白川雅陳


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[雅陳]

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雅陳王 まさのぶ
 
 白川家當主
 
 もと源朝臣雅陳
 のち源朝臣雅陳
 
【法號】
 「
現光院
 
【法諱】
 「本譽
 
【官位】
 ~祇伯
  ※ 白川~祇伯(三八)
 從二位
 
【出自】
 雅朝王の養子。
 實は藤原朝臣永孝[高倉]の次男。
 
【母】
 藤原朝臣實條[三條西]の女子。
 
【經歴】
天正二十年(一五九二)三月二十日生。
源朝臣雅陳
元和五年(一六一九)九月二十六日、從五位下に敍され、昇殿を聽許され、侍從に任じられる。二十八歳。
元和七年(一六二一)正月五日、從五位上に敍される。三十歳。
雅陳王
元和八年(一六二二)十二月二十八日、~祇伯に任じられる。三十一歳。
寛永三年(一六二六)十一月二十三日、正五位下に敍される。三十五歳。
寛永五年(一六二八)正月五日、從四位下に敍される。三十七歳。
東洋文庫舊藏 廣橋家記録『寛永五年正月五日敍位小折紙』
申  從四位下

  正五位下雅陳王
壬生家文書『敍位除目関係文書』(宮内廳書陵部 壬293)[208] 「叙位簿冩 寛永五正六
・・・・・
從四位下
 式六
  雅陳王
・・・・・
 寛永五年正月六日
寛永六年(一六二九)正月十一日、左近衞權少將に任じられる。三十八歳。
寛永八年(一六三一)十一月六日、從四位上に敍される。四十歳。
寛永十年(一六三三)十二月十二日、左近衞中將に轉任。四十二歳。
寛永十一年(一六三四)正月六日、正四位下に敍される。四十三歳。
寛永十六年(一六三九)正月五日、從三位に敍される(伯はもとの如し。去十四年正月五日分)。四十八歳。
寛永十八年(一六四一)七月七日、後水尾院[仙洞]の御惱御祈のための内侍所臨時御~樂に際し、高倉永將と共に、堂上方衣紋に參仕。
『中原以永記』寛永十八年七月七日
内侍所臨時御~樂 ・・・・・
  ・・・・・
一、堂上方衣紋白川三位雅陳卿、右衞門佐永將朝臣等也。
・・・・・
寛永十九年(一六四二)正月三日、正三位に敍される。五十一歳。
源朝臣雅陳
寛永十九年(一六四二)三月十七日、~祇伯を辭す。五十一歳。
正保元年(一六四四)十二月二十九日、服解。
承應元年(一六五二)十月十二日、從二位に敍される(去年【慶安四年】正月五日分口宣案)。六十一歳。
寛文三年(一六六三)二月十六日、薨逝。七十二歳。
 
【配偶】
 ○「玉■院

   顯成王の女子。
 
【子女】
雅喬王
【僧】宥雅
 もと淨雅
 大僧正
 號「四王院」
 聖護院院家 積善院に入室。
 ◎『寺門傳法灌頂血脈』
源朝臣雅直 「品川左門」
 今川家の支流として家名を「品川」と稱し、寛永十七年(一六四〇)、前田利常に仕える。
 前田利常に殉死。
(女子)
 安藝廣島藩士 大久保權兵衞の妻。
「正壽院」
 藤原朝臣信房[鷹司]の室。
 寛永十三/十四年(一六三六/三七)、松平左兵衞督信平を生む。
 寛永十六年(一六三九)、慈受院瑞藤を生む。
 正保五年/慶安元年(一六四八)、「貞淑院」(本願寺光常室)を生む。
「C光院」
 もとC原朝臣相賢[舟橋]の室。
 のち藤原朝臣季光[大宮]の室。
成子女王
 後光明院即位式の褰帳女王
(女子)
 喜多見久太夫重勝の妻。
 喜多見茂兵衞重成の母。
 
【猶子】
【僧】亮海
 もと憲海
 法印定uの子。
 雅陳王の猶子。
 園城寺の北林院のち法泉院のち理覺院
 大僧正
 ◎『寺門傳法灌頂血脈』
 
【著述】
『雅陳王~事覺書以下雜々』
曾根研三『伯家記録考』二〇八〜二〇九頁
〔編纂〕『伯家五代記』
 
【關聯ホームページ】
国立歴史民俗博物館 (http://www.rekihaku.ac.jp/)
館蔵資料データベース (http://www.rekihaku.ac.jp/doc/t-db-index.html
廣橋家旧蔵記録文書典籍類 H-63-396 『寛永五年正月五日叙位小折紙』
 "14" (http://www.rekihaku.ac.jp/GAZO/data7/standard/2001HIR0213M/011.jpg
 
【文獻等】
『諸家傳』十一「白川」
曾根研三「改訂伯家家譜」(曾根研三『伯家記録考』附録)
曾根研三「増補訂正伯家系譜」(曾根研三『伯家記録考』附録)



 
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更新日時: 2021.09.30.
公開日時: 2017.02.23.


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