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寛政四年(一七九二)二月九日卯半刻、葉室家において誕生。
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『紳御記(均光日次記)』寛政四年二月九日
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『禁裏執次詰所日記』寛政四年二月九日戊申
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『洞中執次詰所日記』寛政四年二月九日戊申
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『桂宮日記』寛政四年二月九日戊申
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『公明卿記』寛政四年二月九日
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寛政四年(一七九二)二月十五日、七夜の儀。「能布宮」と稱號が定められる。
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『洞中執次詰所日記』寛政四年二月十五日甲寅
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『桂宮日記』寛政四年二月十五日甲寅
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『俊矩記』寛政四年二月十五日甲寅
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『敬義卿記』寛政四年二月十五日
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寛政四年(一七九二)閏二月十日、參内。
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『伏見宮日記』寛政四年閏二月十日
一、今日、當今樣皇女能布宮御方、葉室殿里邸より御參内被爲在候也。
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寛政四年(一七九二)六月七日、「壽賀宮」と改稱。
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『洞中執次詰所日記』寛政四年六月七日甲戌
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『外樣言渡』寛政四年六月七日
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『篤長卿記』寛政四年六月七日甲戌
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寛政五年(一七九三)五月二日、發病。
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『篤長卿記』寛政五年五月八日庚子
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『禁裏執次詰所日記』寛政五年五月八日庚子
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『禁裏執次詰所日記』寛政五年五月九日辛丑
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寛政五年(一七九三)五月九日、曼殊院門跡里坊に移り、子刻、薨去。二歳。
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『均光日次記』寛政五年五月九日
壽賀宮(今年二歳)御違例、自今晩爲御養生、退出于曼殊院門跡里坊給。今夜令逝去給。自今日三ヶ日禁中・仙洞等被止物音。
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『禁裏執次詰所日記』寛政五年五月九日辛丑
一、壽賀宮樣爲御養生、今晩曼珠院御門跡御里坊江被爲成候旨、傳奏代衆被仰渡候段、御附衆被申聞。同役諸役所江申觸。 ・・・・・
一、壽賀宮樣御養生不被爲叶、今晩子剋薨去之旨、傳奏代衆より御附衆江御達有之。御附衆より被申達。則御附衆奧江伺御機嫌被申上。取次御賄頭同斷申上ル。
一、壽賀宮樣薨去ニ付、從今九日到十一日三ヶ日被止物音候旨、議奏衆甘露寺殿被仰渡。御附衆詰合ニ付直ニ申達ス。同役諸役所江申觸ル。
仙洞御所、 女院御所取次中江申遣ス。
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『伏見宮日記』寛政五年五月九日
壽賀宮樣御違例ニ付、爲御養生、自今晩曼殊院御門跡御里坊江被爲移候。仍爲御心得各迄可申入旨、議奏中被申付如此候、以上。
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『平田職厚日記』寛政五年五月九日辛丑
廣橋殿より壽賀宮樣御違例ニ付、爲御養生、自今晩曼殊院御門跡御里坊え被爲移候觸状到來之事。
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『仙洞女房日記』寛政五年五月九日
リ。評定よりよなかまへ壽賀宮樣御體書二度めの出候、言上也。とらの刻比、院傳に傳奏代ひろ橋前大納言殿御參にて、壽賀宮樣子ノ刻かうきよ【薨去】成候事、言上。御所三日のあいだものゝ音とゞめられ候由、言上候て、この御所も物の音とゞめられ候事、仰出され候。・・・・・
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『院中評定日次案』寛政五年五月九日辛丑
リ。壽賀宮薨去。自今日至來十一日三箇日、被停物音。
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『稿本光格天皇實録』七五二〜七五三頁 寛政五年五月九日、「皇女壽賀宮、薨ズ、仍ツテ是日ヨリ三箇日間、物音ヲ停メラル、」
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『稿本後櫻町天皇實録』一三四二頁 寛政五年五月九日、「光格天皇ノ皇女壽賀宮ノ薨去ニ依リ、是日ヨリ三箇日間、物音ヲ停メラル、」
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寛政五年(一七九三)五月十二日、「蓮體院」と法號が定められる。
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『勁槐記』寛政五年五月十二日
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『桂宮日記』寛政五年五月十三日乙巳
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寛政五年(一七九三)五月十六日、入棺。
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『篤長卿記』寛政五年五月十六日
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『國長卿記』寛政五年五月十六日
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寛政五年(一七九三)五月二十七日酉刻、葬送。般舟三昧院に葬られる。
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『伏見宮日記』寛政五年五月廿七日
壽賀宮樣(當今第二姫宮)今酉刻御葬送有之。御道筋曼珠院御門跡之御里坊より京極通を今出川般舟院江被爲成。
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『桂宮日記』寛政五年五月廿七日己未
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