● |
正保三年(一六四六)、大聖寺より退隱。東御所に居す。
|
● |
元祿三年(一六九〇)七月十九日、死去。八十二歳。
※ |
『通誠公記』元祿三年七月廿日條による。『基量卿記』元祿三年七月廿一日條、『尼門跡の言語生活の調査研究』所收『御由緒書 大聖寺寺門跡』等によると、七月二十日薨去。
|
◎ |
『通誠公記』元祿三年七月廿日
傳聞。昨日陽コ院宮(大聖寺先住。後陽成院皇女)薨去。御年八十四才。痢病云々。今曉喝食宮(仙洞【靈元院】皇女。實者房輔公【鷹司】息女。御猶子也)被薨。五才云々。
|
|
◎ |
『基量卿記』元祿三年七月廿一日
傳聞。昨夕養コ院宮薨去。大聖寺宮御隱居。八十才余。・・・・・
|
|
◎ |
『尼門跡の言語生活の調査研究』所收『御由緒書 大聖寺門跡』
当寺第十五世陽徳院説外永宗宮
後陽成天皇ノ皇女、母儀平内侍局、西洞院家ノ出。慶長十四年五月二日降誕。寛永元年四月十一日入室得度。紫衣ヲ拝領ス。元祿三年七月二十日薨ス。寿八十二。
|
|
|
● |
元祿三年(一六九〇)七月二十二日、歡喜寺に葬られる。
◎ |
『詰所系圖』、後陽成院の子「皇女」
大聖寺。永崇。[イ退院後號養コ院]。母平内侍局時子、西洞院宰相時慶卿女。慶長十四年五月二日生。元祿三年七月廿日寂(八十二歳)。號陽(イ養)コ院。同廿二日葬于歡喜寺。
|
|
◎ |
類從本『皇胤紹運録』、後陽成院の子「大聖寺皇女」
法名永崇。號東御所。母平内侍、西洞院宰相時慶卿女。
慶長十四年五月二日誕生。寛永元年四月廿一日入寺得度。正保三年辭職、居東御所。元祿三年七月廿日薨八十二。廿二日葬于大歡喜寺。號陽コ院宮。
|
|
|