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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[阿蘇]

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阿蘇宮
 
 『東寺仏舍利勘計記』に「延元元年阿蘇宮」と見える。 
 
懷良親王後醍醐院の男子)に比定する説と、懷良親王とは別人であるとする説がある。 
 川添昭二「懐良親王をめぐる九州の南北朝」(『九州の中世世界』福岡、海鳥社、一九九四年四月、212〜222頁。初出、川添昭二「懐良親王をめぐる九州の南北朝 ──令旨の分析を中止として──」『歴史公論』第五巻九号、一九七九年九月)に、
懐良は鎮西宮・筑後宮と呼ばれているが、阿蘇宮とも呼ばれており、九州経略の拠点は、当初阿蘇氏に求めようとしていたのであろう。
とあり、懷良親王は、當初、阿蘇氏のもとに身を寄せる豫定であったので、九州に下向する以前より「阿蘇宮」と呼ばれていた、と推測されている。 
 久保田収『建武中興』(日本教文社、昭和四十年(一九六五)九月)163〜164頁に、
また『太平記』には、これ【恒良親王・尊良親王の北國下向】とともに、尊澄法親王そんちようほつしんのう宗良むねよし親王)は遠江に向かわれ、阿曾宮あそのみやは山伏の姿になって吉野の奥へしのばれ、四条隆資は紀伊に、中院なかのいん定平は河内におもむいた、と伝えている。阿曾宮とはどなたであるか、よくわからないが、『東寺仏舎利とうじ ぶつしやり勘計記』にも、「延元元年阿蘇宮あそのみや」とあるから、このように呼ばれる方があったのである。それはともかく、北陸を固めるとともに、南は吉野・紀伊・河内の線をつらね、東は遠く陸奥の北畠顕家と呼応し、京都と鎌倉の中間の地である遠江を拠点として、京都を攻囲しようとせられたのであった。
とある。
 三浦龍昭『征西将軍府の研究』(東京、青史出版、二〇〇九年十一月)一〇〇頁注26に、
また崎山勝弘「征西府の肥後国支配」(今江廣道編『中世の史料と制度』、続群書類従完成会、二〇〇五年)は、「懐良親王を当時「阿蘇宮」と称することから南朝の阿蘇氏への期待は、並々ならぬものがあった」とする通説を批判し、「懐良親王が「阿蘇宮」と呼ばれていたということだけで、南朝が阿蘇氏を九州南朝勢力の中心としていたと明言できるだろうか」と疑問を呈され、「征西府が発展していく基盤となったのは、実際には阿蘇氏の軍事力ではなく菊池氏の軍事力であった」と説かれている。
とある。 
 「阿曾宮」をも見よ。


 
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更新日時: 2010.10.17.
公開日時: 2002.12.28.


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