朝右王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[朝右]

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朝右王
 
【出自】
 二世孫王と推定される。
 系譜未詳。
 
【經歴】
貞觀六年(八六四)正月七日、無位より從四位下に敍される。
『日本三代實録』貞觀六年正月七日甲午
[授]无位忠範王、朝右王並從四位下。
貞觀八年(八六六)正月七日、從四位下より從四位上に敍される。
『日本三代實録』貞觀八年正月七日甲申
[授]從四位下 ・・・・・ 越中守棟貞王、散位朝右王、並從四位上。
貞觀十一年(八六九)正月十三日、美作守に任官。
『日本三代實録』貞觀十一年正月十三日辛未
[以]從四位上朝右王爲美作守。
服喪のために美作守を辭したか。
貞觀十二年(八七〇)正月二十五日、美作守に任官。
『日本三代實録』貞觀十二年正月廿五日戊寅
[以]散位從四位下【上】朝右王爲美作守。
 
【備考】
後藤昭雄「学生の字(【振假名】あざな)について」(後藤昭雄『平安朝漢文学論考 補訂版』(勉誠出版、二〇〇五年二月)422〜445頁所收。初出、『国語国文薩摩路』一六號、一九七二年)436頁に、
 ・・・・・・『菅家文草』巻二の「絶句十首、賀諸進士及第」の、詩の対象となる二、三の文章生について ・・・・・ 十名の「進士」の中でただ一人だけは ・・・・・ その姓名を知り得る。それは第九首(一三七)の詩にいう「右生」である。「右生」が藤原菅根の字であることは ・・・・・『公卿補任』延喜八年条の尻付、および『桂林遺芳抄』によって明らかである。
 なお、ここで言及しておけば、川口久雄氏は日本古典文学大系本の頭注で、「右生」について「右は、考究しがたい。貞観に朝右王が任官しているがその属か。生は、不明」と述べておられるが、これは、学生の字の上の一字は必ず姓名の一字を含むべきものという理解に基づくもので、・・・・・ 字のつけ方についての二つの様式の一方、すなわち上の一字も姓の文字から選ばない様式もあるということを見過されたことから来る無理な説明である。
とある。


 
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公開日時: 2021.07.31.

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