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長元二年(一〇二九)六月七日、故三條院の子となり親王宣下。
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『日本紀略』長元二年六月七日甲午
以前三條院皇子敦元・敦昌等爲親王(實小一條院息)。
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敦元は母が藤原寛子(藤原道長の女子)であるので、母が藤原延子(藤原顯光の女子)である敦昌より先に名を擧げられていると考えられる。
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長元二年(一〇二九)八月十九日に元服した「小一条院皇子」は、敦昌親王に比定される。
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『小右記』長元二年八月十九日乙巳「小一条院皇子加首服事」
帥【源道方】云。・・・・・ 今夜、小一條院皇子加首服云々。先日爲三条院親王云々。
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出家。法名は明行。永圓僧正の弟子となる。
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『榮花物語』三十三「歌合」
小一條院には故左大臣殿の女御の御はらに男二人、女一ところを、一宮は中務濟政のなりまの守のむこにてものし給。二宮は三井寺に大僧正かしづき聞え給事かぎりなし。
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『本朝皇胤紹運録』敦昌親王
實小一條院御子。出家。法名明行。永圓僧正弟子。補一身阿闍梨。住三井寺。號平等院。
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『稿本三條天皇實録』七二八頁〔按〕に、「親王、落飾ノ年次明カナラズ、便宜本條【長元二年六月七日】ニ附載ス、尚ホ尊卑分脈、吹上本帝王系圖等ニ明行ヲ敦元親王ノ法名ト爲シ、出家後ノ事跡ヲ其條下ニ掲ゲタルハ、敦昌親王ノ下ニ入ルベキヲ誤リシナルベシ、寺門傳記補録亦同ジク誤リテ、永承七年十二月受職灌頂トアルモ、敦元親王ハ長元五年七月十四日薨去アリタレバ其誤傳ナルヲ察スベシ、」とある。
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永承七年(一〇五二)十二月十一日、灌頂。一身阿闍梨に補される。
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