源正明


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[齊明]

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齊明[王]
 
のち 源朝臣齊明
源朝臣正明 たゝあきら
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「源正明(五十九)」
五月廿二日兼彈正大弼。本名齊明。寛平五年癸丑生。
 
【出自】
 光孝天皇二世
 
是忠親王の男子。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
 
【經歴】
*齊明王
寛平五年(八九三)生。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
五月廿二日兼彈正大弼。本名齊明。寛平五年癸丑生。
延喜十年(九一〇)正月七日、從四位下に敍される。十八歳。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
二世孫王として、無位から從四位下に直敍された。
延喜十四年(九一四)正月十二日、美濃守に任じられる。二十二歳。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
延喜十五年(九一五)二月二十二日、丹波權守に任じられる。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
延喜十七年(九一七)正月二十日、侍從となる。二十五歳。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
延喜二十一年(九二一)正月三十日、左馬頭となる。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
延長二年(九二四)八月九日、丹波權守を兼ねる。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
源朝臣齊明
延長二年(九二四)八月九日から延長三年(九二五)十一月十四日の間に源朝臣を賜姓される。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
延長三年(九二五)十一月十四日の新嘗祭に參仕。時に左馬頭。
『政事要略』卷二十六「年中行事」十一月二「中卯新嘗祭事」所引『吏部記』延長三年十一月十四日
新嘗祭。雨降。上【醍醐天皇】不幸中院。是夜、小忌。參議治部卿【藤原當幹】、左少辨元方【藤原】、少納言俊房【藤原】、内膳正忠茂王、左馬頭齊明、左衞門佐有正【藤原】正座定。・・・・・
延長六年(九二八)正月七日、治國の功により從四位上に昇敍される。三十六歳。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
源朝臣正明
延長三年(九二五)十一月十四日以降、遲くとも承平七年(九三七)十一月二十三日以前に、正明と改名。
承平三年(九三三)正月十二日、加賀權守を兼ねる。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
承平四年(九三四)十二月二十一日、右近衞中將に任じられる。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
承平六年(九三六)正月二十九日、伊勢權守を兼ねる。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
承平七年(九三七)三月八日、紀伊權守を兼ねる。
承平七年(九三七)十一月、春日祭使に選ばれたが、祭の當日の二十二日が父 是忠親王の命日に當るため、春日祭使を辭退し、源朝臣爲善に改替させた。
前田家大永鈔本『西宮記』臨時六「祭使事」所引『九記』承平七年十一月廿三日
春日使正明朝臣、當廿二日父【是忠親王】薨日【※延喜二十二年十一月二十二日薨】。仍申其由、以右兵衞佐爲善【源】被差改。但一事已上中將【源正明歟】儲之云々 ・・・・・
『大日本史料』第一編補遺(別冊四)、四八頁
天慶四年(九四一)三月二十八日、伊勢權守を兼ねる。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
天慶八年(九四五)二月四日、觸穢により、春日祭使として發向できず。
『貞信公記抄』天慶八年二月四日辛未
春日祭使正明朝臣【源】俄依觸穢不能發向者。・・・・・
天慶八年(九四五)十一月二十五日、左近衞中將に轉じる。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
天慶九年(九四六)十月二十八日、村上天皇の大嘗會御禊に、左大將代として勤仕。
『大嘗會御禊部類記』所引『九條殿御記』天慶九年十月廿八日乙酉
・・・・・ 下官著靴、經階下西度、立於南階西頭。左大將【藤原實ョ】代中將源朝臣正明、相對而立於東頭。・・・・・
天暦元年(九四七)六月六日、讚岐權守を兼ねる。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
天暦五年(九五一)正月三十日、參議に任じられる。五十九歳。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
      [光孝天皇御孫【く・し】]。一品式部卿親王男。[母【く・し】]。
延木十正七從四下。十四年正十二美乃守。十五年二廿二丹波權守。十七年正廿侍從。廿一年正卅左馬頭。延長二八九兼丹波權守。同六正七從四上(源氏。治國)。承平三正十二兼加賀權守。同四十二廿一右中將。同六正廿九兼伊勢權守。同七三八兼紀伊權守。天慶四三廿八兼伊勢權守。同八十一廿五左中將。天暦元六六兼讃岐權守。同五正卅任三木。
『一代要記』丙集「村上天皇」參議「源正明」
從四位上左中將。天暦五年正月三十日任。年七十一【ママ】。同六年【ママ】彈正大弼。二月七日正四位下。天コ二年三月九日卒。
天暦五年(九五一)五月二十二日、彈正大弼を兼ねる。
『公卿補任』天暦五年 參議 從四位上「同【源】正明(五十九)」
五月廿二日兼彈正大弼。本名齊明。寛平五年癸丑生。
天暦六年(九五二)正月七日、正四位下に昇敍。六十歳。
『公卿補任』天暦六年 參議 正四位下「源正明(六十)」
彈正大弼。正月七日正四下。十一月兼讃岐權守。
天暦六年(九五二)十一月、讚岐權守を兼ねる。
『公卿補任』天暦六年 參議 正四位下「源正明(六十)」
『公卿補任』天暦七年 參議 正四位下「源正明(六十一)」
彈正大弼。讃岐守【ママ】。
『公卿補任』天暦八年 參議 正四位下「源正明(六十二)」
彈正大弼。讃岐守【ママ】。
天暦八年(九五四)十二月十一日、~今食に參仕。
『西宮記』「六月神今食」所引『村上天皇御記』天暦八年十二月十一日
『三代御記逸文集成』所收『御記纂』一〇六頁
~今食祭云々。參議正明朝臣【源】一人行祭事。・・・・・
天暦九年(九五五)二月七日、大和權守を兼ねる。
『公卿補任』天暦九年 參議 正四位下「源正明(六十三)」
彈正大弼。二月七日兼大和權守。
『公卿補任』天暦十年 參議 正四位下「源正明」
彈正大弼。大和權守。
『公卿補任』天コ元年 參議 正四位下「源正明(六十五)」
彈正大弼。大和權守。
天コ二年(七五八)三月九日、卒去。六十六歳。時に參議正四位下。
『公卿補任』天コ二年 參議 正四位下「×源正明(六十六)」
彈正大弼、大和權守。三月九日卒(在官八年)。生寛平五年癸丑。六十六。
 
【備考】
吹上本『帝王系圖』、是忠親王の子 源正明の右袖書に「大藏正四位下」とある(稿本光孝天皇實録』 二八二頁所引)が、「大藏」とあるのは誤りであろう。
 
【配偶】
 伊勢守もろみちの娘
『大和物語』上
伊勢のかみもろみちのむすめを、たゝあきらの中將のきみにあはせたりける時に、そこなりけるうなゐを、右京のかみ【源宗于】よひいてゝ、かたらひて、あしたによみてをこせたりける。
 置露のほとをもまたぬ朝かほはみすそ中々々有へかりける
 
【子女】
 源朝臣助理
角田文衛「大輔の命婦」における推定によると、祐子女王(重明親王の女子とするのは誤り)との間に、左京大夫源朝臣明理、民部大輔源朝臣方理の兩男を儲けた、という。
 
【文獻等】
東京大學史料編纂所編纂『大日本史料』第一編之十、四三五〜四三六頁、天コ二年三月九日(庚寅)「參議正四位下源正明卒ス、」
稿本光孝天皇實録』 二八一〜二八二頁 「皇孫正明」



 
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公開日時: 2021.11.02.

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