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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[撿子]
 
フレームなし


○ 撿子内親王
 
 藤原朝臣公廣[C水谷](藤原朝臣實秀の男子)の母。
『公卿補任』貞治六年 非參議 從三位「C水谷 藤公廣四十
 
【出自】
 未詳。
 撿子内親王の出自については、『尊卑分脈』によると藤原朝臣實秀・公廣には持明院統と所縁が深いことから、持明院統の内親王である可能性が高いと思われるが、判然としない。後考を俟つ。
┬ 藤原朝臣公兼 ─┬ 久明親王家女房「大納言」
│        │
│        ├ 藤原朝臣實秀
│        │   ├───── 藤原朝臣公廣
│        │ 撿子内親王
├ 藤原朝臣按子  │
│   ├────└ 藤原朝臣長嗣 ─┬「花園院帥局」
│ 藤原朝臣長雅     藤原長雅の ├「徽安門院春日」
│           子となる。 ├「廣義門院左衞門督」
│                 └「花園院按察二位」
├ 藤原朝臣公永 ─┬ 花園院の乳母
│        └ 延明門院の女房
└「法皇御乳母」
 
【經歴】
一三二七年(嘉暦三年)または一三二八年(嘉暦三年)、藤原朝臣實秀(ときに五十五〜五十八歳)との間に藤原朝臣公廣[C水谷]を産む。
 
配偶】
 藤原朝臣實秀
 一二七一年または一二七二年、生誕。
 弘安四年(一二八一)正月五日、從五位下に敍される。
 應長元年(一三一一)八月七日、從三位に敍される。
『公卿補任』延慶四年 非參議 從三位「藤實秀」
【尻付】八月七日叙。元右中將備前權介。
【袖書】正二位公兼男。母二位中將經家女。
弘安四正五從五位下。八正五從五上。十一二十侍從。正應二三十一正五下。四十二廿一右少將。六正五從四下。永仁四正五從四上。五十十五還任右少將。七三廿四正四下。嘉元四十一廿七右中將。延慶四三卅兼備前權介。
 正和二年(一三一三)十月十一日、彈正大弼に任じられる。
『公卿補任』正和二年 非參議 從三位「同【藤】實秀」
【尻付】十月十一日任彈正大弼。
 正和五年(一三一六)正月五日、正三位に敍される。四十五歳。
 正和五年(一三一六)十二月十四日、彈正大弼を止む。
『公卿補任』正和五年 非參議 從三位「藤實秀」
【尻付】彈正大弼。正月五日叙正三位。十二月十四日止大弼。
 文保二年(一三一八)二月十一日、參議となる。
 文保二年(一三一八)四月十四日、參議を辭す。四十七歳。
『公卿補任』文保二年 非參議 正三位「*同【藤】實秀」
【尻付】二月十一日下名次〔次や无〕任三木。
『公卿補任』文保二年 參議 正三位(【傍注】位顯實上)「藤實秀四十七
【尻付】二月十一日任。四月十四日辭。
『公卿補任』文保二年 前參議 正三位(【傍注】位有時上)「同【藤】實秀四十七
【尻付】四月十四日辭。五月四日本座。
 元弘二年(一三三二)正月五日、從二位に敍される。六十一歳。
『公卿補任』正慶元年 前參議 正三位「同【藤】實秀六十一
【尻付】正月五日叙從二位。
 元弘三年(正慶二年)(一三三三)五月十七日、正三位に復す。六十二歳。
『公卿補任』正慶二年 前參議 從二位「同【藤】實秀六十二
『公卿補任』正慶二年 前參議 正三位「同【藤】實秀」
【尻付】五月十七日詔復本位。
 建武三年(一三三六)八月十五日の光明院踐祚の後、從二位に復したと考えられる。六十六歳。
『公卿補任』延元元年 前參議 正三位「藤實秀」
『公卿補任』建武四年 前參議 從二位「藤實秀六十七
 暦應二年(一三三九)十一月二十五日、薨逝(死去に先立ち出家か)。六十九歳。
『公卿補任』暦應二年 前參議 從二位「*同【藤】實秀六十九
【尻付】十一月廿五日卒【ママ】。
 
【子女】
 藤原朝臣公廣[C水谷]
 一三二七年(嘉暦三年)または一三二八年(嘉暦三年)、生誕。
  ※『公卿補任』貞治六年等によると一三二八年生。
  ※『公卿補任』應安六年によると一三二五年生。
  ※『公卿補任』永和三年によると一三二七年生。
 貞治六年(一三六七)正月五日、從三位に敍される。
『公卿補任』貞治六年 非參議 從三位「C水谷 藤公廣四十
【尻付】正月五日叙。元左近中將。
【袖書】故入道前三木藤原朝臣實秀男。母撿子内親王。
暦應五年正月五日從五位下(宣光門院[當年]御給)。康永二年三月十九日侍從。同三年九月廿三日從五位上。十二月廿四日左近權少將。貞和五年正月五日正五位下。文和三年壬十月廿五日左近權中將。十一月十一日丹波介。同月十五日從四位上。延文三年四月十五日正四位下。
 應安元年(一三六八)八月十三日、參議となる。
『公卿補任』貞治七年 非參議 從三位「C水谷*同【藤】公廣四十一
【尻付】八月十三日任三木。
『公卿補任』貞治七年 參議 從三位(【傍注】位爲遠下)「C水谷 藤公廣四十一
【尻付】八月十三日任。
 應安二年(一三六九)三月三十日、駿河權守を兼任。
『公卿補任』應安二年 參議 從三位「C水谷 同【藤】公廣四十二
【尻付】三月卅日兼駿河權守。
 應安四年(一三七一)正月五日、正三位に敍される。
『公卿補任』應安四年 參議 從三位「C水谷 同【藤】公廣四十四
【尻付】駿河權守。正月五日叙正三位。
 應安六年(一三七三)十一月二十五日、參議を辭す。
『公卿補任』應安六年 參議 正三位「C水谷同【藤】公廣四十九【ママ】
【尻付】十一月廿五日辭退。
『公卿補任』應安六年 前參議 正三位(【傍注】位敦有下)「C水谷 藤公廣」
【尻付】十一月廿五日辭。
 永和三年(一三七七)六月十六日、薨逝。五十一歳。
『公卿補任』永和三年 前參議 正三位「C水谷*藤公廣」
【尻付】六月十六日薨(五十一)。


 
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公開日時: 2007.11.24.

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