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懐良は鎮西宮・筑後宮と呼ばれているが、阿蘇宮とも呼ばれており、九州経略の拠点は、当初阿蘇氏に求めようとしていたのであろう。 |
また『太平記』には、これ【恒良親王・尊良親王の北國下向】とともに、 |
また崎山勝弘「征西府の肥後国支配」(今江廣道編『中世の史料と制度』、続群書類従完成会、二〇〇五年)は、「懐良親王を当時「阿蘇宮」と称することから南朝の阿蘇氏への期待は、並々ならぬものがあった」とする通説を批判し、「懐良親王が「阿蘇宮」と呼ばれていたということだけで、南朝が阿蘇氏を九州南朝勢力の中心としていたと明言できるだろうか」と疑問を呈され、「征西府が発展していく基盤となったのは、実際には阿蘇氏の軍事力ではなく菊池氏の軍事力であった」と説かれている。 |
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