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享保十八年(一七三三)二月二十七日、生誕。
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『詰所系圖』閑院殿「典仁親王」
享保十八年二月廿七日生、號壽(【振假名】ヒサ)宮。
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公啓親王[輪王寺宮]の雙生の兄。
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『系圖纂要』閑院宮「典仁親王」には、「享保十八年二ノ廿七生」とある。
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『雲上御系譜』閑院宮家「典仁親王」六三頁には、「享保十八年二月二十七日御誕生」とある。
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「壽宮」
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寛保二年(一七四二)三月十二日、櫻町院(當今)の猶子となる。
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『閑院宮日記』寛保二年三月十二日
一、今般若宮【壽宮】御猶子御願ニ付、以御奉書被仰上候。御返事ニ相濟、御使隱岐守參上。著用長上下。
一、未刻壽宮樣御猶子御願相濟候ニ付、一品宮【直仁親王】爲御禮御參内。
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『御湯殿上日記』寛保二年三月十二日
はるゝ。閑院宮、京ごくの宮、ありす河宮より、若宮かた御ゆうし御ねがいの奉書まいる。御返事まいる。
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『ョ言卿記』寛保二年三月十二日辛未
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『御湯殿上日記』寛保二年三月十三日
くもる。閑院宮、京ごくの宮、ありす河宮へ、若宮から御ゆうしの御禮に御參内の御日がら十六日にと奉せうにて申まいる。
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『御湯殿上日記』寛保二年三月十六日
はるゝ。御はいあり。此度親王がた若宮がた御ゆうし仰出され候に付、若宮がた御參内。閑院宮より二しゆ壹かまいる。京極宮、有栖河宮よりも右同斷。ひさの宮【壽宮。のちの典仁親王】の御かたより御太刀、馬代、白かね十兩、三しゆ二かまいる。遠久宮【のちの音仁親王】の御かた、胡佐の宮【のちの公仁親王】の御かたよりも右同斷。八十宮の御かたより御しうぎ【祝儀】に御まな一折まいる。とき君より御まな一折しん上。こなたより閑院宮へさあや三卷、御まな一折、ひさの宮【壽宮】の御かたへはぶたへ【羽二重】五疋、壹か二しゆまいる。右勅使たか野少將。京極宮へ御まな一折、こさの宮【胡佐宮】御かたへはぶたへ五疋、壹か二しゆまいる。勅使坊ぜう左衞門權佐。有栖河宮へ御まな一折、遠久宮の御かたへはぶたへ五疋、壹か二しゆまいる。勅使おか崎兵部少輔。(【傍】右の)若宮かた御參内。四季閧ノて御たいめん成。御こぶあわにて御さかづき一こんまいる。・・・・・
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『ョ言卿記』寛保二年三月十六日乙亥
御猶子爲御歡御使尹宮(高野少將隆古)、式部卿宮(左衞門權佐俊逸)、中務卿宮(兵部少輔國榮)。
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『雲上御系譜』閑院宮家「典仁親王」六三〜六四頁には、「寛保二年二月十六日櫻町天皇御猶子」とある。
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典仁親王
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寛保三年(一七四三)九月四日、親王宣下。
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『通兄公記』寛保三年九月四日癸未
典仁(一品宮【直仁親王】息。号壽宮。今上【櫻町院】御猶子)親王宣下。上卿高倉大納言【永房】。辨祐光朝臣【裏松】。奉行職事基望朝臣【園】。勅別當下官【久我通兄】。
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『八槐記』寛保三年九月四日癸未
此日有親王宣下(典仁。一品彈正尹直仁親王嫡男。今上御猶子)。上卿高倉大納言【永房】。辨左中祐光朝臣【裏松】。奉行頭中將基望朝臣【園】。別當源大納言(通兄)【久我】。
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『ョ言卿記』寛保三年九月四日乙【癸】未
今日一品宮御息、親王宣下ニ付午刻參賀。申半刻歸。・・・・・
尹宮息宮壽宮宣下(典仁。十四)。上卿高倉大納言【永房】。辨祐光朝臣【裏松】。勅別當源大納言【久我通兄】。家司隆古。
・・・・・ 右奉行職事基望朝臣。
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『稙房卿記』寛保三年九月四日癸未
リ。傳聞。今日一品宮息(典仁)、有栖川宮息(音仁)等爲當今【櫻町院】御養子、有親王宣下。先一品宮若宮。上卿高倉大納言【永房】。并【辨】祐光朝臣【裏松】。勅別當源大納言【久我通兄】。有栖川宮若宮。上卿新源大納言【廣幡長忠】。并【辨】C胤【烏丸】【ママ】。勅別當三條大納言【利季】。兩方奉行基望朝臣【園】。
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延享元年(一七四四)九月二十六日、元服。三品に敍され、太宰帥に任じられる。
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『稙房卿記』延享元年九月廿六日庚子
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『ョ言卿記』延享元年九月廿六日
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『八槐記』延享元年九月廿六日庚子
雨尚滂沱。今日典仁親王於閑院亭加元服給(一品親王太郎宮)。尊者内大臣殿。藏人頭左大辨ョ要朝臣【葉室】務理髪。別當源大納言【久我通兄】扶持。新源大納言、難波前中納言、右衞門督著簾外座云々。典仁親王敍三品、任太宰帥宣下。新大納言(榮親【中山】)參着仗座。藏人左少辨俊逸【坊城】仰下敍品・任官之事。位記奏聞如恒。少納言家長朝臣率主鈴參上、於軒廊踏印云々。
親王敍三品之事良斷絶、今度興之。
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『通兄公記』寛延元年九月廿七日己酉
三品典仁親王叙二品、聽帶劍、賜隨身兵仗宣下。上卿中山大納言【榮親】、少納言行忠朝臣【石井】、奉行職事俊逸朝臣【坊城】。
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『稿本櫻町天皇實録』七一九〜七二〇頁 延享元年九月二十六日、「典仁親王、元服ヲ加フ、仍ツテ三品ニ敍シ、太宰帥ニ任ゼラル、親王敍品ノ事中絶セルヲ再興セラルル所ナリ、」
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『詰所系圖』閑院殿「典仁親王」
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『系圖纂要』閑院宮「典仁親王」には、「延享元年九ノ十六元服 同日太宰帥 同ノ廿六三品」とある。
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寛延元年(一七四八)九月二十七日、二品に敍され、聽帶劍・賜隨身兵仗宣下を受ける。
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『知音卿記』寛延元年九月廿七日
一、閑院宮三品太宰帥典仁親王于二品敍品(竝隨身兵丈・勅受【授】帶劔)宣下。上卿中山大納言榮親卿。少納言行忠朝臣。中務大輔泰孝朝臣。大内記依所勞不參。奉行頭右大辨俊逸朝臣。大外記師充。少外記千俊。少内記友俊。少史盛孝。召使宗岡行考。陣官人源元秀。大藏省弘充。木工寮同人。主殿寮(重威・職秀)。掃部寮(藤原利尹・同俊榮)。主鈴(珍之・康昆)。將監橘久次。大舍人景政。使部。
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『通兄公記』寛延元年九月廿七日己酉
三品典仁親王叙二品、聽帶劍、賜隨身兵仗宣下。上卿中山大納言【榮親】、少納言行忠朝臣【石井】、奉行職事俊逸朝臣【坊城】。
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『稙房卿記』延享五年【寛延元年】九月廿七日己酉
今日三品典仁親王二品宣下。上卿中山大納言(榮親)、奉行俊逸朝臣【坊城】。
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『稿本桃園天皇實録』一八三頁 寛延元年九月二十七日、「三品典仁親王ヲ二品ニ敍セラル、」
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『系圖纂要』閑院宮「典仁親王」には、「寛延二年九ノ廿八二品賜隨身兵仗」とある。
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安永九年(一七八〇)十二月七日、一品に敍される。
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『紀光卿記』安永九年十二月七日辛亥
此日、二品太宰帥典仁親王(故彈正尹直仁親王男。東山院皇孫。當今御實父)一品於陣被宣下。位記請印等如例云々。上卿今出川大納言(實種)。辨右少文房。少納言信庸朝臣。中務少輔敬長朝臣。奉行頭辨篤長朝臣。・・・・・
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『稿本光格天皇實録』九七〜九九頁 安永九年十二月九【ママ】日、「御實父二品太宰帥典仁親王ニ一品宣下アリ、」
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天明四年(一七八四)三月(四月二日)、一代に限り千石を増附される。
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『詰所系圖』閑院殿「典仁親王」
同四年三月御一代千石増被附(但二條御藏米四百石)。
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『系圖纂要』閑院宮「典仁親王」に、「天明四年四ノ二加厨料千俵」とある。
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天明八年(一七八八)正月、京洛の大火により閑院宮亭宅が燒亡。後、新宅に移る。
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寛政五年(一七九三)四月(三月十九日)、二千俵を増附される。
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『詰所系圖』閑院殿「典仁親王」
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『系圖纂要』閑院宮「典仁親王」に、「寛政五年三ノ十九加二千俵」とある。
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寛政六年(一七九四)七月六日、薨逝。六十二歳。薨奏あり。
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『公明卿記』寛政六年七月六日
入夜戌刻、太宰帥典仁親王薨去。帝御實父也。今夜即薨奏(密儀。近日之例)。忽被仰廢朝五ヶ日、被下御簾、被止音奏(已上之儀、密儀)。不及評議。
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『敬義卿記』寛政六年七月六日
一、閑院一品典仁親王薨(帝御實父。日光宮・御室宮・妙法院宮・聖護院宮等御乳也)。從今日廢朝五箇日。仙洞五ヶ日被止物音云々。
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『洞中執次詰所日記』寛政六年七月六日辛卯
一、閑院一品宮【典仁親王】御違例ニ御容體書貳通兩度ニ傳奏衆より仰出。御附衆江進達。
一、閑院帥宮【典仁親王】薨去ニ付從今六日五个日廢朝之旨被仰出候段、上御所より申來。同役諸役所申觸。
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『仙洞女房日記』寛政六年七月六日
リ。一品宮【典仁親王】御やうたい書兩度出ル。御やう生かなひまいらせられぬよし申入有。内の御かたより五ヶ日御つゝしみの事仰まいらせらるゝ。儀そう【議奏】衆御使にて仰まいらせらるゝ。ほかにも御相だんの事有。此御所五ヶ日物音とゞめられ候よし、殊にずい分一とうつゝしみ御物しづか成樣、一とう口々へも申いづる。明まへ迄御こし成申さず。
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『院中評定日次案』寛政六年七月六日辛卯
リ。就一品宮【典仁親王】薨去、自今日至十日五箇日、被停物音。
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『均光日次記』寛政六年七月七日壬辰
昨夜太宰帥一品典仁親王(六十二歳)令薨給云々。依之今日七夕御會延引 ・・・・・
自今日五ヶ日廢朝。於洞中者五ヶ日停止物音已。
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『光格天皇日記案』寛政十年七月六日戊辰(『稿本光格天皇實録』一〇三一頁所引)
自在王院宮【典仁親王】正忌爲追善於小座敷有樂(予一人也)。
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『稿本光格天皇實録』七九六〜七九七頁 寛政六年七月七日、「去夜、一品典仁親王、薨ズ、仍ツテ六日ヨリ五箇日間ノ廢朝仰セ出サル、是日、七夕歌御會ヲ延引ス、」
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『稿本後櫻町天皇實録』一三七九頁 寛政六年七月六日、「典仁親王ノ薨由ヲ奏ス、仍ツテ是日ヨリ五箇日間、物音ヲ停メラル、」
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寛政六年(一七九四)七月十二日、入棺。
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『均光日次記』寛政六年七月十二日丁酉
・・・・・ 又故帥宮【典仁親王】今夕入棺云々。依之禁中・洞中・女院・中宮等勿論、官家之輩悉觸穢、已外不混之、或混之、不分明。於他國者勿論無沙汰。此事後日記之。
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『稿本光格天皇實録』七九七〜七九八頁 寛政六年七月十二日、「故典仁親王ノ入棺ノ儀ヲ行フニ依リ、禁中、仙洞、女院、中宮等悉ク觸穢仰セ出サル、」
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寛政六年(一七九四)七月二十一日、廬山寺において葬儀。
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『敬義卿記』寛政六年七月廿一日
一、今夜一品典仁親王葬於廬山寺。勅會。公卿五六輩、殿上人五六輩扈從。御法名號「自在王院」云々。
一、主上從今日十三箇日、御錫紵着御云々。
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『稿本光格天皇實録』七九九頁 寛政六年七月二十一日、「廬山寺ニ於テ御父典仁親王ノ葬儀アリ、是日ヨリ十三箇日間、錫紵ヲ著御アラセラル、」
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文化七年(一八一〇)七月六日、廬山寺において十七回忌の法會が行われる。
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『公明卿記』文化七年七月六日
リ。今日、自在王院宮【典仁親王】十七回忌辰、寫心經寺納了。於廬山寺有法會。芝山前中納言(持豐)、八條前宰相隆禮、久世三位通理等參會云々。
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『稿本光格天皇實録』一三八二頁 文化七年七月六日、「皇考典仁親王十七回忌ニ依リ、廬山寺ニ於テ御法會ヲ行ハル、」
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