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保安三年(一一二二)六月二十七日、生誕。
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『一代要記』戊集「第七十四鳥羽天皇」皇女「禧子」
齋宮【ママ】。保安三年六月二十七日誕生。同八月二日爲親王。同二十四日蒙准后宣旨。長承元年十一月二十五日卜定。十三。同二年十月十日薨。
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保安三年(一一二二)八月二日、親王となる。
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『一代要記』戊集「第七十四鳥羽天皇」皇女「禧子」
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保安三年(一一二二)八月十七日、五十日の儀。
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『御遊抄』御産御遊
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伏見宮記録文書 六十五「御産御五十日并御百日間女房打出色目同歌樂等事」
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大治三年(一一二八)四月十三日、一品に敍される。
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『中右記目録』大治三年四月十三日
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『十三代要略』鳥羽天皇 皇女「禧子内親王(母中宮璋子)」
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長承元年(一一三二)十一月二十五日までに、准三后となる。
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『中右記』長承元年十一月廿五日壬午
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准三后宣下の年月日につき、『十三代要略』、『一代要記』は、保安三年(一一二二)八月二十三日/二十四日と作す。
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『十三代要略』保安三年八月廿三日
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『一代要記』戊集「第七十四鳥羽天皇」皇女「禧子」
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長承元年(一一三二)十一月二十五日、賀茂齋院に卜定される。十一歳。
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『中右記』長承元年十一月廿五日壬午
今日院第一姫宮有齋院卜定事。・・・・・
・・・・・ 頭中將仰下云。祥子内親王【ママ】可令卜賀茂齋院者。・・・・・
齋院者、上皇第一姫宮。母待賢門院也。□□□□細【ママ】一品。有准后宣下也。御□□禧子(・・・・・)。
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長承二年(一一三三)四月十八日、齋院御禊。
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『中右記』長承二年四月十八日癸卯
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『長秋記』長承二年四月十八日癸卯
今日齋院東河祓入諸司。一品御所□□御所綾小路東洞院(長實卿家也)。上皇女院共有御幸于此處云々。・・・・・
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長承二年(一一三三)九月二日、賀茂齋院を退下。
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『中右記』長承二年九月二日
辰時許從院有召。是齋院御惱危急御者。馳參一本御書所。關白殿、中宮大夫、源大納言、按察大納言被祗候。以按察被仰云。齋院年來有御惱(寸白)。近日更發之上、又不例御也。去夜危急。只今頗落居給也。而可令退出給哉否條、人々可量申。但去七月自有夢想、令退給由也。其後成恐不入給~殿也。連々有恠異。又自可退出由被仰。又召家榮令占之處、占申云。令退給吉也。人々申云。令退給何事候哉。且又可令隨御在樣給也。又仰云。御在樣只令頗雖落居、凡御在樣本病寸白更發、憑少事也。然者早可令退出給也。但先有御祓。宮主奉仕。是先例也。次寄御車於西廓御出院。又還御、渡御盛重雷解小路南堀河東亭。院同渡御。女院又渡御。午時許歸家。齋院渡御之所又御祓。・・・・・ 齋院名禧子。元【ママ】一品准后也。
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『長秋記』長承二年九月二日癸丑
齋院禧子依病出一品御書所、盛重家渡御。大雨間、或人云。上皇御幸一品御書所、依齋院御惱重御也云々。仍以使者少納言許遣尋。使歸云。一定出宮給、可令渡盛重宅(堀河上手小路)也者。又人云。女院只今可有御幸云々。仍師仲令參女院云々。又渡御云々。秉燭之程參齋院御所。兩院同御坐。右兵衞督、殿上人十餘人祗候。皆布衣也。良久與武衞談。多齋院御事也。退出給後宜御坐。是顯證也云々。
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長承二年(一一三三)十月十日/十一日、薨逝。十二歳。
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『長秋記』長承二年九月廿五日丙子
兩院令參熊野御事。・・・・・ 一品宮【禧子内親王】萬死一生御坐。強不令參給有何事哉。
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『長秋記』長承二年九月廿九日庚辰
申刻參院。石藏覺仙律師壞御修法壇迯脱。依一品宮【禧子内親王】御心地重也。
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『山槐記』治承二年正月七日「彗星年々」
長承元年八月見北方。同廿七日見巽方。
同二年十月十日、一品積子内親王【ママ】薨。
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『十三代要略』長承二年十月十日
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『一代要記』戊集「第七十四鳥羽天皇」皇女「禧子」
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『今鏡』六「志賀のみそぎ」
女宮は一品宮とておはしましゝは禧子の内親王とて賀茂のいつきにたち給へりし。御なやみにて程なくいでたまひにき。長承二年十月十一日、御とし十二にてかくれさせ給にき。いつきのほどなくおりさせ給ふためしありとも、まだ本院にもつかせ給はでかくいでさせ給ふことはいとあさましきこととぞきこえ侍りし。
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