周防法泉寺方丈
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『看聞日記』嘉吉元年卯月十六日條に「相應院御舎弟」とあるところから、弘助親王の同母弟である可能性があるか。 |
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一四一〇年(應永十七年)以前に周防國に下向、山口瀧の法泉寺の住持となる。
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永享五年(一四三三)、大内持世が少貳滿資を討った後、法泉寺方丈は筑前國の伏見宮住吉御領の代官を幕府に競望したが、代官は大内持世に決せられた。
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三十餘年、周防國に在國していたが、嘉吉元年(一四四一)上洛、南禪寺正眼院に宿泊し、四月十六日、入道貞成親王(後崇光院)のもとを訪れて面談し、五山長老となる居公文(いなりくもん)を望む取次ぎを依ョ。
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法泉寺址付近の「御廟野」の「大内政弘墓」の隣にある「御墓」(王墓)と稱される五輪塔(傳師成親王墓)に推定されている。これを師成親王の墓とするのは誤りであろう。
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『稿本崇光天皇實録』三二七頁「皇子某」 |
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C水正健『皇族考證』第伍巻 九三〜九四頁 |
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