大庭王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[大庭]

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大庭王
 
【出自】
 系譜未詳。
 三世王
 
【經歴】
延暦六年(七八七)正月七日、無位より從五位下に敍される。
『續日本紀』延暦六年正月壬辰
[授]無位矢庭王、大庭王、正六位上岡田王並從五位下。
延暦八年(七八九)十二月二十九日、皇太后高野朝臣新笠の崩御により、山作司となる。
『續日本紀』延暦八年十二月丙申
[以]中納言正三位藤原朝臣小K麻呂、參議治部卿正四位下壹志濃王、阿波守從五位上小倉王、散位從五位下大庭王、正五位下藤原朝臣眞友、因幡守從五位上文室眞人忍坂麻呂、但馬介從五位上文室眞人久賀麻呂、左少弁從五位上阿倍朝臣弟當、彈正弼從五位下文室眞人八嶋、六位已下官十四人爲山作司。
延暦九年(七九〇)閏三月十一日、皇后藤原朝臣乙牟漏の崩御により、山作司となる。
『續日本紀』延暦九年閏三月丁丑
[以]正三位藤原朝臣小K麻呂、正四位下壹志濃王、從五位下大庭王、從四位下藤原朝臣菅繼、文室眞人高嶋、正五位下文室眞人八多麻呂、藤原朝臣眞友、從五位下文室眞人八嶋、藤原朝臣眞鷲爲山作司。六位已下官十二人。
延暦十年(七九一)正月二十八日、侍從となる。
『續日本紀』延暦十年正月己丑
以從五位下大庭王爲侍從。
讚岐守を兼ねる。
延暦十六年(七九七)二月十五日、左大舍人頭を兼ねる。讚岐守はもとの如し。時に侍從從五位下。
『日本後紀』延暦十六年二月辛未
侍從從五位下大庭王爲兼左大舍人頭。讚岐守如故。
正五位下に昇敍。
延暦十八年(七九九)六月十六日、中務大輔となる。
『日本後紀』延暦十八年六月己丑
中納言從三位和朝臣家麻呂爲兼中務卿。相摸守如故。正五位下大庭王爲大輔。從五位下淡路眞人wヌ麻呂爲少輔。
從四位下に昇敍。
延暦二十三年(八〇四)二月十八日、内匠頭となる。
『日本後紀』延暦廿三年二月癸亥
從四位下大庭王爲内匠頭。
侍從となる。
延暦二十五年(八〇六)正月二十八日、上野守を兼ねる。時に侍從從四位下。
『日本後紀』大同元年正月癸巳
侍從從四位下大庭王爲兼上野守。
延暦二十五年(八〇六)四月一日、桓武天皇を誄する左方の後誄人を勤仕。時に侍從從四位下。
『日本後紀』大同元年四月甲午朔
中納言正三位藤原朝臣雄友、率後誄人左方中納言從三位藤原朝臣内麻呂、參議從三位坂上大宿祢田村麻呂、侍從從四位下中臣王、侍從從四位下大庭王、參議從四位下藤原朝臣緒嗣、右方權中納言從三位藤原朝臣乙叡、參議從三位紀朝臣勝長、散位從四位上五百枝王、參議正四位下藤原朝臣繩主、從四位下秋篠朝臣安人等、奉誄曰。・・・・・
大同五年(八一〇)九月十七日、大舍人頭を兼ねる。時に侍從從四位下。
『日本後紀』弘仁元年九月甲寅
侍從從四位下大庭王爲兼大舍人頭。
弘仁元年(八一〇)十一月二十二日、從四位下から從四位上に敍される。
『日本後紀』弘仁元年十一月戊午
宴五位已上。奏雅樂并大歌。從四位下大庭王授從四位上。從五位下弟野王、作良王從五位上。正六位上貞代王、御井王從五位下。
『類聚國史』卷第九十九「職官部」四「叙位」四、弘仁元年十一月戊午
宴五位已上。奏雅樂并大歌。從四位下大庭王授從四位上。從五位下弟野王【甲本辛本「茅野王」】、作良王從五位上。正六位上貞代王、御井王從五位下。
弘仁三年(八一二)八月一日、刑部卿となる。
『日本後紀』弘仁三年八月丙戌朔
從四位下【上】大庭王爲刑部卿。
弘仁九年(八一八)九月二十六日卒。時に刑部卿從四位上。
『日本紀略』弘仁九年九月丁未
刑部卿從四位上大庭王卒。
 
【子女】
[藤原朝臣冬嗣の室。左大臣藤原朝臣良世の母]
『尊卑分脈』良仁良世公孫「良世」袖書
母從四位上大庭王女
または、正五位下朝平王の女子。
『公卿補任』貞觀十二年(庚寅)參議 正四位下「藤良世(四十九)」
贈太政大臣冬嗣公八男。母從四位上大庭王女(正五位下朝平王女
父、大庭王の卒去後、朝平王の戸籍に入ったために、「朝平王女」とされたものか。
その場合、朝平王は大庭王の子である可能性がある。


 
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公開日時:2022.04.28.

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