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天慶七年(九四四)五月三日、駒牽に參仕。
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天慶九年(九四六)四月二十八日、村上天皇の即位式において、右大將代を勤仕。
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『即位部類記』所引『九條殿御日記』天慶九年四月廿八日戊子
天皇【村上】即位。・・・・・ 大和守忠幹朝臣【源】、内膳正有融[王]等、[爲]左右大將代者。
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『天祚禮祀職掌録』村上天皇
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天暦元年(九四七)十二月十七日、荷前使を勤仕すべく待賢門外に參候したが、脚病の由を申上、荷物使を辭そうとした。實檢したところ、脚病は事實であり、左右の脚が腫れていた。しかし、その脚病は「顯著」でないとされ、十二月二十日、次侍從職を解任させられた。
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『九條殿記』荷前 天暦元年十二月廿日
參殿【藤原忠平】、執申可被解却侍從六人之由。仰云。『先例已有。此事雖有當時人恨、任法式被行。更有何事』。參内。着宜陽殿座、召中務大輔博雅朝臣【源】書出可刊棄之侍從夾名六人。而賜之、須以詞仰之。然而依人數已多、所書出也。
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國淵朝臣、有融王、尹甫朝臣【藤原】。
三人、雖參門外、其病不顯然。
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勘申今月十六日荷前不參次侍從并散位等事。
一次侍從不參
後田原【光仁天皇】
解長官有融王(參待賢門。仍遣官掌眞髪部常雄加實検。申云。脚病實也。左右脚腫者)。 雖申病由不顯着(【右傍】著)、仍解却。
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天暦元年十二月十七日大外記三統宿祢公忠勘申。
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