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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[雅子A]
 
フレームなし

工事中

○ 雅子内親王
 四品
 伊勢齋宮(二六)
 
【本頁目次】
稱號   經歴  
出自   配偶   逸事等
生母   子女   文獻等
 
 
【稱號】
 「西四條の前齋宮」
  ◎『後撰集』十三「戀歌」五
 
【出自】
 醍醐天皇の第十内親王
 
【生母】
 源朝臣周子
 「近江更衣」
 右大辨源朝臣唱の女子。
 
【經歴】
九一〇(延喜十年)生。
『一代要記』「天暦八−八月廿九日薨(四十五)」より逆算。
延喜十一年(九一一)十一月二十八日、内親王となる。
『日本紀略』延喜十一年十一月廿八日
・・・・・ 又以皇女敏子、雅子、普子等、爲内親王。
承平元年(九三一)十二月二十五日、伊勢齋宮に卜定される。
『日本紀略』承平元年十二月廿五日
卜定伊勢・賀茂齋王等。先帝第十雅子内親王伊勢卜食。同第七婉子内親王賀茂卜食。
『一代要記』「第六十一朱雀天皇」齋宮「雅子内親王」
醍醐第十女。承平元年十二月二十五日卜定。
『貴女鈔』齋宮「雅子内親王」
承平二年【ママ】卜定。延喜帝御女。
承平二年(九三二)六月十日、初齋院に入る。
承平二年(九三二)九月二十八日、野宮に入る。
承平三年(九三三)九月二十六日、群行。
承平五年(九三五)冬、生母源朝臣周子の喪に遭い、翌承平六年(九三六)三月七日、伊勢齋宮より退下。
『日本紀略』承平六年三月七日丙申
奉使於伊勢大神宮。告齋内親王雅子退出之由。是則遭母喪也。
承平六年(九三六)五月、還京。
『日本紀略』承平六年五月一日戊子
遣正親正有忠王於伊勢、迎齋内親王。
『玉類抄』所引『吏部王記』承平六年五月三日
伊世齋内親王【雅子】還京。蓋因母【源周子】喪也。路歴伊賀・大和□【国カ】破【被】還亭住三埼【崎】離宮。澤【擇カ】自【日カ】入京。
藤原朝臣師輔の室となる。
天暦八年(九五四)八月二十九日薨。四十五歳。
東山御文庫本『一代要記』「醍醐天皇」皇女「雅子内親王」
延木十一−十一月廿八日爲内親王(三歳【ママ】)。承平元−二月【ママ】爲伊世齋。同六−遭母喪。後配右大臣師輔、生太政大臣爲光。天暦八−八月廿九日薨(四十五)。
天暦八年(九五四)九月四日、薨奏。
『西宮記』十六「臨時四 喪服」所引『村上天皇御記』天暦八年九月四日丙子
奏雅子内親王薨状。・・・・・
 
【配偶】
 藤原朝臣師輔
 工事中
 
【子女】
 藤原朝臣高光
「多武峯少將」
藤原朝臣師輔の[八]男。
『尊卑分脈』攝家相續孫、師輔の子「高光」の左袖書
母雅子内親王。
『多武峯略記』(『新校群書類從』所收)
九條右大臣藤原師輔八男。母延喜帝皇女、前齊【齋】宮雅子内親王也。
應和元年(九六一)十二月五日、突然、横川寺で出家。二十三歳。奇行で名高い増賀上人の弟子となり、多武峯に入った。
 藤原朝臣爲光 
「恒コ公」
太政大臣
藤原朝臣師輔の[九]男。
『大鏡 裏書』
恒コ公。九條右大臣師輔公九男。母雅子内親王、醍醐天皇皇女。
『公卿補任』安和三年【九七〇】 參議 從四位上「藤爲光(二十九)」
右大臣師輔公九男。母延喜第九皇女(前齋宮四品雅子内親王)。
天慶五【九四二】ーー生 ・・・・・
『尊卑分脈』攝家相續孫、師輔の子「爲光」の左袖書
母雅子内親王。
 尋禪 
第十九世天台座主
寛和元年二月二十七日天台座主に任じられる。
永祚元年九月八日、天台座主を辭す。翌年沒。謚「智辨」
『尊卑分脈』攝家相續孫、師輔の子「(山)尋禪」
【右袖書】于時少僧都  (第十九)天台座主 權僧正。
【左袖書】母同爲光公。
【尻付】慈惠大僧正資 號飯室大和尚[妙香院] 正暦元【九九〇】二十七入滅(〓八) 諡號慈忍。
『天台座主記』尋禪
【要確認】九條右丞相第十男。母雅子内親王。延喜第十皇女也。
 (女子)「愛宮」 
源朝臣高明の室。
『尊卑分脈』攝家相續孫、師輔の子「女子」
【左袖書】母同爲光。
【尻付】左大臣高明室。愛。三君之後嫁之。
 
【源朝臣雅子について】
『類聚符宣抄』四「親王皇子賜姓」によると、延喜二十年(九二〇)十二月二十八日に「源朝臣雅子」が源朝臣を賜姓されたと見える。清水正健『皇族考證』第參巻や、『大日本史料』第一編之十、天暦八年八月二十九日「右大臣師輔室雅子内親王薨ゼラル」は、これを雅子内親王の經歴の中に含めている。
 しかし、この「源朝臣雅子」は雅子内親王ではなく、靖子内親王のことであると考えられる。靖子は、内親王となった年齡が、他の姉妹と比較して遲い。これは、靖子が初め賜姓されていたためと考えられる。また、『類聚符宣抄』における「源朝臣雅子」の年齡は、『一代要記』から逆算される靖子内親王の年齡と合致する(雅子内親王の年齡とは合致しない)。
 靖子内親王を見よ。
 
【逸事等】
工事中 角田文衛によると、既に齋宮卜定以前に、藤原朝臣師輔が密通していた、という。
藤原朝臣敦忠は、長らく雅子内親王に戀い焦がれ、ようやく逢うことが許された。ところが、雅子内親王は齋宮に卜定されてしまい、敦忠は雅子内親王と逢うことができなかった。
『大和物語』上
是もおなし中納言、齋宮のみこを年比よはひたてまつり給て、けふあすあひなんとしけるほとに、伊勢の齋宮の御うらにあひ給ひにけり。いふかひなく口おしく、おとこ思ひ給ふけり。さてよみて奉りたまひける。
 伊勢のうみ ちひろの濱にひろふとも 今はかひなく おもほゆるかな
となんありける。
『後撰集』十三「戀歌」五
西四條の前齋宮、また みこに ものし給ひし時、心さし有て思ふ事侍ける間に、齋宮にさたまり給ひにけれは、其あくるあしたに さか木【柳】の枝に 付【つけ】て さしおかせ侍りける。
                     敦忠朝臣
いせの海の 千尋のはまに ひろふとも 今は何てふ かひかあるへき
 
【文獻等】
清水正健『皇族考證』第參巻、一八一〜一八二頁、一八八頁
『大日本史料』第一編之十、九五〜九八頁、天暦八年八月二十九日「右大臣師輔室雅子内親王薨ゼラル」


 
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公開日時: 2004.03.31.
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