻「左大臣師尹」
その母女御【藤原芳子】の御せうと、濟時の左大將と申しゝ。・・・・・ 御をいの八宮【永平親王】に大饗せさせたてまつり給て、上戸におはすれば、人々ゑひしてあそばん、などおぼして、『さるべき上達部たち、とく出るものならば、しばし、など おかしきさまに とゝめさせ給へ』と よくをしへ申させ給ひけり。さこそ人がら あやしく しれ給へれど、やんごとなき みこの大事にし給ふ事なれば、人々あまたまいり給へりしも、こたひ【古體】なりかし。されど、おほやけごと さしあはせたる日なれば、いそぎ出給ふに、『まこと さる事ありつ』と おぼしいでゝ、大將の御方を あまたゝび見やらせ給ふに、目をくばせ申給へば、御おもて いと あかくなりて、とみに えうちいでさせ給はず、ものも えおほせられで、にはかに おひゆる【をびゆる】やうに、おどろ々々々しく、あらゝかに、人々のうへのきぬのかたも【かたゝもと】おちぬばかり、とりかゝらせ給に、まいりとまいれる上達部は、すへの座まで見あはせつゝ、えしづめずや ありけむ。かほけしき かはりつゝ、取りあへずごとに ことをつけつゝなん、いそぎたちぬ。この入道殿【藤原道長】などは、わか殿上人にて おはしましけるほどなれば、事すゑにて よくも御らんぜざりけり。『たゞ人々のほゝゑみて いで給ひしをぞ見し』とぞ、此ころ おかしかりしことに かたり給ふなる。大將は、『なにせむに、かゝることを せさせたてまつりて、又しか の給へとも をしへ聞えけん【きこえさせつらむ】』と くやしく おぼすに、御いろも あをくなりてぞ おはしける。まことに みこをば、もとより さる人と しり申たれば、人、これをしも そしり申さず、この殿をぞ、『かゝる御心と見る々々、せめてなくて【ならで】あるべきことならぬに、かく見ぐるしき御ありさまを、あまた人に みせきこえ給へる事』と そしり申し。いみじき心ある人と[よ]おぼえおはせし人の、くちおしくて【くちをしき】ぞくがう【辱號】とり給へるよ。
 
【文獻等】
清水正健『皇族考證』第參巻、二三〇頁
『大日本史料』第二編之一 永延二年十月十三日「四品永平親王薨ズ」、二八九〜二九八頁
松本治久「『大鏡』「師尹傳」の逸話の検討 その1 −− 芳子・永平親王を中心に−−」(『並木の里』第三十五号、一九九一年十二月、一六〜二三頁
諸先學の先行研究は殆ど引用されていない。
(二一頁上)
[『大鏡』の]「作者は、永平親王に対してよりもむしろ濟時に関心を寄せていた、とみるべきであろう。」
(二二頁上)
「『大鏡』についてみると、永平親王について、その人がらは述べていても、逸話を語るものではない。これは永平親王が皇位に即く可能性が全くなかったものであるから、作者の関心がそこにはなく、むしろ安子と対立する関係にあった芳子、或いは道長と関わりのあった濟時、及びその孫敦明親王に関心があり、これを述べたといってよい。このように王権・政権に直接関係のないものについては、『大鏡』の作者は削ることもしている。ここに『大鏡』の歴史記述の態度がある。」


 
次頁 「 永 [永野]
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更新日時: 2006.01.26.
公開日時: 2003.08.11.


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