前頁 「 阿 [阿閇A]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[阿保]
 
フレームなし


□ 阿保親王 アボ
『實隆公記』永正四年十一月廿九日戊辰 に、
 短册卅首獻桃花坊了。阿保親王・伊登内親王等訓點事尋申處、アホ(ホウトハ不書之)・イトウ。此外故禪閤不令讀給之由有返答。
と見える。

 
【目次】
 ● 第 一 頁
  出自   生母   經歴  
  墓所   配偶   子女  
 
 ●
第 二 頁
大江朝臣音人の出自   阿保親王と打出・蘆屋
阿保親王と河内國阿保   阿保親王と藤井寺
阿保親王と阿保山願成寺   『朝日新聞』における「阿保天皇」誤記一件
文獻等   關聯ホームページ
    本項末尾
 
【出自】
 平城天皇の一男。
 桓武天皇の孫。
 
【生母】
 葛井宿禰藤子(のち蕃良朝臣藤繼)
『国史大辞典』「あぼしんのう 阿保親王」(目崎徳衛執筆。『国史大辞典』第一巻、二八二頁)には、「母は更衣とみられる葛井宿禰藤子」とある。
●『一代要記』によると、葛井宿禰道依の女子。
『一代要記』二「第五十一平城天皇」皇子「阿保親王」
母從五位上番長【蕃良】藤繼、正五位下葛井宿禰道依女、後改番長【蕃良】朝臣。三品、彈正尹。承和九年十月薨。贈一品。
類從本『本朝皇胤紹運録』「阿保親王」
三品。彈正尹。贈一品。母番長【蕃良】藤姫【衍カ】、從五上桑田良【※「桑田」は「蕃」の誤】藤繼。道女【ママ】。
『帝王編年記』十二「平城天皇」皇子「阿保親王」
母葛井宿[禰]道依女也。・・・・・
● 天長十年(八三三)八月十日、從五位下に敍される。
『續日本後紀』天長十年八月癸巳
是日、太上天皇【嵯峨天皇】幸姫大原眞人全子、橘朝臣春子、阿保親王母氏葛井宿禰藤子並敍從五位下。
● 阿保親王の薨逝の時には存命。
『續日本後紀』承和九年十月壬午 宣命
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【經歴】
七九二年(延暦十一年)、安殿親王[皇太子](のちの平城天皇)の一男として誕生。
大同四年(八〇九)九月十五日、無品から四品に敍される。
『類聚國史』巻九十九「職官部」四「敍位」四 大同四年九月戊午
無品阿保親王授四品。
『日本紀略』大同四年九月戊午
無品阿保親王授四品。
父 太上天皇(平城天皇)の事件に坐し、大同五年/弘仁元年(八一〇)九月十九日、大宰權帥に任じられ、大宰府に赴く。
『日本後紀』弘仁元年九月丙辰
四品阿保親王爲大宰權帥。
この左遷人事を「配流」とするのは誤り。
平城天皇崩後の天長元年(八二四)八月九日、太上天皇(嵯峨天皇)の勅により入京を許される。
『日本紀略』天長元年八月乙酉
太上天皇有勅。弘仁元年權任流人等皆盡聽入京。
この年に阿保親王は伊都内親王と結婚したと考えられる。そして、八二五年には在原朝臣業平が誕生している。
天長十年(八三三)三月六日、仁明天皇即位の日、三品に敍される。
『續日本後紀』天長十年三月癸巳
授四品阿保親王・賀陽親王並三品。
承和元年(八三四)二月五日、治部卿に任じられる。
『續日本後紀』承和元年二月丙戌
三品阿保親王爲治部卿。
承和元年(八三四)二月十三日、遠江國敷智郡に古荒田卅三町を賜わる。
『續日本後紀』承和元年二月甲午
遠江國敷智郡古荒田卅三町賜阿保親王。
承和元年(八三四)三月二十一日、上野太守に任じられる(兼任)。
『續日本後紀』承和元年三月辛未
三品阿保親王爲上野太守。治部卿如故。
承和三年(八三六)五月十五日、治部卿より宮内卿に轉任。
『續日本後紀』承和三年五月癸丑
以治部卿三品阿保親王爲宮内卿。上野太守如故。
承和四年(八三七)六月二十三日、宮内卿より兵部卿に轉任。
『續日本後紀』承和四年六月甲寅
宮内卿三品阿保親王爲兼兵部卿。上野太守如故。
承和七年(八四〇)六月十日、彈正尹に任じられる。
『續日本後紀』承和七年六月甲寅
[以]三品阿保親王爲兼彈正尹。
承和九年(八四二)正月十三日、上總太守に任じられる(兼任)。
『續日本後紀』承和九年正月戊申
三品阿保親王爲兼上總太守。彈正尹如故。
承和九年(八四二)七月、伴健岑より「謀反」に誘われた(七月十日)のを橘朝臣嘉智子(嵯峨太皇太后)に密告。
『續日本後紀』承和九年七月己酉
是日、春宮坊帶刀伴健岑・但馬權守從五位下橘朝臣逸勢等謀反。事發覺。・・・・・ 先是、彈正尹三品阿保親王緘書、上呈嵯峨太皇太后。々々喚中納言正三位藤原朝臣良房於御前、密賜緘書、以傳奏之。其詞曰。今月十日、伴健岑來語云。嵯峨太上皇今將登遐。國家之亂在可待也。請奉皇子入東國者。書中詞多、不可具載。
承和九年(八四二)十月二十二日、薨逝。
「承和の變」を密告した功により、葬儀の日、一品を贈られる。
『續日本後紀』承和九年十月壬午
彈正尹三品阿保親王薨。遣從四位上藤原朝臣助・從四位下田口朝臣佐波主・從五位下【上】藤原朝臣宗成・從五位下路眞人永名等、監護喪事。葬日遣參議從四位上和氣朝臣眞綱等、贈位。曰。 天皇大命良万止阿保親王。往者逆人結黨不善事謀、而親王至誠有白顯留尓〓【氏一】、伏罪國家不亂奈理尓太理。依此〓【氏一】伊都志賀參入坐冠位上賜牟止念行。而間不慮外朝廷罷坐奴止聞食天奈毛。驚賜悔賜哀賜比都都大坐。然治賜授奉牟止所念天奈毛。一品贈賜治賜。又遺留礼留親母并子等乎毛殊矜治賜。罷坐道間、平宇志呂罷坐天皇大命宣。 親王者、皇統彌照天皇孫。而天推國高彦天皇之第一皇子也。母葛井氏【藤子】焉。大同之季、 天皇禪國皇太弟、遷御平城宮。弘仁元年、太上天皇心悔而有入東之謀。親王坐此倉卒之變、出大宰員外帥。經十餘年、至天長之初、特有恩詔、令得入京。稍歴治部・兵部卿・彈正尹、兼上野・上總等太守。親王素性謙退。才兼文武、有膂力、妙絃歌。春秋五十一而薨也。
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【墓所】
「阿保親王墓」が、兵庫縣武庫郡(もと莵原郡)精道村大字打出親王塚(兵庫県芦屋市翠ヶ丘町)に所在。
元祿四年(一六九一)の阿保親王八百五十年忌に、阿保親王の子孫を稱する長州萩の毛利家が墓域を改修し、燈籠を寄進した(平成七年(一九九五)の大震災で四對のうち一對が損壞)が、その際に周圍の小墳が破壞されたと考えられている。明治八年(一八七五)、教部省/宮内省によって阿保親王墓として治定されたという。しかし、考古學的な見地からは、阿保親王の墓所であるとは認め難いという。
『兵庫県の地名 T 日本歴史地名大系 第二九巻T』(東京、平凡社、一九九九年十月) 「芦屋市(【振假名】あしやし)」 二四〇頁中 「阿保親王塚古墳(【振假名】あぼしんのうづかこふん)」 (芦屋市翠ヶ丘町) に、
 JR芦屋駅北東約一キロ、宮(【振假名】みや)川左岸の翠(【振假名】みどり)ヶ丘(【振假名】おか)台地に位置。標高二八メートル。平城天皇の皇子阿保親王の墓と伝え現在は宮内庁の管理下にあるが、四世紀後半の古墳と推定されている。昭和一一年(一九三六)の測量図(宮内庁書陵部蔵)によると直径約三六メートル・高さ約三メートルの円丘を方形の区画が囲み、その間に部分的に周濠らしきものがみられる。遠祖を阿保親王にもとめる毛利氏がこの塚を厚く信奉し、江戸中期には長州萩藩による大修築が行われた。そのため古墳の原型をかなり損じていると考えられる。修築時に鏡七面が出土した記録(毛利家文書)があり、出土鏡として確認されるもののなかに親王(【振假名】しんのう)寺所蔵の三角縁神獣鏡三面・内行花文鏡一面と「陣孝然作」銘の三角縁神獣鏡一面(所在不明)がある。
とある。
なお、「阿保親王塚」は、京都府伏見区深草正覚町や大阪府松原市にも存在している。『大阪府の地名 U 日本歴史地名大系 第二八巻』(東京、平凡社、一九八六年二月初版) 「松原市」 「大塚山古墳(【振假名】おおつかやまこふん)」 (松原市西大塚一丁目、羽曳野市南恵我之荘七丁目) に、
被葬者は、用明天皇の皇子来目皇子説(河内志)、平城天皇の皇子阿保親王説(和漢三才図会)があるが、いずれも年代的にみて不合理で、雄略天皇陵説が有力。
とある。
阿保親王と打出・蘆屋」、「阿保親王と河内國阿保」、「関連ホームページ」をも参照。
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【配偶】
 
伊都内親王
 桓武天皇の女子。
 在原朝臣業平の生母。
 
【子女】
 
(男子)
在原朝臣仲平
在原朝臣行平
 阿保親王の「三男」(『公卿補任』)。
在原朝臣守平
在原朝臣業平
 阿保親王の「第五之子」(『三代實録』元慶四年五月廿八日辛巳)。
(女子)
 源朝臣弘の室。源朝臣悦の母。
 『公卿補任』延喜十九年「參議 從四位上 源悦」に、
大納言正三位弘卿七男。母阿保親王女。
とある。

(女子)
 藤原朝臣敏行の室。
『續群書類從』巻百七十四『在原系圖』に、阿保親王の子として、行慶、兼見王の名も見える。
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