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九六四年(應和四年/康保元年)または九六五年(康保二年)、源朝臣高明の女子として誕生。
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『榮花物語』「月の宴」
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杉崎重遠は、明子の兄 俊賢の年齢を參酌して、明子の誕生年を康保二年生と推定。杉崎重遠「高松上」五〇五頁。
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安和二年(九六九)三月二十六日の安和の變にて父 源朝臣高明が失脚した後、叔父 盛明親王に迎え取られて養子となり、「姫宮」として養育された。
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『榮花物語』「月の宴」
源氏のおとゞ【源朝臣高明】のあるがなかのおとゝ【中の弟】のお【を】んなぎみ【女君】の、いつつむつ【五つ六つ】ばかりにおはするは、おとゞの御はらからの十五のみや【盛明親王】の、御むすめもおはせざりければ、むかへとりたてまつり給て、ひめ宮【姫宮」】とてかしづきたてまつりたまひて、やしなひたてまつり給ふ。
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『大鏡』
かの殿【源朝臣高明】筑紫におはしましける年、この姫君まだいと幼くおはしましけるを、御をぢの十五の宮(盛明親王)と申したるも同延喜の皇子におはします、女子もおはせざりければ、この君を取り奉りて、養ひかしづき奉りて、もちやまへるに、・・・・・
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永觀二年(九八四)十月十日、花山院の即位式において右褰帳を勤仕。
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『天祚禮祀職掌録』(花山院、褰帳)、
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『小右記』永觀二年十月十日丙戌
・・・・・ 相次褰帳二人(左、彈正尹章明親王女。右、前上總太守盛明親王女)。・・・・・
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寛和二年(九八六)七月五日以降、皇太后藤原朝臣詮子のもとに迎え取られ、東三條殿の東の對に起居。「宮の御方」として、女房、侍、家司、下人を付けられて厚遇された。
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『大鏡』
・・・・・ 西宮殿【源高明】もかくれさせ給ひにし後に、故女院【藤原詮子】の后におはしましゝ折、この姫君【明子】を迎へ奉らせ給ひて、東三條殿の東の對に帳をたてゝ、壁代をひき、わが御しつらひに聊おとさせ給はず、しすゑきこえさせ、女房、侍、家司、下人まで別にあかちあて給ひて、おもひかしづき聞えさせ給ひしかば、・・・・・
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『大鏡』に「西宮殿もかくれさせ給ひにし後に」とあるが、源高明の薨逝は天元五年(九八二)十二月十六日である。また、『大鏡』には「故女院の后におはしましゝ折」とあり、藤原詮子が女御から皇太后に立后したのが寛和二年(九八六)七月五日であるので、明子女王が藤原詮子のもとに迎え取られたのは、寛和二年(九八六)七月五日以降のこととなる。
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『榮花物語』「さまざまのよろこび」
・・・・・ その姫君【明子】を后の宮に迎へ奉り給ひて、宮の御方とて、いみじうせむ事なくもてなし聞え給ふを、・・・・・
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明子が藤原詮子のもとにいたのは、詮子に養われていたためか、高級女房として出仕していたためか、論爭がある。しかし、明子が女房として出仕していたという明白な根據はなく、また、明子が獨自の女房、侍、家司、下人を保持していて、「いみじうせむ事なくもてな」されていたところから類推しても、女房として出仕していたとは考え難い。
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皇太后藤原朝臣詮子のもとに起居する間、藤原朝臣道驍轤ェ明子に言い寄ったが、詮子は藤原朝臣道長を明子の婿として選び、おそらく寛和三年/永延元年(九八七)の春に、明子は藤原朝臣道長の室(妾妻)となった。
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『榮花物語』「さまざまのよろこび」
・・・・・ その姫君【明子】を后の宮【皇太后藤原詮子】に迎へ奉り給ひて、「宮の御方」とて、いみじうせむ事なくもてなし聞え給ふを、何れの殿ばらも、いかで々々々と思ひ聞え給へる中にも、大納言殿【藤原道驕zは、例の御心の色めきはむづかしきまで思ひ聞え給へければ、宮の御前、更に々々あるまじき事に制し申させ給ひけるを、この左京大夫殿【藤原道長】、その御局の人によく語らひつき給ひて、然べきにやおはしけん、むつまじうなり給ふにければ、宮も、この君は、たはやすく人に物など云はぬ人なれば、あへなんとゆるし聞え給ひて、然べき樣にもてなさせ給へば、・・・・
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『大鏡』
又、高松殿のうへ【明子】と申も、源氏にておはします【ママ】。延喜の皇子高明親王【ママ】を左大臣になしたてまつらせ給へりしに、おもはざるほかのことによりて、帥にならせ給て、いと々々こゝろうかりし〔事ぞかし。その〕御女におはします。それをかの殿【源高明】筑紫におはしましけるとし【年】、このひめぎみ【姫君】、まだいとおさなくおはしましけるを、御をぢの十五の宮【盛明親王】とましたるも、同延喜の皇子におはします、女子もおはせざりければ、この君をとりたてまつりて、やしなひかしづきたてまつりてもちたまへるに、西宮殿【源高明】も十五の宮【盛明親王】もかくれさせ給にしのちに、故女院【東三條院藤原朝臣詮子】のきさき【后】におはしましゝおり、このひめぎみをむかへたてまつらせ給ひて ・・・・・
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『大鏡』に、藤原道長が「西宮殿も十五の宮もかくれさせ給にしのちに」明子を娶ったとあるが、盛明親王の薨逝は寛和二年(九八六)五月八日であり、藤原詮子の立后は寛和二年(九八六)七月五日であるので、道長と明子との結婚は、それより以降のこととなる。
※ 杉崎重遠「愛宮考」
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道長が明子のもとに通い始めたのを永延二年(九八八)とする學説があるが、明子との結婚は、道長が源倫子と結婚した永延元年(九八七)十二月十六日より以前と考えられる。
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從三位に敍される。
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『公卿補任』寛弘八年(辛亥)非參議 從三位「同【藤】頼宗(二十)」
【袖書】左大臣二男。母四品上總太守盛明親王女(從三位明子女王)。
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寛仁三年(一〇一九)三月二十一日に藤原朝臣道長が出家した暫し後に、出家。
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『榮花物語』「もとのしづく」
・・・・・ 殿【道長】の出家の折、源三位もなり給ひにけり。暫しありて高松殿の上もまらせ給ふにし、・・・・・
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永承四年(一〇四九)七月二十二日薨。八十六歳または八十五歳。
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藤原朝臣ョ宗と藤原朝臣能信は、服解。
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『公卿補任』永承四年(己丑)内大臣 正二位「同【藤】ョ宗(五十七)」
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『公卿補任』永承四年(己丑)權大納言 正二位「同【藤】能信(五十五)」
【尻付】春宮大夫。七月廿二日服解。十月十九日復任。
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藤原朝臣長家は、源朝臣倫子の養子であったので、喪、不服解。
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『公卿補任』永承四年(己丑)權大納言 正二位「同【藤】長家(四十四)」尻付
中宮大夫。民部卿。七月廿二日母喪、不服解(依爲源倫子養子也)。
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