実行王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[實行]

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實行王
 
【出自】
 系譜未詳。
 二世孫王と推定される。
 
【經歴】
貞觀十四年(八七二)十二月十三日、石川朝臣瀧雄の家地・墾田を購入した。この家地・墾田は、弘仁七年(八一六)十一月二十一日までに石川朝臣圓足の京家と交換された、小豐王(雄豐王)の舊家地・墾田であった。
『東大寺藥師院文書』弘仁七年十一月廿一日付「雄豐王家地相博券文」(貞觀十五年六月廿六日 大和國判)
相替家立券文事
 合壱區 地参段 墾田肆段壹佰歩
 
    東限並城王家西道 南限公田
  四至
    西限美濃女王家  北限公田
 
  在大和国添上郡春日郷(五上春日里五坪者)
右家、得左京五條一坊戸主正五位上淺井王戸口正
六位上小豊王辞状偁、以便宜左京六條一坊戸主正
六位上石川朝臣圓足之京家相替既畢。望請、依
法欲券文立者。依申状、刀祢等覆勘、所陳有
實。仍勒相替兩人署、言上如件、以解。
         弘仁七年十一月廿一日
以貞觀十四年十二月十三日  相替正六位上内舎人「雄豊王」
 与沽實行王、以同     證正六位上「真豊王」
 十五年六月廿六日立國判、仍 正六位上「廣井王」
   毀了、
郡判
 大領外従八位上物部清水  主政无位道祖「道麻□【呂】」
              主帳丸部
早稲田大学図書館所藏[リ05 03740 0008
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_03740/ri05_03740_0008/ri05_03740_0008_p0001.jpg
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri05/ri05_03740_0008/index.html

『平安遺文』第一卷 二八頁、第四二號文書
『東大寺薬師院文書』「石川瀧雄家地賣券」貞觀十四年十二月十三日(貞觀十五年六月二十六日 大和國判。貞觀十九年 山階寺僧恩正處分書入)
謹解 申賣買立家□□□□【地券文事
 合家壹區  地參段  墾田肆段壱佰歩(東五條五上春日里□/坪井四春日里卅二坪)
 四至(東限墾田東畔 南限公田/西限春日寺田 北限公田)立物三間檜皮葺屋壹宇
右家、得左京六條一坊戸主従七位下石川朝臣真
之戸口同姓宗我雄一男瀧□【雄】□【解】状偁已家充饒益
錢貳拾捌貫文價直与賣實行王既畢依勒賣
買兩人之署名欲立券文者刀祢覆勘所陳有實
□【仍】署名如件以解
       貞觀十四年十二月十三日賣人石川朝臣「瀧雄」
                    相賣人石川朝臣
                    買人「實行」王
                  保證刀祢
                   兵庫少允上【正】六位上伊勢朝臣「諸保」
                    正六位上「常長」王
    山階寺僧恩正處分已了      无位石川朝臣「瀧波」
    貞觀十九年           従八位上伊勢朝臣「清文【】」
           □□處分已了   従八位下辛人造「有利」
                   租徴使上毛野公「百吉」
                    従七位下滋原宿祢「清井」
                    従七位下土師「廣依」
                    正七位下坂上忌寸「豊足」

郡司
 擬大領道祖「kg」        權主政吉野連「直雄」
 郡老柿本朝臣「安吉」
 検校伊勢朝臣「蕃房」
        貞觀十五年六月廿六日勘大目大中臣朝臣
國判立券壹通    主料
 守在原朝臣      大掾 「棟道」王
 介坂上大宿祢「道」 權少掾私【和】朝臣
            少掾甘南備真人「弘範」
早稲田大学図書館所藏[リ05 03740 0009]「石川滝雄家地売券」(印記:大和国印、[添上郡印])
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『平安遺文』第一卷 一六四〜一六五頁、第一六六號文書
延喜十一年(九一一)四月十一日付「東大寺上座慶贊愁状」によると、石川瀧雄の家地・墾田(小豐王(雄豐王)の舊家地・墾田)を購入したのは實行王とされているが、これは、僧侶は墾田を所有できないという格制に觸れるのを恐れたためであり、實は命順大法師が買人であったという。この家地・墾田は、その後の相傳により慶贊の所有となっていたが、元興寺の僧、玄阿大法師に横領されたため、延喜十一年四月十一日、慶贊は、その家地・墾田の所有の保證を求めて願い出た。
『東大寺薬師院文書』「東大寺上座慶賛愁状」延喜十一年四月十一日
謹言
 請蒙 刀祢證署并郡□【判】□□□□□□□墾田等事
   家地參段(新開為田)墾田肆段佰歩
   並在添上郡京東五條五上春日里五坪并四春日里卅二坪
右検案内件墾田等故専寺造司専當命順大法師以去貞觀
十四年従本主石川朝臣瀧雄之手所買得也但彼大法師為
恐格制實行之名立券也□後件命順賜處分於弟子僧
恩正恩正譲与□□□□□□□□□与於慶賛而元興
寺僧玄阿大法師稱已墾田以妨領之仍頃年以彼公驗經愁
刀祢并郡衙随即彼此公驗可勘校之状下苻條司随即子公驗
可相向之状牒送玄阿大法師而件玄阿大法師左右遁避不向
公驗暗領地頭其由在條司并刀祢日記文望也蒙明裁任於公
驗將被与判仍副調度文□□□□
     延喜十一年四月十一日東大寺上座大法師「慶賛」
        件依慶讃大法師御愁郡以去延喜
        六年任彼此公驗可件坪々破定之由
        條司并刀祢等所被下帖也而條使刀
        祢等障公務経年不弁而依彼大大法
        師□【愁】□□□□四月十九日為破定件
        □□□□□□許可相逢公驗之由
        申送而慶讃大法師者公驗持向也彼
        玄阿大法師者公驗无相向又以今年
        三月十六日又可公驗向之由重申送而
        猶不出即玄阿大法師云々已附國
        郡帳元興寺田五段百歩是尤公験
        □□□□□□□□條司刀祢云何乍
        □□圖帳可無本公驗云々雖然聿无
        相逢而彼慶讃大法師所出公驗國
        郡判明白也仍加刀祢署
                 縣犬養
                 評  「浄常」
                 和迩部「福富」
                 新田部「廣常」
                 和迩部「貞心【】」
                 櫟井 「石雄」
                 丈部 「有岑」
                 伊勢 「安伊」
                 榎井「有數」
                 秦 「古吉」
□依刀祢等證験加署印
国老 紀 「田雄」   擬主政大宅「真演【】」
国目代高橋「興良」   擬主帳秦 「福利」
  古日佐「良雄」
郡老 大 宅「金方」
少領 道 守「是則」
早稲田大学図書館所藏[リ05 03740 0010]「東大寺上座慶賛愁状」
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_03740/ri05_03740_0010/ri05_03740_0010_p0001.jpg
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『平安遺文』第一卷 第二〇六號文書
從四位下に敍される。
美作守となる。
元慶二年(八七八)四月二日、次侍從となる。時に從四位下美作守。
『日本三代實録』元慶二年四月二日丁卯
是日、 詔以大舍人頭從四位上有佐王、從四位下美作守實行王、從五位下行内膳正連扶王、從五位下行右兵庫頭廣山王、攝津守從五位上在原朝臣安貞、・・・・・ 等、爲次侍從。
元慶三年(八七九)正月七日、從四位下から從四位上に敍される。時に美作守。
『日本三代實録』元慶三年正月七日丁酉
授從四位下行美作守實行王從四位上。
元慶六年(八八二)七月二十八日、參上しなかった右相撲司の雅望王らに替わり、その闕を補う。時に散位正四位下。
『日本三代實録』元慶六年七月廿八日戊辰
右相撲司從四位下雅望王、正四位下源朝臣直、從五位下【上】藤原朝臣敏行並謝病不上。以散位從四位上實行王、正四位下平朝臣房世、侍從從五位上藤原朝臣佐名補其闕。
 
【文獻等】
泉谷康夫「大和国の墾田 ―― 古代的景観の復元と関連して ――」『古文化財教育研究報告』五、奈良教育大学、一九七六年三月、79〜83頁
 http://hdl.handle.net/10105/354


 
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公開日時: 2021.09.23.
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