周防法泉寺方丈


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[法泉寺]

フレームなし

工事中

【僧】法泉寺方丈
 
 「周防法泉寺方丈
 
【出自】
 
崇光院の男子。
 弘助親王[相應院]の弟。
『看聞日記』嘉吉元年卯月十六日條に「相應院御舎弟」とあるところから、弘助親王の同母弟である可能性があるか。
 
【經歴】
一四一〇年(應永十七年)以前に周防國に下向、山口瀧の法泉寺の住持となる。
周防國吉敷郡大内村の火上山興骼宸ノ所藏される、大内盛見入道の應永十四年(一四〇七)の藏經勸進帳に、「貳百疋法泉寺道朴」と見えるが、この「道朴」は、崇光院の男子の法泉寺方丈の先住か。
山口県文書館所藏「近藤清石文庫」14『師成親王御墓事言上書』八葉表
工事中 永享五年(一四三三)、大内持世が少貳滿資を討った後、法泉寺方丈は筑前國の伏見宮住吉御領の代官を幕府に競望したが、代官は大内持世に決せられた。
御薗生翁甫『大内氏史研究』三九〇頁に、
筑前国伏見宮住吉御領代官は、山口法泉寺方丈始め他にも競望者はあったが、ついに、大内に決定を見、九月十二日、毎年正税二千疋執沙汰すべきの請状を差出した。(看聞御記)。
とある。
三十餘年、周防國に在國していたが、嘉吉元年(一四四一)上洛、南禪寺正眼院に宿泊し、四月十六日、入道貞成親王(後崇光院)のもとを訪れて面談し、五山長老となる居公文(いなりくもん)を望む取次ぎを依ョ。
『看聞日記』嘉吉元年卯月十六日
周防法泉寺方丈入來(崇光院宮。相應院御舍弟)。此間御上洛云々。卅余年御在國。不存寄御珍敷爲悦。閑談有一獻。御宮笥折紙給。軈御歸、南禪寺正眼院御座。當年中ハ可有御在京云々。
『看聞日記』嘉吉元年卯月十七日
法泉寺方丈昨日御禮堆朱□合(六角)珪璋盆云々。引合十帖進之。
『看聞日記』嘉吉元年卯月廿五日
法泉寺方丈出世事、自是可執申之由、奉之間、(【傍】三條)令談合。大事之間、瑞藏主ニ談合して御返事可申云々。
『看聞日記』嘉吉元年五月十九日
髟x朝臣參。法泉寺御僧出世事被申。瑞藏主談合。居公文ハ被停止、其上秉拂無御沙汰者、五山長老ハ不可叶之由申云々。仍髟x朝臣重遣、此趣御僧ニ令申。御返事重可申之由令申。
『看聞日記』嘉吉元年五月廿日
南禪寺僧參。白書記維那侍者之勤。舊五山(【傍注】長老)ニ登用、無秉拂先例共折紙ニ注進、三條ニ可申談之由返事了。
 
【墓所】
法泉寺址付近の「御廟野」の「大内政弘墓」の隣にある「御墓」(王墓)と稱される五輪塔(傳師成親王墓)に推定されている。これを師成親王の墓とするのは誤りであろう。
C水正健『皇族考證』第伍巻、九四頁に、
○余周防國山口に居る六年所、其地の洪學近藤C石老に聞けることあり、郊外上宇野令村、法泉寺址を存す、其隣近叢林中、王墓と呼ぶものあり、必ず皇族埋骨の地なる可けれど、之を的知する能はず、大に惜むべしと云へり、今看聞日記に據りて、所謂王墓は、崇光皇子法泉寺方丈なるべきを知る、若し之を以て、C石老に告ぐることを得ば、老抵掌、大に悦ばれしならむも、今や地下の修文郎、再び之を起す能はざるを遺憾とす、この事、此に要なけれど、往事を追憶して、一言を加ふるのみ、
とあり、C水正健は『皇族考證』において、此處に唯一、主觀的な記述をしている。近藤C石は「王墓」を師成親王墓と考證したようであるが、C水正健が述べるように、崇光院宮の法泉寺方丈の墓であると見るべきであろう。
 なお、近藤C石については、圖録『山口県地方史研究の先駆者 近藤清石』(山口県立山口博物館、平成四年(一九九二)二月)がある。
 
【文獻等】
稿本崇光天皇實録』三二七頁「皇子某」
C水正健『皇族考證』第伍巻 九三〜九四頁


 
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公開日時:2023.12.05.

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