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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[嘉智]
 
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工事中

□「嘉智宮」
 
輪王寺門跡附弟
 
【法號】
 「淨妙院宮
 
【出自】
 靈元院の男子。
 
【母】
 「兵衛局」のち「藤三位」
 もと「おいつどの」「おいつ御れう人」
 藤原朝臣相尚[入江]の女子。
 寶永五年(一七〇八)、仙洞(靈元院)御所に仕える。
 寶永六年(一七〇九)十一月一日、「兵衛」と稱される。
 ※『稿本靈元天皇實録』 一〇六三頁の〔按〕に、「後宮藤原氏ノ稱呼ニ就キ、吹上小本竝ニ村上本本朝皇胤紹運録等ニ右兵衛局トアルハ謝リナルベシ、」とあり。
 のち「藤三位」と改められる。
 寶暦十三年八月十六日、卒去。
 東山眞如堂に葬られる。
 ◎『稿本靈元天皇實録』 一〇六三〜一〇六五頁
 
【法統】
 
公辨親王[毘沙門堂]の附弟
 
【經歴】
寶永六年(一七〇九)九月二十九日、誕生。
『院中番衆所日記』寶永六年九月廿九日
リ陰。巳上刻、若宮【嘉智宮】御誕生。
『基長卿記』寶永六年九月三十日
昨日、仙洞皇子【嘉智宮】御誕生。御母相尚朝臣【入江】女也。雖非女中列、從去年内侍御無人、仍而候洞中也。
寶永六年(一七〇九)十二月十三日、公辨親王の附弟となる。
正コ三年(一七一三)四月六日死亡。五歳。
『輝光卿記』正コ三年四月六日
仙洞宮嘉智、此間嘉智御疱瘡之御沙汰之處、不宜。
正コ三年(一七一三)四月十七日、発喪。
『輝光卿記』正コ三年四月十七日
嘉智宮薨去ニ付、自今晩到十九日晩廢朝。
清水正健『皇族考證』第伍巻三一六頁に、「右十七日薨去【※『輝光卿記』正徳三年四月十七日條】は、發喪の日ならむ、諸書六日とあるを實事とすべし」とある。
正コ三年(一七一三)四月十九日、盧山寺に葬られる。
『詰所系圖』、靈元院の子「皇子」
輪王寺、未得度  母兵衞局、後藤三位、入江民部權大輔相尚朝臣女  寶永六年九月晦日生。號「嘉智宮」。同十二月十三日爲公辨法親王附弟。正コ三年四月六日薨(五歳)。號淨妙院。同十九日葬于盧山寺。文化九年四月六日百回御忌。
『御系譜』
皇子(輪王寺。未得度)。母兵衛局、後藤三位、入江民部權大輔相尚朝臣女。寶永六年九月晦日生。號嘉智宮。十二月十三日爲公辨法親王附弟。正コ三年四月六日薨(五歳)。號淨妙院。・・・・・
類從本『皇胤紹運録』、靈元院の子「毘沙門堂皇子」
〔公辨法親王資。无入室。母右兵衞局、入江民部權少輔相尚朝臣女〕
寶永六年九月廿九日誕生。稱嘉智宮。同年十二月十三日爲公辨親王附弟。正コ三年四月六日薨(五歳)。九【ママ】日葬于盧山寺。號淨妙院宮。
『日光山門跡次第』
嘉智宮者、靈元院帝皇子、御母入江三位相尚卿女、號藤三位。寶永六年九月廿九日御降誕。正保【徳】三年四月六日薨。御年五。稱號淨妙院宮。
 
【文獻】
清水正健『皇族考證』第伍巻、三一五〜三一六頁
 


 
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更新日時: 2007.06.09.
公開日時: 2004.03.23.


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