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一三〇八年(延慶元年)生。
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正中二年(一三二五)十一月より以前に、梶井に入室。
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『新撰座主傳』一「第百十六 三(【傍注】無イ)品尊雲親王(圓融坊) 治山」
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◎ |
『梶井圓融坊在住親王傳』「尊雲法親王(號大塔宮/第二十八世)」
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◎ |
『諸門跡傳』圓融坊「尊雲法親王」
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※ |
平田俊春「後醍醐天皇の御宏圖と諸皇子の御活動」五〇〜五一頁
護良親王は、御母は藤原經子。御幼少より利根聰明におはしました。續史愚抄は文保二年二月廿六日梶井門跡入室の若宮を親王に擬し奉つてゐるが、最近の研究によりそれは別の方であり(註一)、親王が梶井門主になられたのは正中二年十一月廿五日であり、(三千院文書)それ以前は梶井門跡の一門徒たる「大塔」に入室遊ばされたものであることが明かとなつた。親王を「大塔宮」と御申上げるのは、これによるのである(註二)。但しその大塔御入室の時期は正中二年十一月以前といふだけで、定かではない。太平記には「御元服ノ儀ヲ改メラレ、梨本ノ緒門跡ニ御入室」とある。梶井門跡御繼承の御時は十九歳にまし々々た。嘉暦元年九月御得度、大僧都に任ぜられた。元弘二年御還俗まで、御名を尊雲と稱し給うた。
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同五四頁、註〔一〕
松本周二學士「大塔宮の梶井御入室疑義」(歴史地理第七六卷第二、三號)
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同五四頁、註〔二〕
勝野髏M氏「大塔宮御稱號考」(歴史地理第七十二卷第三、四號)參照。・・・・・
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尊雲
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嘉暦元年(一三二六)九月、得度。法名「尊雲」。大僧都となる。
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尊雲親王
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嘉暦二年(一三二七)十二月六日、親王宣下。三品に敍される。第百十六世天台座主に補される。二十歳。
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『天台座主記』「第百十六 三品親王尊雲(大塔宮)治山三年」
御醍醐院皇子 嘉暦二年(丁卯)十二月六日任(御歳二十)。
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『天台正嫡梶井門跡略系譜』「尊雲親王」
嘉暦二年十二月六日 補天台座主(二十才)
同日 敍三品(元大僧都)
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『釋家官班記』上 三品親王
山
尊雲 山大塔。嘉暦二年二月【ママ】六日敍(元大僧都)。
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『諸門跡傳』圓融坊「尊雲法親王」
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◎ |
『梶井圓融坊在住親王傳』「尊雲法親王(號大塔宮/第二十八世)」
嘉暦二年十二月六日敍三品。同三年【ママ】十二月補天台座主。梨本・大塔兩門跡管領。
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嘉暦四年(一三二九)二月十一日以前、天台座主を辭す。
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『新撰座主傳』一「第百十六 三(【傍注】無イ)品尊雲親王(圓融坊) 治山」
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◎ |
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元コ元年(一三二九)十二月十四日、第百十八世天台座主に還補される。
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『新撰座主傳』一「第百十八 尊雲(【傍注】二品イ)親王(圓融坊)治山二年」
元コ元年十二月廿(【傍注】十)四日還補(廿二歳)。
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◎ |
『天台座主記』「第百十八 三品親王尊雲」
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◎ |
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元コ二年(一三三〇)三月二十七日、二品に昇敍(延暦寺大講堂供養呪願賞)。
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『大外記C原良季記』元コ二年三月廿七日
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『新撰座主傳』一「第百十八 尊雲(【傍注】二品イ)親王(圓融坊)治山二年」
元コ二年三月廿七日行幸於山門。以中堂北禮堂爲御祈。同日被遂行大講堂供養(咒願座主。導師妙法院尊澄親王)。同日以座主宮敍二品。
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『釋家官班記』上 二品親王
山
尊雲 元コ二年三月廿七日敍(元无品)。延暦寺講堂供養咒願賞。
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元コ二年(一三三〇)四月二十三日以前、天台座主を辭す。
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『新撰座主傳』一「第百十八 尊雲(【傍注】二品イ)親王(圓融坊)」
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◎ |
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元弘元年(一三三一)八月二十四日、天台座主尊澄親王と共に僧徒に命令を下して、二十五日、六波羅勢を坂本に防禦させる。
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『増鏡』十八「むら時雨」
むかし龜山院に御子など産み奉りて候ひし女房、この頃は后(【傍注】禧子)の宮の御方にて民部卿三位(【傍注】親子)と聞ゆる御腹に、當代(【傍注】御醍醐)の御子もいでものし給へりし。山の前座主にて、今は大塔の二品法親王尊雲と聞ゆる。いかでならはせ給ひけるにか、弓ひく道にもたけく、大かた御本性はやりかにおはして、この事をも、おなじ御心におきての給ふ。又、中務のみこ(【傍注】尊良)のひとつ御腹に妙法院の法親王尊澄と聞ゆるは今の座主にてものし給へば、かたがた比叡の山の衆徒も御門の御軍に加はるべきよし奏しけり。つゝむとすれど事廣くなりにければ、武家にもはやう漏れ聞えて、さにこそあなれと用意す。まづ九重もきびしくかため申すべしなどさだめけり。かくいふは元弘元年八月廿四日なり。・・・・・ 廿五日の曙に武士どもみち々々て御門の親しく召しつかひし人々の家々へ押入り押入りとりもてゆくさま、ごくそつとかやの顯れたるかと、いとおそろし。・・・・・ 坂本には行幸をまち聞え給ひけるに引きたがへ南ざまへおはしましぬれば、そのよし衆徒に聞かれなば、あしかりぬべし。又とまれかくまれまことのおはしまし所をさうなく武家へ知らせじのたばかりにやありけむ、花山院の大納言師賢を山へつかはして、忍びて御門のおはしますよしにもてないて、かの兩法親王(【傍注】尊雲・尊澄)事行ひ給ひつゝ、六波羅のつはものどものかこみを防がせ給ふ。その日は大納言(【傍注】師賢)も大塔の前座主の宮(【傍注】尊雲)も、うるはしき武士姿にいでたゝせ給ふ。卯花をどしの鎧に、鍬形の兜たてまつり、大矢おひてぞおはする。
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● |
元弘元年(一三三一)八月二十九日、比叡山を脱出し、笠置山に潛行。
◎ |
『増鏡』十八「むら時雨」
御門笠置におはしますよし程なくきこえぬれば、謀られ奉りにけるとて、山の衆徒も、せう々々心がはりしぬ。宮々(【傍注】尊雲・尊澄)も逃げいでたまひて笠置へぞまうで給ひける。
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※ |
『太平記』によると、大塔宮は、九月二十九日夜に八王子社の陣を離れ、戸津濱から小舟に乘って石山へ逃れ、石山から先は尊澄親王と行動を別にして、十津川の奧を目指して奈良に移った、とされる。
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元弘元年(一三三一)九月、尊澄親王と共に笠置山を脱出し、赤坂城へ移る。
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● |
赤坂落城後、長谷、更に熊野へ移り、元弘元年(一三三一)冬、十津川の竹原八カ入道の館に寄寓。
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『増鏡』十九「久米のさら山」
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※ |
『太平記』によると、大塔宮は、笠置城の状況を確かめるために奈良の般若寺に潛んでいたが、笠置が落城した後、興n寤齪ゥ院の侍法師 按察法眼好專が般若寺に攻め寄せてきて、大塔宮は大般若經の唐櫃の中に隱れて追手を逃れ、熊野を目指して、光林房玄尊、赤松律師則祐、木寺【小寺】相模、村上彦四カ義光、片岡八カ、矢田彦七、平賀三カら九人と共に十津川へ落ち、竹原八カ入道の甥、戸野兵衞の家に落ち着き、その後、竹原八カ入道の館に移った。
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*尊邦親王
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元弘二年(一三三二)二月五日より以降(三月か)、還俗。名を「尊邦」と稱したと考えられる。
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『座摩宮古記』所引 元弘三年二月五日付「二品法親王令旨」
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『諸門跡傳』圓融坊「尊雲法親王」
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『梶井圓融坊在住親王傳』「尊雲法親王(號大塔宮/第二十八世)」
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高野山文書『寶簡集』四十 所引 元弘三年五月十五日付「尊邦願文」
敬白 立願事
右、今度入洛無相違者、當山舊領事、可有其沙汰、仍立願如件、
元弘三年五月十五日 尊邦《花押》
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・『鎌倉遺文』第三二一六二號文書「尊邦親王願文」(古文書編 第四十一巻、二六五(一六二五六)頁)
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*尊邦親王
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● |
元弘二年(一三三二)五月十五日より以降、名を「護良」と改めたと考えられる。また、自ら兵部卿と稱したか。
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高野山文書『寶簡集』四十 所引 元弘三年五月十五日付「尊邦願文」
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熊野から大峯をめぐり、元弘二年(一三三二)十一月までに吉野に移る。令旨を發し、反幕府活動を續ける。
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『花園天皇宸記』元弘二年六月六日
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◎ |
『増鏡』十九「久米のさら山」
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※ |
『太平記』によると、十津川の竹原八カ入道の館を離れ、芋Pを經た先にて玉置庄司に攻められるが野長P六カ・七カ兄弟に援けられ、槇野に入り、さらに吉野へ移った。
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● |
元弘二年(一三三二)十二月二十五日、紀伊國丹生明~の寶前に、(幕府討滅の)所願の成就を祈願。
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高野山文書『寶簡集』四十 所收 元弘二年十二月廿五日付「二品親王願文」
今度所願令成就者、於丹生明~之寶前、以十二禪侶、可始長日不断之護摩、且如舊可專人法佛法之紹驕A仍所立願状如件、
元弘貳年十二月廿五日
二品親王《花押》
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・『大日本古文書 高野山文書』一、五二三頁
・森茂暁「大塔宮護良親王令旨について」一九六頁
・『鎌倉遺文』第三一九三二號文書「護良親王願文」(古文書編 第四十一巻、一六六(一六一五七)頁上)
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● |
正慶二年(一三三三)二月三十日、幕府は大塔宮と楠木兵衞正成の平定に賞を懸けた。そして、さらに、『楠木合戰注文』によると、幕府は、大塔宮を誅罰した者には、「たとひ諸寺諸山非職員外の住侶たりといへども、たとひ凡卑放埓にて黨賊徒に與同の衆たりといへども、近江國麻生庄を宛て賜ふべきなり」と公示した。。
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※ |
平田俊春「後醍醐天皇の御宏圖と諸皇子の御活動」六五頁 註〔二〕
北條氏が大塔宮と楠公を最大の敵にしてゐたことは、左の前田文書の如き内容の文書を元弘三年十二月末頃出したものが多く現存してゐること、
「大塔宮并楠木兵衞正成事、爲二誅伐一所レ發二遣軍勢一也、早成二一揆之思一令レ對二治凶徒一者、可レ有二其賞一之状、依レ仰執達如レ件
正慶二年二月卅日 右 馬 權 頭 判
相 摸 守 判
東大寺衆徒
御中」
更に遂に左の如き觸を出すに至つたことが楠木合戰注文に見えるのにより、よく察することが出來よう。
「一大塔宮御事
廻二籌策一可レ奉レ捕之由、先日雖レ被レ仰、於二向後一者、須レ奉二誅罰一、縱雖レ爲二諸寺諸山非職員外之住侶一、縱雖レ爲下凡卑放埓與二同黨賊徒一之衆上、可レ宛二賜近江國麻生庄一也、
一楠木兵衞正成事
於下加二誅戮一之仁上者、可レ被レ宛二行丹後國船井庄一、不レ可レ依二其身之不可、品秩之卑一之子細同レ前、」
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元弘三年(一三三三)閏二月一日、吉野城が落城。高野山へ逃れ、引き續き令旨を發し、反幕府活動を續ける。
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『續史愚抄』正慶二年閏二月一日乙丑
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※ |
『太平記』によると、元弘三年二月十六日、二階堂出羽入道道蘊が吉野城に攻め寄せ、十八日朝から攻撃を開始。吉野落城の際、村上彦四カ義光は、大塔宮の身代わりとなって自害。義光の子 兵衞藏人義驍ヘ、追撃する敵勢を防いで大塔宮を逃がした後に自害した。
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元弘三年(一三三三)五月十日までに、「將軍宮」と自稱。
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『攝津勝尾寺文書』元弘三年五月十日付「將軍宮令旨案」
・『大阪府史』第三巻、609頁 写真
・『鎌倉遺文』第三二一四六號文書「大塔宮(護良親王)令旨案」(古文書編 第四十一巻、二六一(一六二五二)頁
・『箕面市史』
※ 森茂暁「大塔宮護良親王令旨について」二〇一頁、二一五頁 注(21)
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鎌倉幕府滅亡後も、大和國志貴山(信貴山)毘沙門堂に陣を張り、上洛せずに留まる。
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『元弘日記并裏書』元弘三年六月十三日
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※ |
『太平記』によると、元弘三年六月三日、大塔宮が志貴山毘沙門堂にいることが知れわたり、おびただしい軍勢が結集した。
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元弘三年(一三三三)六月十三日、後醍醐天皇が護良親王の立場を追認したため、武装して入洛。同日、征夷大將軍に補される。
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『元弘日記并裏書』元弘三年六月十三日
十三日、大塔宮御入洛。此頃和州志貴毘沙門堂御座。
今日補征夷將軍。去年還俗奉號護良。
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『増鏡』二十「月草の花」
十三日【正慶二年六月】、大塔の法親王(【傍注】尊雲)、みやこ【都】に入り給ふ。この月比に御ぐしおほして、えもいはずきよらなるをとこ【男】になり給へり。からのあか地【赤地】のにしき【錦】の御よろひ【鎧】ひたゝれ【直垂】といふものたてまつりて【奉りて】、御馬にてわたり給へば、御とも【供】にゆゝしげなるものゝふども、うち圍みて、御門(【傍注】御醍醐)の御供なりしにも、ほと々々おとる【劣る】まじかめり。すみやかに【速に】將軍の宣旨かうふり給ひぬ。
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北畠親房『職源抄』下「征夷使」
大將軍一人。・・・・・ 中務卿宗尊親王下向已後、四代親王任之。元弘一統之初、兵部卿護良親王暫任之。・・・・・
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『太平記』によると、六月十三日に入洛すべきところ、その豫定が遲れる間に大塔宮は軍備を整えた。後醍醐天皇は、藤原朝臣C忠[坊門右大辨宰相]を勅使として志貴山に遣わして、護良に私兵を解散して再び門跡となるべきことを諭したが、これを拒否。源朝臣高氏[足利]の打倒を企圖。大塔宮を宥めるために征夷大將軍の宣旨が下され、大塔宮は六月十七日に志貴を出立、八幡に七日間、逗留し、六月二十三日に入京した。
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※ |
久保田収『建武中興』(日本教文社、昭和四十年九月)69〜70頁
高氏の野望を見抜かれた親王は、小さな芽の中にこれを討つように主張せられたのであるが、天皇は、高氏の野望がいまだ形として表面に出ていないので、これを討つわけにはいかないと、この点はみとめられなかったが、親王の考えられているところを汲んで、高氏をおさえるために、親王を征夷大将軍に任命されたのである。文武の大権が二つにわかれ、兵馬の実権が高氏の手にうつることを警戒されて、この処置となったのである。
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元弘三年(一三三三)八月末から九月初の間に、征夷大將軍を解任される。あらためて兵部卿に任じられたか。
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久保田収『建武中興』(日本教文社、昭和四十年九月)70頁
征夷大将軍の任命が、直接、高氏を目標としての予防処置であるとすると、この任命は臨時のものであって、恒久的な官職としては考えられなかったとみるべきであろう。事実、護良親王が征夷大将軍に任ぜられていたのは、短期間のようである。それがいつごろまでであったかは明らかでないが、元弘三年(一三三三)八月までは、「宮将軍令旨」とか「将軍宮令旨」などとみえているけれども、九月以後には見当たらぬところをみると、御退任の時期は八月の末ごろであろう。『職源抄』にも、護良親王が征夷大将軍となられたことについて、「暫らくこれに任ず」とあるから、その御在任はわすかな期間であった。また護良親王の退任以後、親王につづいて征夷大将軍が任命された様子もないから、全くの臨時の処置といわなくてはならない。したがって、このとき親王の征夷大将軍任命は、従来の武家政治の首領という意味とは全く違って、むしろ逆に、武家政治の出現を予防しようとする臨時的な方法として用いられたものであった。
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建武元年(一三三四)六月七日、自ら兵を率いて源朝臣尊氏[足利]の宿館を襲撃しようと試みる。
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『梅松論』
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『太平記』によると、親王は、強い弓を射る者、大刀を使う者を集め、彼らは毎夜、京や白河に出沒し、辻切りを行なったが、これは、親王が足利尊氏を討つために兵を集めて武藝を磨くためであった、という。
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建武元年(一三三四)十月二十二日夜、謀叛の廉で武者所において拘束され、二十三日、常盤井殿に遷される。
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『梅松論』
・・・・・・ 十月二十二日【建武元年】の夜、親王御參内の次を以、武者所に召籠奉て、翌朝に常盤井殿へ遷し奉り、武家輩警固し奉る。
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・『梅松論・源威集』(新撰日本古典文庫 三)(矢代和夫・加美宏校注。現代思潮社、一九七五年八月)、六七頁。同二〇九〜二一一頁、注九八〜一〇〇。
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『保暦間記』
粤ニ兵部卿親王、世ノ心ニ任ヌ事ヲ安カラズニ覺エテ、天下ヲ亂シ給ヒ、御位ヲ退テ、我御宮(入道親王妹腹)二歳ニ成セ給フ宮ヲ位ニ奉付テ、尊氏以下可去武士ヲ打テ天下ヲ我儘ニセント思立賜フ。此事如何シテ聞エケン、主上驚セ給テ、兵部卿親王ヲ同十月卅日ニ内裏ニテ奉取テ、尊氏舎弟左馬頭直義ガ鎌倉ニ有ケルニ預置ル。彼ノ御方ノ武士多ク誅セラレケリ。
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建武元年(一三三四)十一月十五日、馬場殿に幽閉され、源朝臣尊氏[足利]が護良親王を鎌倉に遷すことが仰せ付けられる。
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『元弘日記并裏書』元弘四年七月【ママ】廿七日
七月【ママ】廿七日、護良親王勅勘。于馬場殿奉押籠。
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『元弘日記并裏書』元弘四年十月廿九日
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『關城書裏書』建武元年十一月十五日
同月【建武元年十一月】十五日、兵部卿護良親王被禁囚。仰尊氏配鎌倉。
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建武元年(一三三四)十一月二十七日、護良親王の勅勘が披露される。
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『東大寺文書』
建武元年十一月廿七日御披露。・・・・・
一、陰謀輩事、綸旨如此。有嫌疑之輩者、宜注進旨、同可被披露。
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『元弘日記并裏書』元弘四年七月【ママ】廿七日
七月【ママ】廿七日、護良親王勅勘。于馬場殿奉押籠。
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源朝臣顯氏[細川陸奧守]に護送されて鎌倉に遷され、二階堂の藥師堂谷(東光寺)に幽閉される。
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『梅松論』
十一月【建武元年】、親王をば細川陸奧守顯氏請取奉て關東へ御下向あり、思ひの外なる御旅の空、申もなか々々愚也。宮の御謀叛、眞實はゑい慮にてありしかども、御科を宮にゆづり給ひしかば、鎌倉へ御下向とぞ聞えし。宮は二階堂の藥師堂の谷に御座有けるが、「武家よりも君のうらめしく渡らせ給ふ」と御獨ごと有けるとぞ承はる。
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『大乘院日記目録』建武元年十一月三日
大唐宮【大塔宮】奉召取之於□間【鈴間】邊也。結城判官、伯耆守兩人承云々。伊豆國遠流云々。
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「中先代の亂」により源朝臣直義[足利]直義が鎌倉を脱出する際、その混亂の中、建武二年(一三三五)七月二十三日、藥師堂谷(東光寺)において殺害される。二十八歳。
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『關城書裏書』
今年(建武二)七月、信濃國凶徒蜂起、襲鎌倉。直義沒落、護良親王遇弑。
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『鎌倉大日記』建武二(乙亥)七月廿三日
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『常樂記』建武二年七月廿五【ママ】日
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『梅松論』
七月廿二日【建武二年】下御所左馬頭殿、鎌倉を立御向有し。同日、藥師堂谷の御所にをいて兵部卿親王を失ひ奉る。御痛はしさ申もなか々々をろかなり。
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・『梅松論・源威集』(新撰日本古典文庫 三)(矢代和夫・加美宏校注。現代思潮社、一九七五年八月)、六八頁。同二一四〜二一六頁、注一〇三・一〇四。
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『~皇正統記』後醍醐天皇
建武乙亥の秋の比ほひにし、高時が餘類謀叛をおこして鎌倉にいりぬ。直義は成良の親王を引つれ申れ參河の國までのがれにき。兵部卿護良の親王、ことありて鎌倉におはしましけるをば罪し申に及ばず失ひ申てけり。みだれの中なれど宿意をはたすにや有けん。
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『太平記』によると、護良親王を殺害したのは、淵邊伊賀守義博。
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『保暦間記』によると、護良親王の遺骸を取り收める人もなかったという。
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貞和三年(一三四七)七月二十三日、護良親王の十三回忌に當り、足利直義の命により佛事が修せられ、鎌倉東光寺に利生塔が造立される。
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明治二年(一八六九)七月十五日、護良親王を祭~とする鎌倉宮が創設される。
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明治六年(一八七三)六月九日、鎌倉宮が官幣中社に列される。
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