源延光


前頁 「 延 [延久]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[延光]

フレームなし

工事中

延光王 のぶみつ
 のち源朝臣延光
 
【稱號】
 「
枇杷大納言
『榮花物語』卷第二「花山たつぬる中納言」
ひはの大納言のふみつ  延光  
 
【出自】
 醍醐天皇二世。
 代明親王の三男。
九條本・前田新寫一本『公卿補任』康保三年 參議 從四位上「同【源】延光四十」袖書
『歴代皇紀』二「圓融天皇」別當
中納言源延光 醍醐天皇孫。三品中務卿代明親王三男。母右大臣定方女。
 
【母】
 藤原朝臣定方の女子。
『公卿補任』安和三年、参議、従四位上「源保光」
母右大臣定方女(同重光延光等卿)。
 
【經歴】
延光王
延長五年(九二七)生。
『公卿補任』康保三年 參議 從四位上「同【源】延光四十」尻付
延長五年丁亥生。
天慶三年(九四〇)八月二十六日、加冠。十四歳。
前田家本『西宮記』巻十一甲「臨時」戊「親王元服」裏書
天慶三年八月廿六日吏部記【『吏部王記』】。因斎院公主【婉子内親王】請、詣故中務卿【代明親王】孫王冠笄所。常陸親王【式明】又會。依齋院御消息、無他客。余【重明親王】結女王【惠子歟】裙帶。常陸君加孫王【延光】冠。左權少將藤原朝臣朝忠理髪。戌剋行其事。・・・・・
本條に見える「故中務卿孫王」は、延光王を指すと考えられる。『稿本醍醐天皇實録』一二一四頁〔按〕に、「本條西宮記所引吏部王記ノ中務卿孫王、延光王ナルコト確證ナケレドモ、長子重光ハ是年既ニ十八歳ニシテ元慶元年從四位下ニ敍セラレ、該當シガタク、次子保光王亦十七歳ニシテ、十四歳ナル延光王最モ近カルベキカ、」とある。
天慶五年(九四二)四月二十五日、昇殿。
『本朝世紀』天慶五年四月廿五日戊寅
又、被定殿上人。中納言顯忠卿、權中納言同敦忠卿、參議源高明朝臣、前伊勢介藤原朝臣國紀、延光王、中務少丞藤原倫寧、已上六人殿上人。藏人左衛門少尉平善理。
『公卿補任』康保三年 參議 從四位上「同【源】延光四十」袖書には「天慶五四廿四昇殿」とある。
『貞信公記抄』天暦元年六月十五日
・・・・・ 又延光朝臣令昇殿事。
『日本紀略』天暦元年六月十五日戊辰
・・・・・ 又延光朝臣昇殿。
稿本醍醐天皇實録』一二一四頁〔按〕に、「本條ノ日次、公卿補任、二十四日ト爲スモ、姑ク本朝世紀ノ記載ニ從フ、」とある。
天慶九年(九四六)正月七日、「殿上の勞」により從四位下に敍される。二十歳。
『公卿補任』康保三年 參議 從四位上「同【源】延光四十」袖書
源朝臣延光
天慶九年(九四六)十一月または五月、源朝臣を賜姓される。
『公卿補任』康保三年 參議 從四位上「同【源】延光四十」袖書
九條本・前田新寫一本『公卿補任』康保三年 參議 從四位上「同【源】延光四十」袖書は五月と作す。
天暦二年(九四八)六月二十九日、侍從となる。
天暦八年(九五四)三月十四日、春宮權亮となる。
前田家本『西宮記』十二裏書「太上天皇皇祖母后崩」條所引『同記【九記】』【九暦】天暦八年五月十七日
帶刀手結。權亮延光々々【朝臣】以料物出廳令行。依凉【諒】闇也。
天暦九年(九五五)七月二十四日、内藏頭を兼任する(春宮權亮は元の如し)。
天コ三年(九五九)または天コ二年(九五八)の正月三十日、右兵衞督となる(藏人・春宮權亮に留任)。
『公卿補任』康保三年 參議 從四位上「同【源】延光四十」袖書
九條本・前田新寫一本『公卿補任』康保三年 參議 從四位上「同【源】延光四十」袖書は五月と作す。
『公卿補任』康保三年 參議 從四位上「同【源】延光四十」袖書(割注)に「頭亮如元」とあるが、當時、源延光は未だ藏人頭になっていないので、「頭」は誤りであろう。
天コ四年(九六〇)正月七日、從四位上に敍される。
天コ四年(九六〇)九月十六日、藏人頭となる。時に三十四歳。
天コ四年(九六〇)十月九日、右近衞中將に任じられる(頭中將となる)。
天コ五年(九六一)正月二十五日、備中權守を兼任。
應和三年(九六三)九月四日、伊豫權守を兼任。
康保二年(九六五)十月二十八日、致平親王元服の理髪を勤める。
『御遊抄』御元服「親王御元服加冠以下例」
致平親王、康保二十廿一、於C凉殿
 加冠(左兵衞督源兼明卿)
 理髪(頭中將源延光朝臣)
康保三年(九六六)九月十七日、參議となる(右中將は元の如し)。四十歳。
『公卿補任』康保三年 參議 從四位上「同【源】延光四十」袖書
中務卿代明親王男【九條本・前田新寫一本「三男」】。母。
天慶五四廿四昇殿。同九正七從四下(殿上勞。二十)。十一【九條本・前田新寫一本「五」】月日改姓賜源朝臣。天暦二六廿九侍從。同八三十四春宮權亮。同九七廿四兼内藏頭[【九條本・前田新寫一本】(權亮如元)]。天コ三【九條本・前田新寫一本「二」】年正卅右兵衞督(頭亮如元)。同四正七從四上。同九月十六日藏人頭(三十四)。十月九日右近權中將。同五正廿五兼備中權守。應和三九四兼伊與權守。康保三九十七三木(中將如元)。
康保四年(九六七)正月二十日、播磨權守を兼任。
『公卿補任』康保四年 參議 從四位上「源延光四十一」尻付
左【ママ】近權中將。正月廿日兼播磨權守。
安和元年(九六八)十一月十四日、兄の源重光との相替で伊勢權守(兼任)に轉じる。
『公卿補任』康保四年 參議 從四位上「源延光四十二」尻付
右中將。播磨權守。十一月−兼伊世權守。
『公卿補任』康保四年 參議 正四位下「源重光四十六」尻付
・・・・・ 十一月十四日兼播磨權守(與弟延光朝臣相替。止卿)。・・・・・
安和二年(九六九)八月十三日、春宮大夫を兼ねる。
『公卿補任』安和二年 參議 從四位上「源延光四十三」尻付
右中將。伊世[【九條本・前田新寫一本】權]守。八月十三日兼春宮大夫。九月廿一日正四位下。
安和二年(九六九)九月二十一日、正四位下に敍される。
『公卿補任』安和二年 參議 從四位上「源延光四十三」尻付
天祿元年(九七〇)八月五日、權中納言に任じられ(春宮大夫は元の如し)、從三位に敍される。
『公卿補任』安和三年 參議 正四位下「源延光」尻付
春宮大夫。右中將。伊世權守。任權中納言。
『公卿補任』安和三年 權中納言 從三位「源延光四十四」尻付
八月[【九條本・前田新寫一本】五日]任。[【九條本・前田新寫一本】上首五人]。大夫如元。今日從三位。
天祿三年(九七二)までに、左衞門督に任じられた(兼任)と考えられる。
天祿三年(九七二)正月三日、帶劔を勅授される。正月二十四日、中納言に轉じる(左衞門督・春宮大夫は元の如し)。
『公卿補任』天祿三年 權中納言 從三位「源延光」尻付
春宮大夫。左衞門督。正月三日勅授帶劔。廿四日轉正。
『公卿補任』天祿三年 中納言 從三位「源延光」尻付
正月廿四日轉。督大夫如元。
天祿四年(九七三)二月二十五日、檢非違使別當となる(兼)。
『公卿補任』天祿四年 中納言 從三位「源延光四十七」尻付
左衞門督。春宮大夫。二月廿五日爲使別當。
『公卿補任』天延二年 中納言 從三位「源延光」尻付
左衞門督。使別當。春宮大夫。
天延三年(九七五)正月二十六日、權大納言に轉任(春宮大夫は元の如し)。四十九歳。
『公卿補任』天延三年 中納言 從三位「同【源】延光」尻付
左衞門督。春宮大夫。任權大。
『公卿補任』天延三年 權大納言 從三位「源延光四十九」尻付
正月廿六日任[【九條本】(超重信)]。大夫如元。
天延四年(九七六)六月十四日、病により出家。
『日本紀略』貞元元年六月十四日己酉
權大納言源延光卿出家。依病也。
『公卿補任』天延四年 權大納言 從三位「×源延光五十」尻付
天延四年(九七六)六月十七日、薨去。五十歳。
『日本紀略』貞元元年六月十七日
入道權大納言源延光薨(年五十)。
『公卿補任』天延四年 權大納言 從三位「×源延光五十」尻付
春宮大夫。六月十四日依病入道。同十七日薨。號枇杷大納言。[【九條本】頭七年。參議五。中納言六。大納言二。別當二]。
 
【逸事等】
『二中歴』に、「名臣」として擧げられ、兄弟の源重光・源保光と共に「延喜時の三光」と稱された。
『二中歴』十三「名人歴」
名臣 枇杷大納言延光
 今案、保光・重光・延光(謂之延喜時之三光)
村上天皇に重用され、藏人頭にあった。ある日、延光は天皇に近侍していたが、厚遇が普段の通りにはならなかったので、延光は恐懼して、數日、出仕しなかった。すると、村上天皇は、俄かに延光を召して、「學生に藤原雅材というものがいる。頗る文才ありと聞く。卿はなにゆえ早く奏上しないのか」と言った。そこで、延光は、直ちに雅材を藏人となした。
『十訓抄』十「可庶幾才能事」
『十訓抄』・『古今著聞集』によると、村上天皇の崩御後、夢の中に故村上帝より相聞詩を賜わった、という。
『十訓抄』五「可撰朋友事」
村上帝かくれさせ給ひて後、枇杷大納言延光卿、あさゆふ戀しく思ひたてまつりて、御かたみの色を一生ぬぎ給はざりけり。ある夜の夢に御製をたまひける。
   月輪日本雖相別 温意C涼昔至誠 兜率最高歸内院 如今於彼語卿名
大納言、夢さめておどろきて、これに和したてまつる。
   再拜聖顔一寝程 恩言芳處奏中情 夢中如覺夢中事 雖盡一生豈空驚
 
【備考】
天慶六年(九四三)十月二十六日、賭弓負態あり、賭物を賜わる。
『北山抄』九「給懸物儀」
天慶六年十月廿六日、今日有弓場負態事。主上御東弓場。藏人頭師氏朝臣來。召之云々。无位延光王、中科所掌、敦敏進取懸物。召延光賜之。一拜、退出。
天暦三年(九四九)正月十一日、藤原實ョの大饗に際し、請客使を勤める。時に侍從。
『九條殿記』大臣家大饗 天暦三年正月十一日
午終、請客使侍從延光朝臣來、即參向。延光時々前駈、拜礼如常。・・・・・
『九暦抄』天暦三年正月十一日
午終、請客使侍從延光朝臣來、即參向。延光時時前駈、拜禮如常。・・・・・
天暦七年(九五三)の菊花宴に際し、侍從として勤仕。
『九條殿記』菊花宴 天暦五年十月五日(天皇探韻)
・・・・・ 傳參議等令借【催カ】仰、待【侍】從源朝臣延光第一出探之。
天暦七年(九五三)の殿上菊合に參列。
『九條殿記』殿上菊合 天暦七年十月廿八日
・・・・・ 延光朝臣 ・・・・・
藏人頭として、その動向が『村上天皇御記』に傳えられている。
『柱史抄』所引『村上天皇御記』應和元年【天コ五年】正月七日(『三代御記逸文集成』所收『御記纂』一二六頁)
左大臣【藤原實ョ】申送延光朝臣云。讚岐介子高【藤原】前任之内記可被賞由、昨日諸卿定申畢。而令執奏宜申此由。仰依公卿定令加敍。大臣令申云々。于高【藤原子高】位記今日可令作加位記。所司已退出。・・・・・
『柱史抄』所引『村上天皇御記』應和元年【天徳五年】正月八日(『三代御記逸文集成』所收『御記纂』一二六頁)
左大臣【藤原實ョ】令延光朝臣申云。今日可令作子高【藤原】位記云々。
『西宮記』十三「臨時一」裏書所引『村上天皇御記』應和三年閏十二月廿七日(『三代御記逸文集成』所收『御記纂』一六二頁)
令延光朝臣、仰右大將藤原朝臣【師尹】・藤原和子、可聽禁色宣旨。
『西宮記』十三「臨時一」裏書所引『村上天皇御記』康保二年正月十七日(『三代御記逸文集成』所收『御記纂』一七四頁)
藏人頭延光朝臣於左大臣【藤原實ョ】第仰。永ョ【藤原】・通理【源】・爲信【藤原】等爲藏人。朝光【藤原】・信輔【藤原】昇殿。・・・・・
『河海抄』「藤裏葉」及び『花鳥餘情』「桐壷巻」所引『村上天皇御記』康保二年七月廿一日(『三代御記逸文集成』所收『御記纂』一七八頁)
仰藏人頭延光朝臣云。以左馬助源滿仲、右近府生多公高(兄右近將監公用讓)、右近番長播磨貞理(父右馬屬陳平讓)等、并爲御鷹飼。
『西宮記』「十一月 新嘗祭」裏書所引『村上天皇御記』康保二年十一月十四日(『三代御記逸文集成』二四〇頁)
左大臣令延光朝臣【源】、奏國司等可預節會文。仰令召預。又令仰左馬助滿仲【源】・散位守代、遣肩【交】野未還。須令預見參之。・・・・・
天祿元年(九七〇)十二月三日、父母のために兩界曼荼羅を圖し、法華經を書寫した旨の願文を奉った。
彰考館本『願文集』七
『大日本史料』第一編之十三、二九九〜三〇〇頁、天祿元年雜載「諸家」
『朝野群載』二五六に見える。
 
工事中【配偶】
 『榮花物語』二「花山たつぬる中納言」に、「ひはの大納言のふみつのきたのかたは。故敦忠中納言の御むすめなり」とある。
 のち、藤原朝臣朝光の後妻となる。
 
工事中【子女】
 ○ 女子
   藤原朝臣済時の室。
   三條院の皇后 藤原〓子の母。
   小一條院(敦明親王)の外祖母。
 
工事中 【著述等】
『延光記』
『西宮記』十一「臨時戌」皇太子元服に、『延光記』『應和延光記』の應和三年二月廿八日辛亥條が引用されている。
東宮冠禮部類記』冷泉院に『延光記』が引用されているが、『大日本史料』第一編之十一(一九七頁)には「兼通公記」と注されている。
 
工事中 【文獻等】
『大日本史料』第一編之十五、四〇〇〜四二〇頁、貞元元年六月十四日「權大納言從三位源延光出家ス、尋デ、(十七日)薨ズ、」
稿本醍醐天皇實録』 一二一三〜一二一五頁「皇孫延光正」


 
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更新日時: 2012.08.11.
公開日時: 2010.03.31.


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