茂世王
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『日本三代實録』貞觀九年正月十七日戊午
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承和六年(八三九)三月二十日、進士に及第。
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承和八年(八四一)十一月二十日、無位から從四位下に敍される。
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承和九年(八四二)八月十一日、大學頭となる。
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嘉祥三年(八五〇)三月二十二日、仁明天皇の崩御(三月二十一日)により縁葬諸司が定められた際に、作路司となる。時に山城守從四位下。
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嘉祥四年(八五一)四月一日、出居侍從となる。
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仁壽二年(八五二)正月十五日、讚岐權守となる。
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仁壽二年(八五二)二月二十八日、丹波守に任じられる。
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齊衡二年(八五五)正月十五日、丹波守に復任される。
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天安二年(八五八)八月二十七日、文コ天皇の崩御により、縁葬諸司が定められた際に、山作司となる。時に散位從四位下。
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天安二年(八五八)十一月二十五日、彈正大弼となる。
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貞觀元年(八五九)十一月十九日、C和天皇の大嘗會敍位に於いて、從四位上に敍される。時に彈正大弼。
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貞觀三年(八六一)正月十三日、阿波守となる。
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貞觀七年(八六五)二月十七日、神靈池の水が沸騰した事を告げ災害を豫防するための深草山陵使を、伴宿禰善男と共に勤仕。時に散位從四位上。
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貞觀八年(八六六)正月十三日、大宰大貳となる。
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貞觀九年(八六七)正月十七日、父 仲野親王が薨去したため、大宰大貳を去職。
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貞觀九年(八六七)四月十一日、詔により、大宰大貳に復職。
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貞觀十一年(八六九)十二月八日、宮内卿となる。
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刑部卿となる。 | ||||||
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貞觀十六年(八七四)正月十五日、加賀守を兼任。
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貞觀十六年(八七四)十一月二十一日、子の好風[王]、孫の貞文[王]の平朝臣賜姓を上疏し、聴許される。時に從四位上守刑部卿兼行加賀守。
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正四位下に昇敍。
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大宰大貳在任中に、新羅の入寇に際會。 |
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『稿本桓武天皇實録』四一一〜四一五頁「皇孫茂世王」 |
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石田敏紀「奈良・平安初期における二世王の存在形態 ―― その蔭叙・昇叙・任官・賜姓について ――」『高円史学』第十三号、奈良教育大学、一九九七年十一月、15〜61頁 |
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