豊江王


前頁 「 豐 [豐安]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[豐江]

フレームなし

工事中

豐江王
 
【出自】
 
高橋王の男子。
 光仁天皇三世王
 薭田親王の孫。
 
【官位】
 宮内卿
 正四位下
 
【經歴】
七九六年(延暦十五年)生。
卒年より逆算。
大學に入學し、文章道を修めたと考えられる。
弘仁十三年(八二二)正月七日、無位から從五位下に敍される。二十七歳。
『類聚國史』卷第九十九「職官部」四「叙位」四、弘仁十三年正月己亥
御豊樂殿、宴群臣及蕃客。授无品高丘親王四品。・・・・・ 從五位下磐田王從五位上。无位豊江王、正六位上岡屋王從五位下。
天長二年(八二五)秋、少納言となり、侍從を兼ねる。三十歳。
『日本三代實録』貞觀五年七月十六日丙午(豐江王卒傳)
天長五年(八二八)正月七日、從五位下から從五位上に昇敍。三十三歳。
『類聚國史』卷第九十九「職官部」四「叙位」四、天長五年正月甲子
御豊樂殿。授從三位春原朝臣五百枝正三位。從四位上藤原朝臣綱繼正四位下。正五位上弟野王從四位下。從五位下豊江王從五位上。正六位上近棟王、御仲王從五位下。
承和五年(八三八)正月七日、從五位上から正五位下に昇敍。四十三歳。
『續日本後紀』承和五年正月丙寅
 天皇御豊樂殿、覽馬、宴百官。詔授從五位上豊江王正五位下。從五位下豊村王從五位上、正六位上高原王從五位下。
承和九年(八四二)七月二十五日、正五位下から從四位下に昇敍。四十七歳。
『續日本後紀』承和九年七月丁巳
詔授正四位下朝野宿袮鹿取從三位。正五位下豊江王、坂上大宿袮鷹主、藤原朝臣貞主並從四位下。
承和十年(八四三)正月十二日、中務大輔となる。四十八歳。
『續日本後紀』承和十年正月辛丑
[以]從四位下豊江王爲中務大輔。
承和十一年(八四四)、兵部大輔に遷る。
『日本三代實録』貞觀五年七月十六日丙午(豐江王卒傳)
承和十四年(八四七)二月十二日、時子内親王の薨逝により、遣わされて喪事を監護する。時に兵部大輔從四位下。
『續日本後紀』承和十四年二月戊寅
无品時子内親王薨。遣兵部大輔從四位下豊江王、彈正大弼從四位上橘朝臣永名、兵部少輔從五位下大和眞人吉直、左京亮從五位下飯高朝臣永雄等、監護喪事。親王者。天皇【仁明】之皇女也
承和十五年(八四八)五月十五日、崇子内親王の薨逝により、遣わされて喪事を監護する。時に兵部大輔從四位下。
『續日本後紀』承和十五年五月癸酉
無品崇子内親王薨。淳和太上天皇之皇女也。母橘氏云[々]。遣兵部大輔從四位下豊江王幷五位三人、監護葬事。
嘉祥二年(八四九)正月七日、從四位下から從四位上に昇敍。五十四歳。
『續日本後紀』嘉祥二年正月壬戌
 天皇御紫震殿、覽馬、宴群臣。詔授无品恒貞親王三品。无品本康親王四品。・・・・・ 從四位上高枝王正四位下。无位貞内王從四位下。從四位下豊江王從四位上。正五位下有雄王從四位下。從五位下並山王從五位上。无位安原王、正六位上利見王並從五位下。无位源朝臣勝、源朝臣多並從四位上。
嘉祥二年(八四九)正月二十二日、百濟王慶命の薨逝により、遣わされて喪事を監護す。
『續日本後紀』嘉祥二年正月丁丑
尚侍從三【二】位百濟王慶命薨。有勅、贈從一位。遣從四位上豊江王、「從五位下【當衍】」從五位下美直王【美志眞王】、從五位下藤原朝臣緒數【諸數】、從五位下飯高朝臣永雄、監護喪事。
嘉祥三年(八五〇)二月二十五日、秀子内親王の薨逝により、遣わされて喪事を監護す。時に兵部大輔從四位上。
『續日本後紀』嘉祥三年二月甲戌
无品秀子内親王御薨。[内親王者]嵯峨太上天皇之皇女、今上之同産也。遣兵部大輔從四位上豊江王、木工頭從四位下興世朝臣書主、右京亮從五位上橘朝臣枝主、左京亮從五位下飯高朝臣永雄等、監護喪事。
嘉祥四年(八五一)四月一日、出居侍從となる。
『日本文コ天皇實録』仁壽元年四月癸卯朔
正四位下高枝王、從四位下茂世王、基兄王、正躬王【ママ】、從四位上豐江王、正四位下橘朝臣永名、從四位上藤原朝臣衞、源朝臣生、源朝臣安、源朝臣勤、源朝臣冷、C原眞人瀧雄、從四位下藤原朝臣春津、藤原朝臣岳守、C原眞人岑成、藤原朝臣諸成、春澄宿禰善繩、正五位下藤原朝臣貞守、藤原朝臣行道、從五位上久賀朝臣三夏等、爲出居侍從。
仁壽元年(八五一)十一月二十六日、文コ天皇大嘗會敍位において、從四位上から正四位下に昇敍。五十六歳。
『日本文コ天皇實録』仁壽元年十一月甲午
授四品時康親王階三品。從三位源朝臣弘、藤原朝臣長良並加正三位。從四位下正躬王從四位上。從四位上豊江王正四位下。正五位下楠野王從四位下。從五位下高原王從五位上。正六位上粟田王從五位下。
齊衡三年(八五六)五月十三日、右京大夫となる。六十一歳。
『日本文コ天皇實録』齊衡三年五月甲寅
正四位下豊江王爲右京大夫。
齊衡四年(八五七)正月十四日、下總權守となる。
『日本文コ天皇實録』天安元年正月癸丑
正四位下豊江王爲下總權守。外從五位下安野宿祢豊道爲介。
天安二年(八五八)正月十六日、下野守となる。
『日本文コ天皇實録』天安二年正月
從【正】四位下豊江王爲下野守。
天安二年(八五八)八月二十七日、文コ天皇の崩御により、縁葬諸司が定められた際に、山作司となる。時に正四位下行下野守。
『日本三代實録』天安二年八月廿七日乙卯
公卿於藏人所定縁葬諸司。・・・・・ 正三位行中納言橘朝臣岑繼、參議從三位行春宮大夫平朝臣高棟、參議左大弁從四位上兼行左衛門督伊豫權守藤原朝臣氏宗、正四位下行下野守豊江王、散位從四位下茂世王、從四位上行越中守源朝臣啓、左京亮從五位下朝原宿祢良道、從五位下守主計頭兼行算博士木工權助有宗宿祢u門、六位已下四人、爲山作司。
天安二年(八五八)、宮内卿となる。六十三歳。
『日本三代實録』貞觀五年七月十六日丙午(豐江王卒傳)
貞觀四年(八六二)、老病により辭官し、里第に退居。六十七歳。
『日本三代實録』貞觀五年七月十六日丙午(豐江王卒傳)
貞觀五年(八六三)七月十六日、卒去。六十八歳。時に前宮内卿正四位下。
『日本三代實録』貞觀五年七月十六日丙午
前宮内卿正四位下豊江王卒。豊江[王]者、三品薭田親王孫、而高橋王之子也。弘仁十三年正月授從五位下。天長二年秋拜少納言、兼侍從。五年叙從五位上。承和五年加増正五位下。九年七月叙從四位下。十年爲中務大輔。十一年遷兵部大輔。嘉祥・仁壽之間、累加至正四位下。齊衡三年遷右京大夫。後年除下総權守。天安二年爲宮内卿。貞觀四年老病罷官、退居里第。卒時年六十八。
 
【文獻等】
稿本光仁天皇實録』


 
次頁 「 豐 [豐國]
『 親王・諸王略傳 』 目次 「 ほ 」  『 親王・諸王略傳 』 の冒頭
『 日本の親王・諸王 』 の目次


公開日時:2022.06.14.

Copyright: Ahmadjan 2022.6 - All rights reserved.