公紹入道親王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[公紹]

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【僧】公紹親王 コウセウ 
 輪王寺宮(十一)
 一品
 天台座主
 もと
彰信親王 あきこと
 
【幼稱】
 「菊宮」 きくのみや
 
【法號】
 「普賢行院宮
 
【出自】
 韶仁親王[有栖川宮]の三男。
 光格天皇[太上天皇]の養子。
 舜仁親王[輪王寺宮](織仁親王[有栖川宮]の四男)の附弟。
 
【生母】
 平朝臣勝子
 家女房「千里」
 豐嶋民部權少輔平朝臣勝文の養女。
 
【養母】
 宣子女王
 「實枝宮
 韶仁親王の御息所。美仁親王[閑院宮]の五女。
 
【經歴】
文化十二年乙亥(一八一五)九月十二日寅上刻、京都有栖川宮邸別棟局九疊敷間において誕生。
文政七年(一八二四)六月二日、誕生日を九月十三日に改める。
「菊宮」
文化十二年(一八一五)九月十八日、「菊宮」(きくのみや)と幼稱を賜わる。
青蓮院門跡より附弟に所望される。
文政四年(一八二一)九月十六日、宣子女王を嫡母と内定する。
文政五年(一八二二)十二月十六日、深曾木・著袴。八歳。
文政六年(一八二三)七月二十九日、輪王寺宮より附弟に所望される。
「菊宮」[輪王寺附弟]
文政七年(一八二四)四月二十六日、輪王寺門跡舜仁親王(織仁親王[有栖川宮]の四男)の附弟となる。
文政七年(一八二四)四月二十六日、光格天皇[太上天皇]の養子となる。十歳。
文政七年(一八二四)六月二日、誕生日を九月十三日に改める。
文政七年(一八二四)八月十三日、准母が新大納言局藤原朝臣正子(園大納言基理卿の猶子。高野故三位藤原朝臣保季卿の女子)に治定される。
文政八年(一八二五)二月二日、童名を「義丸(いさまる)」と定められる。
文政十年(一八二七)三月十一日、輪王寺河原里坊に移る。
文政十年(一八二七)三月二十四日、親王宣下に先立ち、諱を「彰信(安幾古登)」と賜わる。
彰信親王[輪王寺附弟]
文政十年(一八二七)三月二十五日、親王宣下
『禁裏執次詰所日記』文政十年三月廿五日庚子
リ。
一、今日辰剋輪王寺菊宮親王宣下。
  上卿 コ大寺大宮大夫   辨 萬里小路辨   奉行職事 葉室頭辨
・・・・・
一、菊宮御方彰信(安幾古登)
  右四ツ折ニ認御附衆可相達旨、議奏衆より被出、則相達。
・・・・・
稿本仁孝天皇實録』五二九〜五三一頁 文政十年三月二十五日、「是日、有栖川宮韶仁親王ノ王子菊宮ニ親王宣下アリ、名ヲ彰信ト賜フ、」
公紹親王[輪王寺附弟]
文政十年(一八二七)四月二十五日、輪王寺河原里坊に入寺、得度。法諱「公紹」。以後、「輪王寺新宮」「日光新宮」と稱される。
文政十年(一八二七)六月二日、河原里坊より關東へ發輿。同月十七日、上野東叡山輪王寺に入寺。
文政十一年(一八二八)正月三十日、二品に敍される。十四歳。
天保六年(一八三五)正月二十二日、一品に敍せらる。二十一歳。
少外記平田家記録 H206-3
天保十三年(一八四二)九月二十一日、上洛。
天保十三年(一八四二)九月二十九日、天台座主に補せらる。
天保十三年(一八四二)十一月二十日、歸府。
公紹親王[輪王寺門跡]
天保十四年(一八四三)九月十九日、舜仁親王の「隱居」(實は十一日死亡)により輪王寺門跡を繼承する。二十九歳。
弘化二年(一八四五)九月三十日(イ十月一日)死亡。三十一歳。十月一日、密葬秘喪。
『系圖纂要』「有栖川宮」六一一頁は「弘化二年九ノ廿九薨」と作す。
弘化三年(一八四六)十月十八日、輪王寺門跡を辭す。
弘化三年(一八四六)十月十九日「薨」(發喪)。
弘化三年(一八四六)十月二十五日、東叡山慈眼堂境内に葬られる。法號「普賢行院宮」
『詰所系圖』に「弘化三年十月二十七日遷化」とあるが、二十七日は薨奏の日付。
 
【文獻等】
『韶仁親王行實』 二六〇〜二六八頁
『詰所系圖』光格天皇 六三頁
『系圖纂要』「有栖川宮」 六一一頁
新修 有栖川宮系譜』 七五〜七六頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 二五頁


 
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更新日時: 2012.06.15.
公開日時: 2008.09.12.

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