忠貞王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[忠貞]

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忠貞王
 
【出自】
 
賀陽親王の男子。
 桓武天皇の二世孫王。
『公卿補任』元慶三年 參議 正四位下「忠貞王(六十)」袖書
二品賀陽親王之男(桓武天皇孫)。
『本朝皇胤紹運録』賀陽親王の子
         三木
     刑部卿 正四下

── 忠貞王
 
【經歴】
八二〇年(弘仁十一年)生。
『公卿補任』より逆算。
天安二年(八五八)正月七日、無位より從四位下に敍される。
『日本文コ天皇實録』天安二年正月庚子
无位忠貞王授從四位下。
天安二年(八五八)四月十一日、某大~社に遣わされる。
『日本文コ天皇實録』天安二年四月壬寅
是日、遣從四位下右近衞中將源朝臣興、散位時宗王、從四位上伊豫守春澄朝臣善繩、從五位下右馬助藤原朝臣廣基、陰陽頭從五位上藤原朝臣三藤、散位從五位下源朝臣双、從四位下忠貞王、侍從輔世王、民部大輔藤原朝臣仲統、雅樂頭從五位下源朝臣舒、縫殿頭伴宿禰須賀雄、散位從四位下棟貞王、從五位下源朝臣包、從四位上越中守源朝臣啓、從五位下源朝臣同、高橋朝臣淨野等、於諸大~社。宣命曰。・・・・・
貞觀三年(八六一)三月八日、大學頭となる。
『日本三代實録』貞觀三年三月八日壬午
散位從四位下忠貞王爲大學頭。
貞觀五年(八六三)二月十六日、中務大輔に任じられる。
『日本三代實録』貞觀五年二月十六日己酉
從四位下行大學頭忠貞王爲中務大輔。
貞觀六年(八六四)正月十六日、攝津守に任じられる。
『日本三代實録』貞觀六年正月十六日癸卯
從四位下行中務大輔忠貞王爲攝津守。
貞觀九年(八六七)正月七日、從四位下より從四位上に敍される。
『日本三代實録』貞觀九年正月七日戊申
・・・・・ 從四位下行攝津守忠貞王從四位上。・・・・・
貞觀十二年(八七〇)二月二十一日、彈正大弼に任じられる。
『日本三代實録』貞觀十二年二月廿一日癸卯
散位從四位上忠貞王爲彈正大弼。
貞觀十三年(八七一)正月二十九日、大和守に任じられる。
『公卿補任』元慶三年 參議 正四位下「忠貞王(六十)」袖書
天安二正七從四下(元無位)。貞觀三三八大學頭。同五二十六中務大輔。同六正十六攝津守。同九くし正七從四上。同十二二廿一彈正大弼。同十三正廿九大和守。同十四四六播磨守。同十九正三正四下。「閏二月」十五日河内守。元慶二八十四大和守。
貞觀十四年(八七二)四月六日、播磨守に任じられる。
『公卿補任』元慶三年 參議 正四位下「忠貞王(六十)」袖書
貞觀十九年(八七七)正月三日、從四位上より正四位下に敍される。
『日本三代實録』元慶元年正月三日乙亥
[授] ・・・・・ 前播磨守從四位下忠貞王、並正四位下。
『類聚國史』百一「職官部」六「敍位」六、貞觀十九年正月三日乙亥
[授] ・・・・・ 前播磨守從四位下忠貞王、並正四位下。
貞觀十九年(八七七)閏二月(または正月)十五日、河内守に任じられる。
『公卿補任』元慶三年 參議 正四位下「忠貞王(六十)」袖書
元慶二年(八七八)八月十四日、大和守に任じられる。
『日本三代實録』元慶二年八月十四日丁丑
[以]前河内守正四位下忠貞王爲大和守。
元慶三年(八七九)十月二十三日(または二十五日)、參議となる。時に六十歳。
『公卿補任』元慶三年 參議 正四位下「忠貞王(六十)」尻付
十月廿五日任。元大和守。
『一代要記』陽成天皇 參議「忠貞王」
正四位下。元慶三年十月十三日任。元大和守。桓武孫。二品賀陽親王男。
『日本紀略』元慶三年十月廿三日己卯
任官。
元慶四年(八八〇)二月二十一日、宮内卿を兼任する。
『公卿補任』元慶四年 參議 正四位下「忠貞王(六十一)」尻付
二月廿一日兼宮内卿。
元慶五年(八八一)二月十五日、刑部卿・美濃權守を兼任する。
『公卿補任』元慶五年 參議 正四位下「忠貞王(六十二)」尻付
二月十五日兼刑部卿并美乃權守等。
元慶六年(八八二)正月七日、太政大臣藤原基經等と共に參内して上表し、陽成天皇の元服を賀す。
『日本三代實録』元慶六年正月七日庚戌
是日、太政大臣從一位藤原朝臣基經、左大臣正二位源朝臣融、從二位行大納言兼左近衞大將源朝臣多、・・・・・ 參議從三位行治部卿兼近江守在原朝臣行平、參議從三位行左衞門督兼近江權守源朝臣能有、參議刑部卿正四位下兼行美濃權守忠貞王、・・・・・ 等、詣闕上表、奉賀 天皇加元服。曰。・・・・・
元慶六年(八八二)二月三日、近江守を兼任(刑部卿は留任)。
『公卿補任』元慶六年 參議 正四位下「忠貞王(六十三)」尻付
刑部卿。二月三日兼近江「權【し无恐衍】」守(卿如元)。
『公卿補任』元慶七年 參議 正四位下「忠貞王(六十四)」尻付
刑部卿。近江守。
元慶八年(八八四)二月四日、讓位した陽成天皇の二條院への遷幸に、兵部卿本康親王等と共に供奉。
『日本三代實録』陽成天皇 元慶八年二月四日乙未
是日、 天皇出自綾綺殿、遷幸二條院。二品行兵部卿本康親王、右大臣從二位兼行左近衞大將源朝臣多、・・・・・ 中納言從三位在原朝臣行平、中納言從三位兼行左衞門督源朝臣能有、參議刑部卿正四位下兼行近江守忠貞王、參議正四位下行伊豫權守源朝臣冷、・・・・・ 扈從文武百官供奉如常。・・・・・
元慶八年(八八四)二月二十一日、光孝天皇の即位の由を告げるため、桓武天皇の柏原山陵に遣わされる。
『日本三代實録』元慶八年二月廿一日壬子
是日、遣中納言從三位兼行左衞門督源朝臣能有於山階山陵、參議刑部卿[正四位下]兼行近江守忠貞王於柏原山陵、・・・・・ 告以可即位也。
元慶八年(八八四)四月十一日、賀茂齋王(穆子女王)を改めず、齋王が内親王となる由を告げるため、賀茂~社に遣わされる。
『日本三代實録』元慶八年四月十一日辛丑
霜降。遣參議刑部卿正四位下兼行近江守忠貞王向賀茂~社、告以不改齋王并爲内親王之状。
元慶八年(八八四)六月十七日、太政大臣藤原基經等と共に、田原天皇(志貴親王)の國忌を省き除くことを上奏し、裁可される。
『日本三代實録』元慶八年六月十七日丙午
太政大臣從一位藤原朝臣基經、左大臣正二位源朝臣融、右大臣從二位兼行左近衞大將源朝臣多、・・・・・ 正三位行中納言兼民部卿在原朝臣行平、中納言從三位兼行左衞門督源朝臣能有、參議刑部卿正四位下兼行近江守忠貞王、參議正四位下行右兵衞督兼伊豫權守源朝臣冷、參議正四位下行左兵衞督兼播磨權守源朝臣光、・・・・・ 參議正四位下源朝臣是忠等奏言。「・・・・・ 八月九日田原天皇國忌、昭穆之義漸疎、宗親之理既遠。酌諸故實、宜從省除者。謹録事状、伏聽天裁」。奏可。
元慶八年(八八四)八月二十七日、卒去。時に參議刑部卿正四位下兼行近江守。六十五歳。
『日本三代實録』元慶八年八月廿七日乙卯
參議刑部卿正四位下兼行近江守忠貞王卒。忠貞王者二品賀陽親王之子也云々。年六十五。
『公卿補任』元慶八年 參議 正四位下「×忠貞王(六十五)」尻付
刑部卿。近江守。八月廿七日薨。在官六年。
 
【逸事等】
容貌は甚だ醜かったが、志の向うところが高邁であった。幼くして學問を始め、五經(『周易』・『尚書』・『詩經』・『禮記』・『春秋』)をほぼ通讀し、官吏としての才幹があると稱揚された。國司を歴任し、威嚴と惠恤を共に身に備えていたため民は敢えて事を損なうことをせず、その事績は卓越して優れており、皇族のなかで最も評判が高かった、という。
『公卿補任』元慶三年 參議 正四位下「忠貞王(六十)」頭書
傳云。忠貞王、容貌甚醜、志尚高邁、幼而就學、粗讀五經、以吏幹見稱云々。出爲外吏、累歴數國、威惠兼帶、民不敢敗。庸簡之風、所在著稱、新良吏化合、守披良基、殆无齊名焉。聲之美、宗室之最也。
 
【文獻等】
稿本桓武天皇實録』四五一〜四五六頁「皇孫忠貞王」


 
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公開日時: 2012.07.05.

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