高松殿 / 明子女王


前頁 「 明 [明子A]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[明子B]

フレームなし

工事中

明子女王
 
 花山院の即位式の
右褰帳女王
 從三位
 藤原朝臣道長の室(妾妻)
『小右記』長和元年六月廿九日
『大鏡』に「高松殿のうへ【明子】と申も、源氏にておはします」とあるが、明子を「源明子」とするのは誤りであろう。例えば、『公卿補任』寛弘八年(辛亥)非參議 從三位「同【藤】頼宗」袖書に「母四品上總太守盛明親王女(從三位明子女王)」とあり、また、同時代史料である『權記』長徳四年十二月五日條に、「巖君【藤原頼宗】・苔君【顯信】著袴云々(左大臣殿【道長】子。宮君腹)。左府參給。」とあるなど、明子を「宮君」と明記している。
 
【稱號】
 「高松殿
 「愛宮
杉崎重遠は、「高松上」に「愛宮」の呼稱があった、と推定している。
杉崎重遠「愛宮考」(杉崎重遠『勅選集歌人伝の研究』(復刊、東京、新典社、一九八八年五月)所収)
 
【出自】
 醍醐天皇二世王。
 盛明親王の女子(養女)。
 實は源朝臣高明の女子。
 
【經歴】
九六四年(應和四年/康保元年)または九六五年(康保二年)、源朝臣高明の女子として誕生。
『榮花物語』「月の宴」
杉崎重遠は、明子の兄 俊賢の年齢を參酌して、明子の誕生年を康保二年生と推定。杉崎重遠「高松上」五〇五頁。
安和二年(九六九)三月二十六日の安和の變にて父 源朝臣高明が失脚した後、叔父 盛明親王に迎え取られて養子となり、「姫宮」として養育された。
『榮花物語』「月の宴」
源氏のおとゞ【源朝臣高明】のあるがなかのおとゝ【中の弟】のお【を】んなぎみ【女君】の、いつつむつ【五つ六つ】ばかりにおはするは、おとゞの御はらからの十五のみや【盛明親王】の、御むすめもおはせざりければ、むかへとりたてまつり給て、ひめ宮【姫宮」】とてかしづきたてまつりたまひて、やしなひたてまつり給ふ。
『大鏡』
かの殿【源朝臣高明】筑紫におはしましける年、この姫君まだいと幼くおはしましけるを、御をぢの十五の宮(盛明親王)と申したるも同延喜の皇子におはします、女子もおはせざりければ、この君を取り奉りて、養ひかしづき奉りて、もちやまへるに、・・・・・
永觀二年(九八四)十月十日、花山院の即位式において右褰帳を勤仕。
『天祚禮祀職掌録』(花山院、褰帳)、
右、明子女王(前上總太守盛明親王女)
『小右記』永觀二年十月十日丙戌
・・・・・ 相次褰帳二人(左、彈正尹章明親王女。右、前上總太守盛明親王女)。・・・・・
寛和二年(九八六)七月五日以降、皇太后藤原朝臣詮子のもとに迎え取られ、東三條殿の東の對に起居。「宮の御方」として、女房、侍、家司、下人を付けられて厚遇された。
『大鏡』
・・・・・ 西宮殿【源高明】もかくれさせ給ひにし後に、故女院【藤原詮子】の后におはしましゝ折、この姫君【明子】を迎へ奉らせ給ひて、東三條殿の東の對に帳をたてゝ、壁代をひき、わが御しつらひに聊おとさせ給はず、しすゑきこえさせ、女房、侍、家司、下人まで別にあかちあて給ひて、おもひかしづき聞えさせ給ひしかば、・・・・・
『大鏡』に「西宮殿もかくれさせ給ひにし後に」とあるが、源高明の薨逝は天元五年(九八二)十二月十六日である。また、『大鏡』には「故女院の后におはしましゝ折」とあり、藤原詮子が女御から皇太后に立后したのが寛和二年(九八六)七月五日であるので、明子女王が藤原詮子のもとに迎え取られたのは、寛和二年(九八六)七月五日以降のこととなる。
『榮花物語』「さまざまのよろこび」
・・・・・ その姫君【明子】を后の宮に迎へ奉り給ひて、宮の御方とて、いみじうせむ事なくもてなし聞え給ふを、・・・・・
明子が藤原詮子のもとにいたのは、詮子に養われていたためか、高級女房として出仕していたためか、論爭がある。しかし、明子が女房として出仕していたという明白な根據はなく、また、明子が獨自の女房、侍、家司、下人を保持していて、「いみじうせむ事なくもてな」されていたところから類推しても、女房として出仕していたとは考え難い。
皇太后藤原朝臣詮子のもとに起居する間、藤原朝臣道驍轤ェ明子に言い寄ったが、詮子は藤原朝臣道長を明子の婿として選び、おそらく寛和三年/永延元年(九八七)の春に、明子は藤原朝臣道長の室(妾妻)となった。
『榮花物語』「さまざまのよろこび」
・・・・・ その姫君【明子】を后の宮【皇太后藤原詮子】に迎へ奉り給ひて、「宮の御方」とて、いみじうせむ事なくもてなし聞え給ふを、何れの殿ばらも、いかで々々々と思ひ聞え給へる中にも、大納言殿【藤原道驕zは、例の御心の色めきはむづかしきまで思ひ聞え給へければ、宮の御前、更に々々あるまじき事に制し申させ給ひけるを、この左京大夫殿【藤原道長】、その御局の人によく語らひつき給ひて、然べきにやおはしけん、むつまじうなり給ふにければ、宮も、この君は、たはやすく人に物など云はぬ人なれば、あへなんとゆるし聞え給ひて、然べき樣にもてなさせ給へば、・・・・
『大鏡』
又、高松殿のうへ【明子】と申も、源氏にておはします【ママ】。延喜の皇子高明親王【ママ】を左大臣になしたてまつらせ給へりしに、おもはざるほかのことによりて、帥にならせ給て、いと々々こゝろうかりし〔事ぞかし。その〕御女におはします。それをかの殿【源高明】筑紫におはしましけるとし【年】、このひめぎみ【姫君】、まだいとおさなくおはしましけるを、御をぢの十五の宮【盛明親王】とましたるも、同延喜の皇子におはします、女子もおはせざりければ、この君をとりたてまつりて、やしなひかしづきたてまつりてもちたまへるに、西宮殿【源高明】も十五の宮【盛明親王】もかくれさせ給にしのちに、故女院【東三條院藤原朝臣詮子】のきさき【后】におはしましゝおり、このひめぎみをむかへたてまつらせ給ひて ・・・・・
『大鏡』に、藤原道長が「西宮殿も十五の宮もかくれさせ給にしのちに」明子を娶ったとあるが、盛明親王の薨逝は寛和二年(九八六)五月八日であり、藤原詮子の立后は寛和二年(九八六)七月五日であるので、道長と明子との結婚は、それより以降のこととなる。
※ 杉崎重遠「愛宮考」
道長が明子のもとに通い始めたのを永延二年(九八八)とする學説があるが、明子との結婚は、道長が源倫子と結婚した永延元年(九八七)十二月十六日より以前と考えられる。
從三位に敍される。
『公卿補任』寛弘八年(辛亥)非參議 從三位「同【藤】頼宗(二十)」
【袖書】左大臣二男。母四品上總太守盛明親王女(從三位明子女王)。
寛仁三年(一〇一九)三月二十一日に藤原朝臣道長が出家した暫し後に、出家。
『榮花物語』「もとのしづく」
・・・・・ 殿【道長】の出家の折、源三位もなり給ひにけり。暫しありて高松殿の上もまらせ給ふにし、・・・・・
永承四年(一〇四九)七月二十二日薨。八十六歳または八十五歳。
藤原朝臣ョ宗と藤原朝臣能信は、服解。
『公卿補任』永承四年(己丑)内大臣 正二位「同【藤】ョ宗(五十七)」
【尻付】右大將。七月廿二日服解。十月十九日復任。
『公卿補任』永承四年(己丑)權大納言 正二位「同【藤】能信(五十五)」
【尻付】春宮大夫。七月廿二日服解。十月十九日復任。
藤原朝臣長家は、源朝臣倫子の養子であったので、喪、不服解。
『公卿補任』永承四年(己丑)權大納言 正二位「同【藤】長家(四十四)」尻付
中宮大夫。民部卿。七月廿二日母喪、不服解(依爲源倫子養子也)。
 
【子女】
 藤原朝臣ョ宗
 正暦四年(九九三)生。
 童名「巖(いは)君」
 長コ四年(九九八)十二月五日、著袴。
 寛弘元年(一〇〇四)十二月二十六日、加冠。
 寛弘八年(一〇一一)八月十一日、從三位に敍される。
『公卿補任』寛弘八年(辛亥)非參議 從三位「同【藤】頼宗(二十)」
【尻付】八月十一日叙(賞同上【主上自東三條第入御内裏之次有此賞】)。中將如減。
【袖書】   左大臣二男。母四品上總太守盛明親王女(從三位明子女王)。
寛弘元十二廿六從五上(元服日)。・・・・・
 康平八年(一〇六五)正月五日、出家。
 右大臣從一位
 康平八年(一〇六五)二月三日、薨逝。七十三歳。
 
 藤原朝臣顯信
 正暦五年(九九四)生。
 童名「苔君」
 長コ四年(九九八)十二月五日、著袴。
 寛弘元年(一〇〇四)十二月二十六日、加冠。
 從四位上に敍され、右馬頭に任じられる。
 寛弘九年(一〇一二)正月十六日、出家。十九歳。
 萬壽四年(一〇二七)五月十四日、入滅。三十四歳。
『大日本史料』第二編之二十四、八七〜九七頁、萬壽四年五月十四日(癸丑)「入道前右馬頭藤原顯信卒ス、」
 
 藤原朝臣能信
 正暦五年/長コ元年(九九五)生。
 寛弘三年(一〇〇六)十二月五日、加冠。
『公卿補任』寛仁元年(丁巳)權中納言 從二位「同【藤】能信(二十三)」
【尻付】八月卅日任。元右中將左京大夫。十一月廿五日勅授帶剱(賀茂行幸日)。
【袖書】   太政大臣五男。母與ョ宗同。
寛和【寛弘】三十二五叙從五位上(元服日。年十二)。同月日任侍從。・・・・・ 長和 ・・・・・ 三年 ・・・・・ 五年【月】十月【月衍】六日叙從三位(行幸上東門院第競馬之次。以家子所叙之成)。・・・・・
 康平八年(一〇六五)二月九日薨去。七十一歳。
 權大納言正二位
 延久五年(一〇七三)五月六日、贈太政大臣正一位。
 
 藤原朝臣寛子
 小一條院敦明親王)の女御
 長保元年(九九九)十二月二十三日生。
 寛仁元年(一〇一七)十一月二十二日、小一條院(敦明)の女御となる。
 萬壽二年(一〇二五)七月八日、出家。
 萬壽二年(一〇二五)七月九日、入滅。二十七歳。
『大日本史料』第二編之二十一、三一一〜三二四頁、萬壽二年七月九日(己丑)「小一條院女御藤原寛子卒ス、」
 萬壽二年(一〇二五)七月十一日、葬送。
『大日本史料』第二編之二十一、三二六〜三三三頁、萬壽二年七月十一日(辛卯)「小一條院女御藤原寛子ヲ巖蔭ニ葬ル、」
 
 藤原朝臣尊子
 源朝臣師房(もと資定王)室
 寛弘四年(一〇〇七)以前、おそらく長保五年(一〇〇三)頃に生。
 寛弘四年(一〇〇七)四月二十六日、著裳。
 治安四年(一〇二四)三月二十七日、源朝臣師房室となる
『大日本史料』第二編之二十、一九四〜一九九頁、萬壽元年三月二十七日(甲寅)「右近衞權中將源師房、大宰大貳藤原惟憲ノ家(上東門)ニ於テ、入道前太政大臣藤原道長ノ女(同尊子)ト、嫁娶ノ儀ヲ行フ、」
 承保四年(一〇七七)八月十九日、出家。
 
 藤原朝臣長家
 寛弘二年(一〇〇五)八月二十日生。
 寛弘四年(一〇〇七)四月二十六日、加冠。
 源朝臣倫子(藤原道長の嫡妻)の養子となる。
『公卿補任』治安二年(壬戌)非參議 從三位「同【藤】長家(十八)」
【尻付】正月七【五イ】日叙。元右中將皇大后宮權亮。中將如元。
【袖書】   故入道前攝政道長公六男。母同ョ宗(但繼母倫子爲養子)。
寛仁元四廿六從五上(元服日。[十]三)。即聽昇殿。八月卅侍從。・・・・・
 康平七年(一〇六四)十一月九日薨逝。六十歳。
 權大納言兼民部卿中宮大夫正二位
 
【逸事等】
大江朝臣匡房の談によると、「延喜の孫にて十五宮の子に愛宮と申す人」即ち明子女王が、「井手」という琵琶の名器を所有していたという。
『江談抄』第三「[五九]井手(琵琶名)愛宮傳得事」
『大鏡』は、藤原朝臣顯信の出家遁世について、
高松殿【明子】の御憂にこそ、左の御ぐしを、なからより剃り落させ給へと御覽じけるを、かくて後にこそ、これが見えけるなりけれ、と思ひさだめて、ちがへさせ祈りなどをもすべかりける事を、とおほせられける。
と記す。
『大鏡』下「道長」
萬壽二年(一〇二五)七月九日、藤原朝臣寛子(小一條院室)の死去には、「尼上【明子】も、月頃御心ほれて、はかなき果物も聞しめさで、消えいり々々々々せさせ給へば、けづり氷ばかりを御前に置きて、絶えず勸め參らせける」(『榮花物語』「嶺の月」)と悲歎した。
寛子に續いて顯信が死去し、悲歎のため「度々気を失ふ」。
 
【備考】
令和六年(二〇二四)のNHK大河ドラマ「光る君へ」(大石静 脚本)では、「源明子」役を、女優 瀧内公美(たきうち くみ)が演じる。
 
工事中【文獻等】
杉崎重遠「高松上」(杉崎重遠『勅選集歌人伝の研究』(復刊、東京、新典社、一九八八年五月)、五〇一〜五七四頁)
木村由美子「栄花物語における高松上の描かれかた 倫子との比較に触れて」(『國文』第六十三号、お茶の水女子大学国語国文学会、一九八五年七月、12〜22頁)
梅村恵子「摂関家の正妻」(青木和夫先生還暦記念会編『日本古代の政治と文化』吉川弘文館、一九八七年二月)
梅村恵子『家族の古代史 恋愛・結婚・子育て』(歴史文化ライブラリー 227)(吉川弘文館、二〇〇七年三月)
鈴木徳男『続詞花和歌集の研究』(研究叢書 五〇)(和泉書院、一九八七年八月)
服藤早苗「源明子」(金子幸子、黒田弘子、菅野則子、義江明子編『日本女性史大辞典』(吉川弘文館、二〇〇八年一月)
高橋麻織『源氏物語の政治学 史実・准拠・歴史物語国文』(笠間書院、二〇一六年十二月)第十四章「『大鏡』の歴史認識」二「先行研究と「源氏の栄え」―道長の妻、源倫子と源明子―」
東海林亜矢子「道長が愛した女性たち――次妻源明子、ツマ藤原儼子・藤原穠子・源重光娘」(服藤早苗・高松百香編『藤原道長を創った女たち』明石書店、二〇二〇年三月)
久保木哲夫、加藤静子『藤原頼宗集 師実集 全釈』花鳥社、二〇二一年六月)U 加藤静子「頼宗の立場とその役割 付、法華経二十八品歌」二「頼宗と母源明子」

稿本醍醐天皇實録』には記載がない。


 
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公開日時:2024.03.31.

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