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七九二年(延暦十一年)、安殿親王[皇太子](のちの平城天皇)の一男として誕生。
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大同四年(八〇九)九月十五日、無品から四品に敍される。
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『類聚國史』巻九十九「職官部」四「敍位」四 大同四年九月戊午
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『日本紀略』大同四年九月戊午
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父 太上天皇(平城天皇)の事件に坐し、大同五年/弘仁元年(八一〇)九月十九日、大宰權帥に任じられ、大宰府に赴く。
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『日本後紀』弘仁元年九月丙辰
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※ | この左遷人事を「配流」とするのは誤り。
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平城天皇崩後の天長元年(八二四)八月九日、太上天皇(嵯峨天皇)の勅により入京を許される。
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『日本紀略』天長元年八月乙酉
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※ | この年に阿保親王は伊都内親王と結婚したと考えられる。そして、八二五年には在原朝臣業平が誕生している。
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天長十年(八三三)三月六日、仁明天皇即位の日、三品に敍される。
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承和元年(八三四)二月五日、治部卿に任じられる。
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承和元年(八三四)二月十三日、遠江國敷智郡に古荒田卅三町を賜わる。
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承和元年(八三四)三月二十一日、上野太守に任じられる(兼任)。
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承和三年(八三六)五月十五日、治部卿より宮内卿に轉任。
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承和四年(八三七)六月二十三日、宮内卿より兵部卿に轉任。
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承和七年(八四〇)六月十日、彈正尹に任じられる。
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承和九年(八四二)正月十三日、上總太守に任じられる(兼任)。
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承和九年(八四二)七月、伴健岑より「謀反」に誘われた(七月十日)のを橘朝臣嘉智子(嵯峨太皇太后)に密告。
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『續日本後紀』承和九年七月己酉
是日、春宮坊帶刀伴健岑・但馬權守從五位下橘朝臣逸勢等謀反。事發覺。・・・・・ 先是、彈正尹三品阿保親王緘書、上呈嵯峨太皇太后。々々喚中納言正三位藤原朝臣良房於御前、密賜緘書、以傳奏之。其詞曰。今月十日、伴健岑來語云。嵯峨太上皇今將登遐。國家之亂在可待也。請奉皇子入東國者。書中詞多、不可具載。
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● | 承和九年(八四二)十月二十二日、薨逝。
「承和の變」を密告した功により、葬儀の日、一品を贈られる。
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『續日本後紀』承和九年十月壬午
彈正尹三品阿保親王薨。遣從四位上藤原朝臣助・從四位下田口朝臣佐波主・從五位下【上】藤原朝臣宗成・從五位下路眞人永名等、監護喪事。葬日遣參議從四位上和氣朝臣眞綱等、贈位。曰。 天皇大命良万止阿保親王尓宣久。往者逆人結黨天不善留事謀利、而乎親王乃至誠有天白顯留尓依〓【氏一】、伏罪天國家不亂奈理尓太理。依此〓【氏一】伊都志賀參入坐牟冠位上賜牟止念行攴。而間尓不慮外尓忽尓朕我朝廷乎置天罷坐奴止聞食天奈毛。驚賜比悔賜比哀賜比都都大坐。然毛治賜比授奉牟止所念之位止爲天奈毛。一品贈賜比治賜布。又遺留礼留親母并子等乎毛殊矜治賜牟。罷坐留道間波、平久幸久宇志呂毛輕久罷坐止詔不天皇我大命乎宣。 親王者、皇統彌照天皇孫。而天推國高彦天皇之第一皇子也。母葛井氏【藤子】焉。大同之季、 天皇禪國皇太弟、遷御平城宮。弘仁元年、太上天皇心悔而有入東之謀。親王坐此倉卒之變、出大宰員外帥。經十餘年、至天長之初、特有恩詔、令得入京。稍歴治部・兵部卿・彈正尹、兼上野・上總等太守。親王素性謙退。才兼文武、有膂力、妙絃歌。春秋五十一而薨也。
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