忠貞王
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『公卿補任』元慶三年 參議 正四位下「忠貞王(六十)」袖書
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『本朝皇胤紹運録』賀陽親王の子
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八二〇年(弘仁十一年)生。
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天安二年(八五八)正月七日、無位より從四位下に敍される。
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天安二年(八五八)四月十一日、某大~社に遣わされる。
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貞觀三年(八六一)三月八日、大學頭となる。
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貞觀五年(八六三)二月十六日、中務大輔に任じられる。
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貞觀六年(八六四)正月十六日、攝津守に任じられる。
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貞觀九年(八六七)正月七日、從四位下より從四位上に敍される。
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貞觀十二年(八七〇)二月二十一日、彈正大弼に任じられる。
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貞觀十三年(八七一)正月二十九日、大和守に任じられる。
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貞觀十四年(八七二)四月六日、播磨守に任じられる。
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貞觀十九年(八七七)正月三日、從四位上より正四位下に敍される。
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貞觀十九年(八七七)閏二月(または正月)十五日、河内守に任じられる。
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元慶二年(八七八)八月十四日、大和守に任じられる。
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元慶三年(八七九)十月二十三日(または二十五日)、參議となる。時に六十歳。
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元慶四年(八八〇)二月二十一日、宮内卿を兼任する。
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元慶五年(八八一)二月十五日、刑部卿・美濃權守を兼任する。
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元慶六年(八八二)正月七日、太政大臣藤原基經等と共に參内して上表し、陽成天皇の元服を賀す。
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元慶六年(八八二)二月三日、近江守を兼任(刑部卿は留任)。
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元慶八年(八八四)二月四日、讓位した陽成天皇の二條院への遷幸に、兵部卿本康親王等と共に供奉。
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元慶八年(八八四)二月二十一日、光孝天皇の即位の由を告げるため、桓武天皇の柏原山陵に遣わされる。
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元慶八年(八八四)四月十一日、賀茂齋王(穆子女王)を改めず、齋王が内親王となる由を告げるため、賀茂~社に遣わされる。
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元慶八年(八八四)六月十七日、太政大臣藤原基經等と共に、田原天皇(志貴親王)の國忌を省き除くことを上奏し、裁可される。
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元慶八年(八八四)八月二十七日、卒去。時に參議刑部卿正四位下兼行近江守。六十五歳。
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容貌は甚だ醜かったが、志の向うところが高邁であった。幼くして學問を始め、五經(『周易』・『尚書』・『詩經』・『禮記』・『春秋』)をほぼ通讀し、官吏としての才幹があると稱揚された。國司を歴任し、威嚴と惠恤を共に身に備えていたため民は敢えて事を損なうことをせず、その事績は卓越して優れており、皇族のなかで最も評判が高かった、という。
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『稿本桓武天皇實録』四五一〜四五六頁「皇孫忠貞王」 |
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