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文化十二年乙亥(一八一五)九月十二日寅上刻、京都有栖川宮邸別棟局九疊敷間において誕生。
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文政七年(一八二四)六月二日、誕生日を九月十三日に改める。
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「菊宮」
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文化十二年(一八一五)九月十八日、「菊宮」(きくのみや)と幼稱を賜わる。
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青蓮院門跡より附弟に所望される。
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文政四年(一八二一)九月十六日、宣子女王を嫡母と内定する。
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文政五年(一八二二)十二月十六日、深曾木・著袴。八歳。
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文政六年(一八二三)七月二十九日、輪王寺宮より附弟に所望される。
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「菊宮」[輪王寺附弟]
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文政七年(一八二四)四月二十六日、輪王寺門跡舜仁親王(織仁親王[有栖川宮]の四男)の附弟となる。
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文政七年(一八二四)四月二十六日、光格天皇[太上天皇]の養子となる。十歳。
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文政七年(一八二四)六月二日、誕生日を九月十三日に改める。
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文政七年(一八二四)八月十三日、准母が新大納言局藤原朝臣正子(園大納言基理卿の猶子。高野故三位藤原朝臣保季卿の女子)に治定される。
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文政八年(一八二五)二月二日、童名を「義丸(いさまる)」と定められる。
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文政十年(一八二七)三月十一日、輪王寺河原里坊に移る。
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文政十年(一八二七)三月二十四日、親王宣下に先立ち、諱を「彰信(安幾古登)」と賜わる。
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彰信親王[輪王寺附弟]
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文政十年(一八二七)三月二十五日、親王宣下。
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『禁裏執次詰所日記』文政十年三月廿五日庚子
リ。
一、今日辰剋輪王寺菊宮親王宣下。
上卿 コ大寺大宮大夫 辨 萬里小路辨 奉行職事 葉室頭辨
・・・・・
一、菊宮御方彰信(安幾古登)
右四ツ折ニ認御附衆江可相達旨、議奏衆より被出、則相達。
・・・・・
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『稿本仁孝天皇實録』五二九〜五三一頁 文政十年三月二十五日、「是日、有栖川宮韶仁親王ノ王子菊宮ニ親王宣下アリ、名ヲ彰信ト賜フ、」
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公紹親王[輪王寺附弟]
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文政十年(一八二七)四月二十五日、輪王寺河原里坊に入寺、得度。法諱「公紹」。以後、「輪王寺新宮」「日光新宮」と稱される。
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文政十年(一八二七)六月二日、河原里坊より關東へ發輿。同月十七日、上野東叡山輪王寺に入寺。
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文政十一年(一八二八)正月三十日、二品に敍される。十四歳。
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天保六年(一八三五)正月二十二日、一品に敍せらる。二十一歳。
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天保十三年(一八四二)九月二十一日、上洛。
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天保十三年(一八四二)九月二十九日、天台座主に補せらる。
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天保十三年(一八四二)十一月二十日、歸府。
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公紹親王[輪王寺門跡]
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天保十四年(一八四三)九月十九日、舜仁親王の「隱居」(實は十一日死亡)により輪王寺門跡を繼承する。二十九歳。
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弘化二年(一八四五)九月三十日(イ十月一日)死亡。三十一歳。十月一日、密葬秘喪。
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『系圖纂要』「有栖川宮」六一一頁は「弘化二年九ノ廿九薨」と作す。
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弘化三年(一八四六)十月十八日、輪王寺門跡を辭す。
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弘化三年(一八四六)十月十九日「薨」(發喪)。
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弘化三年(一八四六)十月二十五日、東叡山慈眼堂境内に葬られる。法號「普賢行院宮」
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『詰所系圖』に「弘化三年十月二十七日遷化」とあるが、二十七日は薨奏の日付。
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