具平親王
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『今鏡』「うたゝね」
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『二中歴』卷十二「詩人歴」親王
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『榮花物語』八「はつ花」
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| ※ |
『權記』長保六年二月十八日壬申
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『本朝皇胤紹運録』「具平親王」
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『歴代編年集成』十六「村上天皇」
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「麗景殿女御」 |
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應和四年(九六四)六月十九日、源保光(母方の伯父)の坊城宅において誕生。
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康保二年(九六五)八月十三日、親王宣下。二歳。
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康保三年(九六六)八月二十七日、着袴。三歳。
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康保四年(九六七)正月二十一日、巡給にあずかる。
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貞元二年(九七七)八月十一日、元服。十四歳。
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三品に敍される。 | |||||||||||
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兵部卿となる。 | |||||||||||
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永延元年(九八七)七月二十一日、右相撲司別當となる。時に兵部卿。
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正暦元年(九九〇)八月十日までに中務卿となる。
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正暦元年(九九〇)十二月四日、大江匡衡を召し、詩を賦させる。
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長保二年(一〇〇〇)十一月三十日、御修善結願。
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寛弘元年(一〇〇四)閏九月十八日、作文の會あり。
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寛弘四年(一〇〇七)四月二十五日、内裏詩宴に召され詩を賦す。[翌二十六日]、二品に敍される。四十四歳。
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寛弘五年(一〇〇八)十二月十七日、定奏元日奏賀侍從・荷前使等に重服のため不參。
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寛弘六年(一〇〇九)七月二十八日薨。四十六歳。時に二品行中務卿。
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寛弘六年(一〇〇九)八月五日、具平親王の喪により釋奠の宴を停止。
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寛弘六年(一〇〇九)八月十四日、薨奏。
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藤原朝臣頼成【藤原朝臣伊祐の子となる】 | ||
| ○ |
隆姫子女王/隆子女王【藤原朝臣頼通の室】 「高倉殿北政所」 | ||
| ○ |
【敦康親王の室。嫄子女王の母】 | ||
| ○ |
嫥子女王[伊勢齋宮]【のち藤原朝臣ヘ通の室】 | ||
| ○ |
「小女君」
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| □ |
「ます宮」 資定王 のち源朝臣師房【藤原朝臣頼通の養子】 | ||
| □ |
護忍 「桂御坊」 |
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幼少より賢智人に勝れ、慶滋保胤、橘正通を師として學問詩文に励んだ。後に具平親王は、慶滋保胤の死去を痛惜し、「贈心公(慶保胤)古調詩」(『本朝麗藻』卷下「佛事部」所收)を作詩した。 | |||||||||||||||||
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一條朝の詩壇の中心的存在で、具平親王の書閣に當代の學者詩人が會して詩を賦した。
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當代無比の博學多識を以て知られた。詩文のほか、和歌にも秀でており、陰陽道、醫道にも造詣が深かった。
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藤原公任と、柿本人麿と紀貫之の和歌の優劣論を鬪わせ、貫之より人麿がまさるとして公任を論破。この論爭を機縁として公任は『三十六人撰』を撰んだ、と傳えられる。
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佛典にも通曉しており、正暦二年二月二十九日、『弘決外典抄』を撰述した。
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花山法皇は、長保四年三月五日に播州書寫山圓ヘ寺を再訪した際に墨書で寫し取った性空上人の形像を巨勢廣貴に描かせ、具平親王が色紙の記を草し、それを藤原行成がC書したのを書寫山へ送り屆たという。具平親王は、性空上人に對面がないことを恨んで、詠詩を色紙の記に添えて送ったという。
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能書家として、その書は漢地に渡ったという。 | |||||||||||||||||
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篳篥・箏に巧みであった。 |
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詩作が『本朝麗藻』、『和漢朗詠集』、『本朝文粋』等に傳えられるが、詩文集は傳存していない。 | |||||||||||
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歌作は、『拾遺集』以下の勅撰集に四十一首が收められている。 家集は断簡のみが傳存。
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『弘決外典鈔』(弘決外典抄)(グケツゲテンセウ) 佛ヘ書。四卷十編。正暦二年(九九一)撰述。 唐の妙藥大師師湛然(七一一〜七八二)の著述『止觀輔行傳弘決』に引用された外典を抄録し、注解を加えた注釋書。
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『黄耆帖』 醫術書。
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『書寫山性空上人傳』(『朝野群載』所收)は、具平親王の撰とも傳えられる。 | |||||||||||
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『六帖』(『古今和歌六帖』)を具平親王の撰とする説があるが、撰者を兼明親王、源朝臣順とする説もあり、撰者は未詳。 | |||||||||||
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『眞字伊勢物語』(『伊勢物語』眞名本)は卷頭に「六條宮御撰」とあり、具平親王の撰と傳えられてきたが、本居宣長が『玉勝間』において具平親王の撰であることを否定している。 ※「真字伊勢物語」(奈良女子大学学術情報センター) https://www.nara-wu.ac.jp/aic/gdb/nwugdb/ise/html/k029/ |
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『稿本村上天皇實録』七七五〜七九九頁「皇子具平親王」 |
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『大日本史料』第二編之六、寛弘六年七月二十八日條 |
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川口久男『平安朝日本漢文學史の研究』下(明治書院、一九八八年十二月三訂版) |
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大曾根章介「具平親王考」(『國語と國文學』三十五巻十二号、一九五八年十二月。大曾根章介『日本漢文学論集』第二巻(汲古書院、一九九八年八月)に收録) |
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林雅彦「性空上人孜覚書 ── 書写山と帰依渇仰の人々 ──」(『学習院女子短期大学紀要』十一、一九七三年十二月、1〜26頁) |
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大曾根章介「具平親王の生涯(上)」(紫式部学会編『古代文学論叢 第十輯 源氏物語とその周辺の文学 研究と資料』武蔵野書院、一九八六年五月。大曾根章介『日本漢文学論集』第二巻(汲古書院、一九九八年八月)に收録) |
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大曾根章介「具平親王の生涯(下)」(和漢比較文学会編『和漢比較文学叢書12 源氏物語と漢文学』汲古書院、一九九三年九月。大曾根章介『日本漢文学論集』第二巻(汲古書院、一九九八年八月)に收録) |
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福家俊幸「紫式部の具平親王家出仕考」『中古文学論攷』七、一九八六年十月 |
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大曾根章介「ともひらしんのう 具平親王」(『國史大辭典』第十巻(吉川弘文館、平成元年(一九八九)九月第一版第一刷)、四三六頁) |
| 〇 |
川田康幸「『栄花物語』における具平親王像 ──その叙述の特徴」(『信州豊南女子短期大学紀要』九、一九九二年三月) |
| 〇 |
佐伯有清〔研究余録〕「「天平勝宝二年遣唐記」と具平親王」『日本歴史』第五七五号、一九九六年四月 |
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井上辰雄「後中書王の「贈心公古調詩」─寂心への敬慕─」(井上辰雄『慶滋保胤』(伊勢市、井上辰雄先生を偲ぶ会(皇學館大学 荊木美行研究室気付)、平成二十八年(一九九六)五月)三三〇〜三五一頁) |
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藍美喜子「紫式部と六条の宮・具平親王 ─史実と虚構の間─」(『甲子園短期大学紀要』第一六号、一九九八年三月、123〜133頁) https://www.jstage.jst.go.jp/article/koshient/16/0/16_123/_pdf |
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城ア陽子「具平親王撰『万葉御記』小考」『注釈史と考証』一、注釈考証学会、二〇〇九年十二月 |
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島田遼「具平親王「ゆきげのやま」詠についての考察」(『大学院研究年報 文学研究科編』第四七号、中央大学大学院研究年報編集委員会、二〇一八年二月、1021〜1036頁 https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/records/9233 |
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小原みと希「「具平親王集」の「女御殿」をめぐって」(『中央大學國文』第六十三号、中央大學國文學會、二〇二〇年三月、23〜38頁) https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/records/13247 |
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