輔子内親王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[輔子@]

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輔子内親王
 伊勢齋宮(三二)
 
【出自】
 
村上天皇の第七内親王。
 
【母】
 藤原朝臣安子
『榮花物語』一「月宴」
又九條殿の女御【藤原安子】、女七・九・十の宮【輔子・資子・選子】など、あまたさしつゞきてうまれさせ給て、猶この御ありさま、よにすぐれさせ給へり。
 
【經歴】
九五三年(天暦七年)、誕生。
稿本村上天皇實録』七二七頁〔按〕に、
輔子内親王、誕生年月明カナラズ、今薨年ニ據リ逆算ス、又日本紀略第六女トナスモ、同書ハ樂子内親王ヲモ亦第六女ト記ス、今諸皇女ノ年次ヲ案ジテ第七皇女ト定ム、
とある。
應和元年(九六一)十一月四日夜、初めて父天皇に謁見。
『西宮記』一「童親王拜覲事」所引『天暦御記』應和元年十一月四日
康保二年(九六五)八月二十七日、初笄(着裳)。
『日本紀略』康保二年八月廿七日甲子
輔子内親王始笄。
『御遊抄』三「親王御元服加冠以下例」
爲平親王、康保二八廿七於C凉殿。・・・・・ 次有輔[子]内親王着裳。
康保五年(九六八)七月一日、伊勢齋宮に卜定される。
『日本紀略』安和元年【康保五年】七月一日壬午
有伊勢・賀茂等齋王卜定事。齋宮輔子内親王、先皇女也。齋院尊子内親王、今上皇女也。
『日本紀略』安和元年【康保五年】七月七日戊子
於朱雀院【門】大祓。依齋宮・齋院卜定也。又被告卜定由於伊勢大~宮・賀茂社。
安和元年(九六八)十二月二十五日、御禊。右近衞府に入る。
『日本紀略』安和元年十二月二日庚戌
定初齋宮・初齋院御禊御前次第使等。
『日本紀略』安和元年十二月廿五日癸酉
伊勢齋内親王御禊入右近衞府。
冷泉院の讓位により、伊勢群行を行うことなく、安和二年(九六九)十一月四日、右近衞府より退出し、修理職に移る。
『日本紀略』安和二年十一月四日丁未
伊勢齋宮輔子内親王自左近衛府退出修理職。
二品に敍される。
正暦三年(九九二)三月三日、薨逝。四十歳。
『日本紀略』正暦三年三月三日丁酉
今日、前齋宮二品輔子内親王薨(村上天皇第六女【ママ】。年四十)。
『大鏡』によると「物の怪」のために薨去したとされる。
『大鏡』四「右大臣師輔」
さて、この御はら【藤原安子】におはしましゝ女宮一人は、いとはかなくうせ給にしぞかし。又、女七の宮【輔子内親王】は、御物のけこはくて、うせ給にき。
正暦三年(九九二)三月三日、薨奏。
『日本紀略』正暦三年三月六日庚子
奏輔子内親王薨由。
『小右記目録』四「内親王薨奏事」
正暦三年三月廿【ママ】日内親王薨奏上事。
稿本一條天皇實録』一六六頁 正暦三年三月六日「前齋宮二品輔子内親王ノ薨奏アリ、内親王ハ村上天皇ノ皇女ニシテ、去三日薨ゼシ所ナリ」に、「〔按〕本條ノ日次ニ就キ異載アレドモ、姑ク日本紀略ノ記載ニ從フ」とある。
 
【文獻等】
稿本村上天皇實録』七二七〜七二九頁「皇女輔子内親王」



 
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公開日時: 2012.04.05.

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