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寛政二年(一七九〇)六月二日寅刻、生誕。
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『紳御記』寛政二年六月二日
今曉寅刻、於葉室亭、新典侍局ョ子降誕(葉室中納言ョ煕嫡女。今年十八才)。
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『忠言卿記』寛政二年六月二日辛亥
今曉寅刻、新典侍局(ョ子。ョ煕卿女)皇子【哲宮。禮仁親王】降誕云々。番頭可存知旨被示了。
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『禁裏執次詰所日記』寛政二年六月二日辛亥
今曉寅刻、新典侍殿御平産、若宮【哲宮。禮仁親王】御誕生、u御機嫌克被爲成候旨、卯刻比、右京大夫罷歸候上、同人を以長橋殿より被仰渡、御附衆江書面を以申達。同役・諸役所申觸。仙洞御所・女院御所取次中江も以書面申遣ス。右御降誕之段、美濃守よりも申越有之。
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『洞中執次詰所日記』寛政二年六月二日辛亥
一、新典侍御局今曉寅刻御平産。
若宮【哲宮。禮仁親王】御誕生、u御機嫌好被爲成候旨被仰出候段、上御所同役中より爲心得申來。諸役所・同役へ申觸ル。
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『桂宮日記』寛政二年六月二日辛亥
從傳奏萬里小路前大納言使(寺本才助)觸書到來。注左。
口上覺
新典侍御局今曉寅刻御安産、若宮樣【哲宮。禮仁親王】御誕生被遊候。爲御心得各迄可申入旨、兩傳奏申付如此候以上。
六月二日
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「哲宮」
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寛政二年(一七九〇)六月八日、御七夜。「哲宮(あきのみや)」と稱される。
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『紳御記』寛政二年六月八日
御七夜也。參賀産屋。今日皇子御名賜哲宮。・・・・・
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『禁裏執次詰所日記』寛政二年六月八日丁巳
一、今日若宮樣【禮仁親王】御七夜也。
一、若宮樣奉稱哲宮候旨被仰出候由、議奏衆より被仰出。・・・・・
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『桂宮日記』寛政二年六月八日丁巳
一、從廣橋前大納言使(山本正親)今度御降誕被爲在候若宮【禮仁親王】樣御名左之通奉稱候。仍爲心得被申達云々。
哲宮
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『忠言卿記』寛政二年六月八日丁巳
若宮【禮仁親王】御七夜。參内、申珍重了。賜御祝了。次御産屋參入、賀申入了。
若宮被稱哲宮之旨可存知、番頭被示促了。
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『御湯殿上日記』寛政二年六月八日
若宮御方【禮仁親王】哲宮と稱しられ候よし仰出さるゝ。御七夜ニ付、御膳御祝御ぞうに御すい物御すゞ御重さかなにて御さかづきまいる。・・・・・
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『篤長卿記』寛政二年六月八日
今日若宮【禮仁親王】御七夜也。・・・・・ 若宮可被稱哲宮之由被仰下訖。御童名之事、一昨日新菅中納言(胤長卿)勘進引文毛詩下武維周世有哲王。
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寛政二年(一七九〇)七月二日、母と共に參内。
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『禁裏執次詰所日記』寛政二年七月二日辛巳
一、今日哲宮樣御參内。供奉之輩卯半刻揃御産家江參集。於御産家吸物・御酒被下。
一、辰半刻、哲宮樣御上リ。新典侍殿御乘添。
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寛政三年(一七九一)五月二十日、發病。
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禮仁親王
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寛政三年(一七九一)六月一日、親王宣下。重體により、輪王寺宮里坊に移る。死亡。
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『禁裏執次詰所日記』寛政三年六月朔日甲辰
一、哲宮御方立親王宣下ニ付、議奏衆書面御附衆被爲見、如左。
今日申剋 哲宮立親王 宣下陣儀
・・・・・
一、哲宮御方御諱 禮仁(宇也比登)
・・・・・
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『忠言卿記』寛政三年六月一日丙【甲】辰
哲宮御不例窺御容躰了。今日親王宣下云々。則賀申仙洞已下御所々々。同參入訖。今日親王宣下。上卿内大臣。公卿花山院大納言(勅別當)、勸修寺大納言、權中納言(資矩)、葉室中納言、二位宰相中將(有政。臨期不參)、左大辨宰相(俊親)等參仕。辨胤定。被補家司以下。家司暉房朝臣、國□。職事定有、源常芳。奉行職事良顯朝臣云々。
親王御名字禮仁云々。
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『均光卿記』寛政三年六月一日
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『紳御記』寛政三年六月一日
自先比、哲宮御異例(驚風云云)之處、不令勝給候間、又又參入、伺御氣色者、可有早親王宣下之由、公卿申望歟之間、被定置於奉行良顯朝臣。申刻參内。・・・・・ 參軾下折紙(高檀紙竪物)。禮仁。仰云、今上ノ親王トセヨ。・・・・・ 勘文引文曰、勘申御名字事、安仁・禮仁・依仁。・・・・・ 禮仁(禮記曰、禮節者仁之貌也。論語曰、人而不仁如禮何)。・・・・・ 右勘申如件。寛政三年六月一日。・・・・・ 今夜爲御保養、御退出於輪王寺宮里坊、御保養。・・・・・ 後聞。今夜哲宮薨去。・・・・・
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『院中評定日次案』寛政三年六月一日甲辰
リ。午後時々微雨。哲宮今日申刻立親王(御名字禮仁。訓宇也比登)。
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寛政三年(一七九一)六月二日、「薨逝」(發喪)。
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『禁裏執次詰所日記』寛政三年六月二日乙巳
一、哲宮樣【禮仁親王】御容體書、御薗玄蕃頭より差出如左。
哲宮樣御容體、今朝申上候後、御危篤被爲在。御〓虚徴御手足厥後冷被爲遊、甚御大切之御容體被爲在。奉恐入候。仍諸醫相談之上、參附湯調進仕候。此上御急變之程難斗。一統奉診候以上。
六月二日 醫師中名前今朝之通
右之通御容體書寫書面相添、御附衆江爲持遣ス。・・・・・
一、哲宮樣【禮仁親王】薨去ニ付、從今晩明四日迄三箇日之間廢朝之旨被仰出候段、并表口呼鐘被停候事、議奏中山殿、非藏人播磨ヲ以被仰渡、御附衆江詰合ニ付、直ニ申達。諸役所・同役申觸。御所々々執次中江廻状ヲ以申遣ス。
右薨去之旨、町口美濃守、土山淡路守よりも書面ヲ以申來ル。
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『忠言卿記』寛政三年六月二日丁【乙】巳
リ。親王【禮仁】御不例、依御大切、輪王寺宮里坊江渡御云々。則參入、窺御容躰訖。是夜亥剋、遂以薨去、廢朝自三ヶ日之旨有告。
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『院中評定日次案』寛政三年六月二日乙巳
哲宮【禮仁親王】御異例可被聞食御容躰有御使。宗功朝臣奉仕之。歸參御答之旨趣申之。附女房言上。
哲宮薨去。自今日至來四日三箇日、被停物音。
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『仙洞女房日記』寛政三年六月二日
リ。明七つ過比、武傳より書状にて、哲宮御方【禮仁親王】御やう生御かなひあそばし申さず、かうきよ【薨去】成候ニ付、内の御方三ヶ日はいてう【廢朝】のよし申來り候、申入られ候。こなたも三ヶ日物音とめられ候よし仰出さるゝ。三中間へも申渡シ候。
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『均光日次記』寛政三年六月二日
今夜亥剋、哲宮【禮仁親王】薨去之由有披露。・・・・・ 自今日三ヶ日之間廢朝。
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『紳御記』寛政三年六月二日
抑哲宮【禮仁親王】昨年今月今日寅刻降誕者、今日誕辰賀儀可有之哉之處、薨去。・・・・・
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『稿本光格天皇實録』六九六頁 寛政三年六月二日、「皇子禮仁親王ノ薨去ニ依リ、是日ヨリ三箇日間、廢朝仰セ出サル、」
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『稿本後櫻町天皇實録』一二八〇〜一二八一頁 寛政三年六月二日、「光格天皇ノ皇子禮仁親王ノ薨去ニ依リ、是日ヨリ三箇日間、物音ヲ停メラル、」
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寛政三年(一七九一)六月七日、入棺。法號は「寶鈴院」。
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『禁裏執次詰所日記』寛政三年六月七日庚戌
一、哲宮樣【禮仁親王】御事被稱寶鈴院與候旨、町口美濃守、土山讚岐守より申來。御附衆江書面を以申達。
一、戌剋、寶鈴院樣【禮仁親王】御入棺被爲濟候旨、是又町口・土山より申來。御附衆江申遣ス。
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『均光日次記』寛政三年六月七日
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寛政三年(一七九一)六月十七日、般舟三昧院に葬られる。
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『禁裏執次詰所日記』寛政三年六月十三日丙辰
一、哲宮樣【禮仁親王】來十七日戌剋般舟院江御葬送御治定之段、御附衆被申聞。尤表議奏衆より者不出候旨、被申聞。
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『桂宮日記』寛政三年六月十五日戊午
无品禮仁親王(號哲宮、寶鈴院)來十七日御葬送般舟院云々。
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『禁裏執次詰所日記』寛政三年六月十七日庚申
一、今晩戌剋、寶鈴院樣【禮仁親王】般舟院江御葬送。
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『桂宮日記』寛政三年六月十七日庚申
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