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一三〇六(嘉元四年/徳治元年)生。
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藤原朝臣俊光[日野]によって養われる。
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『花園院宸記』元亨元年四月廿五日戊辰
俊光卿所養宮參。明後日可入梨本宮【承鎭親王】室之故也。
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元亨元年(一三二一)四月二十七日、梶井に入室。梶井門跡承鎭親王(順徳院三世。忠房親王の兄弟)の弟子となる。
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『花園院宸記』元亨元年四月廿七日庚午
今日、若宮(上皇【後伏見院】第一皇子、前大納言俊光養君)入承鎭親王室【梶井】。入夜、扈從公卿等參集。若宮着直衣(二藍直衣、文三重多須岐)・奴袴(紫二重織物、菊八葉(白黄))・衣(青)・生單・紅下袴等如例。出自寝殿南端東面妻戸(大宮大納言【季衡】・御簾)、自門乘車 ・・・・・
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正慶二年(一三三三)正月十七日(座主記「十四日」)、天台座主(百二十二世)に補される。
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『天台座主記』第百廿二無品親王尊胤(圓融院)。治山廿八ヶ日
持明院(後伏見)御子。
正慶二年正月十四日先被仰下。同二月十二日入滅【ママ】、請宣命、不及拜堂。
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『梶井圓融坊在住親王傳』尊胤法親王
正慶二年正月十七日補天台座主。
二月十二日請宣命。不及拜堂。
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正慶二年(一三三三)正月、天台座主および梶井圓融坊管領を停止され、白毫院に籠居。
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『梶井圓融坊在住親王傳』尊胤法親王
[正慶二年]六月、先帝【後醍醐天皇】還幸、被止座主并梨本梶井管領。籠居白毫院。
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建武三年(一三三六)十月十三日、天台座主(第百二十四世)に還補。
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後醍醐天皇が比叡山から下山して光明院に讓位した後、舊に復して天台座主となったもので、座主宣下がなかった。
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『天台座主記』第百廿四無品親王尊胤。治山三年
建武三年十月十三日以來如元爲座主、不及宣下。今年夏持明院法皇崩御、雖爲重服還補。拜堂拜賀在之。
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『梶井圓融坊在住親王傳』尊胤法親王
建武三年十月十三日復天台座主、梨本梶井管領。改不及宣下。
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建武四年(一三三七)正月、四天王寺別當に補される。
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暦應三年(一三四〇)四月二十六日、二品に敍される。
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『師守記』暦應三年四月廿六日己酉
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今日自大理卿(資明卿)被尋申云。法親王敍品募勸賞例可注給候。今夕梶井宮御敍品被申旨之間、先尋申候。勸賞旨可被載勅書候哉。所見候者可注賜云々。御返事云。法親王敍品募勸賞例一通、隨所見謹注進別紙候。被載勅書例無所見候。若流例御敍品、被宣下内記候乎云々。勘例注裏。
「【頭書】注進之外、尊雲法親王(【傍注】兵部卿護良親王事也)元應二年三月廿七日敍二品(延暦寺講堂供養呪願賞)。此例依不吉、無御注進。」
「【裏書】二十六日 法親王募勸賞御敍品例 ・・・・・」
今日被行小除目、・・・・・ 無品尊胤法親王令敍二品給。内記作進位記(草清共奏聞)。中務少納言等不參之間、無位記請印事云々。・・・・・
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『園太暦』延文五年正月(勘例)
尊胤親王 暦應三年四月廿六日敍二品(元無品。・・・・・)
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觀應元年(一三五〇)七月、天台座主を辭す。
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『師守記』觀應元年七月十七日
一、日吉~輿今日可有御下山之由御沙汰、駕輿丁催促云々。山上(【傍注】西塔)沙汰入眼歟。座主(【傍注】梶井宮)停廢事御兼約。院宣去十四日被下故云々。・・・・・
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『華頂要略』第百三十
二品尊胤親王(圓融坊)治山。
・・・・・
觀應元年七月辭之。
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貞和三年(一三四七)八月二十七日、天台座主(第百三十二世)に還補。
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『師守記』貞和三年八月廿七日丁酉
今夜、有座主宣下。・・・・・ 丑剋被行之。
二品尊胤法親王爲天台座主云々。
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『園太暦』貞和三年八月廿七日
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『天台座主記』第百卅二二品親王尊胤。治山四年
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『梶井圓融坊在住親王傳』尊胤法親王
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貞和三年(一三四七)八月二十九日、比叡山に登る。
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貞和四年(一三四八)八月二十一日、拜堂。
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『天台座主記』第百卅二二品親王尊胤。治山四年
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『梶井圓融坊在住親王傳』尊胤法親王
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「正平の一統」に際し、正平七年(一三五二)三月三日、南朝の手によって、光嚴院・光明院・崇光院・直仁親王と共に、河内國東條に遷される。
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『園太暦』正平七年三月四日「八幡敵襲來之由風聞、三院幸移東條事」
今朝聞。昨日江州已襲來八幡之由方々云々。就其騒動ヽ三院并宮御方【直仁親王】被奉移東條。又梶井尊胤親王去比被參、同被渡彼邊。而此風聞虚説、剩義詮已下引退不知行方云々。大炊御門元大納言氏忠卿來。謁之。去夜上皇已下幸東條。御輿供奉人實音朝臣【三條】也。ヘ言朝臣【山科】自内裏不可參之旨被仰。仍上北面範康舎弟範之ー(【傍注】不見)相副御輿。其躰ーー云々。不便ー。梶井宮垂髪一兩人、坊官一人、同歩行相從云々。盛衰只可彈指事也。
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『祇園執行日記』正平七年三月四日
參八幡御所。
一、本院、新院、法皇、宮御方(前春宮)自八幡被奉下河内東條廣河寺(自内裏沙汰、梶井宮御下東條同日)。
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『祇園執行日記』正平七年三月五日
一、依召參貫首。・・・・・ 又昨日參八幡事。仙洞御所御方々自八幡昨日被奉下河内東條事等申了。御不審處、委細實説被申目出之由、以大藏卿僧都被仰之。
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正平七年/文和元年(一三五二)六月二十一日、脱出、二十三日、京都に還る。
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『園太暦』文和元年六月廿四日
賀茂前~主ヘ久來曰。梶井二品親王(尊胤)公家寛宥、忽出家【京歟】之間、今日參申、被坐良重法印大炊御門油小路坊、隱遁之由歟。不被謁諸人。不可對面云々。
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『園太暦』文和元年六月廿七日
大外記師言大炊寮々務事歎申之。・・・・・ 又語曰。梶井二品親王逃南方虎口、逃脱之次第、言語道斷。所詮去廿一日、客飲守護武士酣醉、偸逃去出京云々。於武家隨分忠節之由被搆【稱歟】歟。就其第五宮門跡事悉解讓進師匠歟。誠尋器事歟。
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『祇園執行日記』文和元年七月三日
參梶井宮(門主)。自東條無爲還御(去月廿三日)目出之由、御祈致忠之旨、以按察都維那申入了。今度御歸京併冥助也。如此被申之條、~妙之由有御返事。
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文和元年(一三五二)十月十四日、天台座主(第百三十四世)に還補。
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『園太暦』文和元年十月十四日「座主宣下事」
傳聞。今日座主宣下也。青蓮院二品親王【尊圓親王】辭退、梶井二品親王(尊胤)重補。已及四箇度歟。・・・・・
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『天台座主記』第百卅四
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文和二年(一三五三)六月、後光嚴院の東遷に供奉。
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『園太暦』文和二年六月十三日
今朝巳二剋許、桓豪僧正許送飛脚、承仕法師也。語曰。山門公家・武家勢、今曉卯刻沒落。主上、梶井宮、同日三寶院等相伴、宰相中將沒落。欲渡湖上之處、無船、仍俄差北落了。・・・・・
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文和三年(一三五四)九月十三日、護持僧に補される。
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文和四年(一三五五)正月二十六日、源朝臣尊氏[足利]の招請により、近江國坂本に赴く。
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延文元年(一三五六)十月二十三日、病により護持僧を辭す。
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延文四年(一三五九)五月二日、薨逝。五十四歳。
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『後深心院關白記』(『愚管記』)延文四年五月二日甲午
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『延文四年記』五月三日乙未
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『大乘院日記目録』延文四年五月三日乙未
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『常樂記』延文四年己亥
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『太平記』巻三十三(梶井宮御隠事)
同年【延文四年】五月二日、梶井二品親王御隱有ければ、山門の悲歎、竹苑の御嘆、更に類なし。
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