尊胤法親王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[尊胤A]

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【僧】尊胤親王
 
 梶井門跡(二二)
 天台座主(一二二)(一二四)(一三〇)(一三三)
 二品
 
【出自】
 
後伏見院の一男。
 
【生母】
 治部卿局
   泰豪法印の女子。
 
【經歴】
一三〇六(嘉元四年/徳治元年)生。
薨年より逆算。
藤原朝臣俊光[日野]によって養われる。
『花園院宸記』元亨元年四月廿五日戊辰
俊光卿所養宮參。明後日可入梨本宮【承鎭親王】室之故也。
元亨元年(一三二一)四月二十七日、梶井に入室。梶井門跡承鎭親王(順徳院三世。忠房親王の兄弟)の弟子となる。
『花園院宸記』元亨元年四月廿七日庚午
今日、若宮(上皇【後伏見院】第一皇子、前大納言俊光養君)入承鎭親王室【梶井】。入夜、扈從公卿等參集。若宮着直衣(二藍直衣、文三重多須岐)・奴袴(紫二重織物、菊八葉(白黄))・衣(青)・生單・紅下袴等如例。出自寝殿南端東面妻戸(大宮大納言【季衡】・御簾)、自門乘車 ・・・・・
正慶二年(一三三三)正月二十七日(座主記「十四日」)、天台座主(百二十二世)に補される。
『天台座主記』第百廿二
無品親王尊胤(圓融院)。治山廿八ヶ日。持明院(後伏見)御子。正慶二年正月十四日先被仰下。同二月十二日入滅【ママ】、請宣命、不及拜堂。
建武三年(一三三六)十月二日(座主記「十三日」)、天台座主(第百二十四世)に還補。
後醍醐天皇が比叡山から下山して光明院に讓位した後、舊に復して天台座主となったもので、座主宣下がなかった。
『天台座主記』第百廿四
無品親王尊胤。治山三年。建武三年十月十三日以來如元爲座主、不及宣下。
暦應三年(一三四〇)四月二十六日、二品に敍される。
『師守記』暦應三年四月廿六日己酉
・・・・・
今日自大理卿(資明卿)被尋申云。法親王敍品募勸賞例可注給候。今夕梶井宮御敍品被申旨之間、先尋申候。勸賞旨可被載勅書候哉。所見候者可注賜云々。御返事云。法親王敍品募勸賞例一通、隨所見謹注進別紙候。被載勅書例無所見候。若流例御敍品、被宣下内記候乎云々。勘例注裏。
 「【頭書】注進之外、尊雲法親王(【傍注】兵部卿護良親王事也)元應二年三月廿七日敍二品(延暦寺講堂供養呪願賞)。此例依不吉、無御注進。」
 「【裏書】二十六日 法親王募勸賞御敍品例 ・・・・・」
今日被行小除目、・・・・・ 無品尊胤法親王令敍二品給。内記作進位記(草清共奏聞)。中務少納言等不參之間、無位記請印事云々。・・・・・
『園太暦』延文五年正月(勘例)
尊胤親王 暦應三年四月廿六日敍二品(元無品。・・・・・)
觀應元年(一三五〇)七月、天台座主を辭す。
『師守記』觀應元年七月十七日
一、日吉~輿今日可有御下山之由御沙汰、駕輿丁催促云々。山上(【傍注】西塔)沙汰入眼歟。座主(【傍注】梶井宮)停廢事御兼約。院宣去十四日被下故云々。・・・・・
『華頂要略』第百三十
二品尊胤親王(圓融坊)治山。
・・・・・
觀應元年七月辭之。
貞和三年(一三四七)八月二十七日、天台座主(第百三十二世)に還補。
『師守記』貞和三年八月廿七日丁酉
今夜、有座主宣下。・・・・・ 丑剋被行之。
二品尊胤法親王爲天台座主云々
『園太暦』貞和三年八月廿七日
自禁裏有勅書、今日座主宣下。
『天台座主記』第百卅二
二品親王尊胤。治山四年。貞和三年八月廿五【ママ】日還補。同四年拜堂。
「正平の一統」に際し、正平七年(一三五二)三月三日、南朝の手によって、光嚴院・光明院・崇光院・直仁親王と共に、河内國東條に遷される。
『園太暦』正平七年三月四日「八幡敵襲來之由風聞、三院幸移東條事」
今朝聞。昨日江州已襲來八幡之由方々云々。就其騒動ヽ三院并宮御方【直仁親王】被奉移東條。又梶井尊胤親王去比被參、同被渡彼邊。而此風聞虚説、剩義詮已下引退不知行方云々。大炊御門元大納言氏忠卿來。謁之。去夜上皇已下幸東條。御輿供奉人實音朝臣【三條】也。ヘ言朝臣【山科】自内裏不可參之旨被仰。仍上北面範康舎弟範之ー(【傍注】不見)相副御輿。其躰ーー云々。不便ー。梶井宮垂髪一兩人、坊官一人、同歩行相從云々。盛衰只可彈指事也。
『祇園執行日記』正平七年三月四日
參八幡御所。
一、本院、新院、法皇、宮御方(前春宮)自八幡被奉下河内東條廣河寺(自内裏沙汰、梶井宮御下東條同日)。
『祇園執行日記』正平七年三月五日
一、依召參貫首。・・・・・ 又昨日參八幡事。仙洞御所御方々自八幡昨日被奉下河内東條事等申了。御不審處、委細實説被申目出之由、以大藏卿僧都被仰之。
正平七年/文和元年(一三五二)六月二十一日、脱出、二十三日、京都に還る。
『園太暦』文和元年六月廿四日
賀茂前~主ヘ久來曰。梶井二品親王(尊胤)公家寛宥、忽出家【京歟】之間、今日參申、被坐良重法印大炊御門油小路坊、隱遁之由歟。不被謁諸人。不可對面云々。
『園太暦』文和元年六月廿七日
大外記師言大炊寮々務事歎申之。・・・・・ 又語曰。梶井二品親王逃南方虎口、逃脱之次第、言語道斷。所詮去廿一日、客飲守護武士酣醉、偸逃去出京云々。於武家隨分忠節之由被搆【稱歟】歟。就其第五宮門跡事悉解讓進師匠歟。誠尋器事歟。
『祇園執行日記』文和元年七月三日
參梶井宮(門主)。自東條無爲還御(去月廿三日)目出之由、御祈致忠之旨、以按察都維那申入了。今度御歸京併冥助也。如此被申之條、~妙之由有御返事。
文和元年(一三五二)十月十四日、天台座主(第百三十四世)に還補。
『園太暦』文和元年十月十四日「座主宣下事」
傳聞。今日座主宣下也。青蓮院二品親王【尊圓親王】辭退、梶井二品親王(尊胤)重補。已及四箇度歟。・・・・・
『天台座主記』第百卅四
二品親王尊胤。治山四年。文和元年十月十四日還補。
文和二年(一三五三)六月、後光嚴院の東遷に供奉。
文和三年(一三五四)九月十三日、護持僧に補される。
文和四年(一三五五)一月二十六日、源朝臣尊氏[足利]の招請により、近江國坂本に赴く。
延文元年(一三五六)十月二十三日、病により護持僧を辭す。
延文四年(一三五九)五月二日、薨逝。五十四歳。
『後深心院關白記』延文四年五月二日
梶井二品親王(尊胤)入滅。年五十四。今曉卯刻。
『常樂記』延文四年己亥
五月、梶井宮御入滅。
『太平記』巻三十三(梶井宮御隠事)
同年【延文四年】五月二日、梶井二品親王御隱有ければ、山門の悲歎、竹苑の御嘆、更に類なし。
 
【逸事】
元弘二年二月・四月、花園院に茶酒を振舞っている。
『花園院宸記』元弘二年二月六日丙午
尊胤親王供茶。又聊供酒。唐繪等進之。入夜又於此方、同段茶酒。皆親王所儲也。
『花園院宸記』元弘二年四月八日丁未
入夜尊胤親王儲茶酒。
当時の世風を反映し、多分に「ばさら」の傾向があった。康永四年(一三四五)三月二十七日に尊勝陀羅尼供養のために參内した際には、派手に装いを凝らし、それを見物する群集が集まること、「先代未聞事」であったという。
『師守記』康永四年三月廿七日辛亥
今日、於仙洞被供養尊勝陀羅尼。御導師梶井二品親王尊胤御參勤云々。御行粧以外結構云々。見物車雜人等群集過法。先代未聞事云々
獅子舞・田樂を日夜に舞い歌わせ、茶人・連歌師を集めて朝に夕に遊びふけっていたため、世間から糾彈されていた、という。
『太平記』巻三十
梶井二品親王ハ、此時天台座主ニテオハシケルカ、同ク召捕レサセ給ヒテ、金剛山麓ニソオハシケル。此宮ハ本院の御弟【ママ】、慈覺大師ノ嫡流ニテ、三度天台座主ニ成セ給ヒシカハ、門迹【門跡】ノ富貴無レ雙【雙(ならび)ナク】、御門徒ノ群集如レ雲【雲ノ如ク】、獅子・田樂ヲ被レ召【召レ】、日夜ニ舞歌ハセ、茶飲・連歌士ヲ集テ、朝夕遊ヒ興セサセ給ヒシカハ、世ノ譏(そしり)、山門ノ訟ハ止時無リシカ共、御心ノ中ノ樂ハ類非シト見ヘタリシニ、・・・・・
貞和五年(一三四九)六月十一日、四条河原橋勸進田樂に、源朝臣尊氏[足利]らと臨席、棧敷が倒壞する事故に遭った。
『師守記』貞和五年六月十一日辛未
今日、於四条川原爲橋勸進、有田樂。新本入交可盡藝能□【由】風聞之間、貴賎群集。座主宮(梶井)・將軍等見物給云々。而猿樂一番之後、淺【棧】敷悉令破損。當座死者百余人(云々)。將軍・座主宮無別事云々
連歌人。『菟玖波集』に九十句入集。これは、同集への入集者のうち、二番目に多い(二條良基は八七句)。
 
【文献等】




 
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公開日時: 2011.11.22.

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