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延寳五年(一六七七)閏十二月五日生。
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貞享三年(一六八六)六月二十八日、入室。十歳。
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『基量卿記』貞享三年六月廿八日
早朝向松木中納言亭。今日從此亭友宮御方御入寺也。大聖寺殿方、近代不宜之間、於此度者、養コ院殿方へ御入寺(養コ院殿、大聖寺先住。後陽成院姫宮也)。
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入室年月日を貞享三年六月十八日と作すは誤り。
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貞享五年(一六八八)八月二十七日、得度。十二歳。紫衣を拜領する。
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享保十年(一七二五)七月六日晩、入寂。
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『盈春卿記』享保十年七月七日
昨晩大聖寺宮薨去被遊候。御行年四十九歳ニ御成之由也。
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『重直卿記』享保十年七月七日
夜ニ入廻状來。大聖寺宮薨去ニ付從今日至九日三ヶ日廢朝之由也。
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『尼門跡の言語生活の調査研究』所收『御由緒書 大聖寺寺門跡』
当寺第十八世勝光明院俊巌永俊【ママ】宮
霊元天皇ノ皇女。母儀ハ教法門院【ママ】、松ノ木家ノ出。延宝五年十二月五日降誕。貞享三年六月十八日入室。同五年八月二十七日十二歳ニシテ得度。紫衣ヲ拝領。当代ニモ屡々後水尾・霊元両帝ノ御幸アリ。享保十年七月五日薨。寿四十九。当代中元祿九年七月四日禁門内ノ中筋ノ地ヲ京極富貴宮(富貴宮ハ当代同腹ノ真弟也)ヘ進セラルルニ付、烏丸通元聖護院宮ノ旧跡ヲ代リ地トシテ拝領ス。即チ即今境内地ナリ。当時明正天皇ノ御令ニヨリ河原御殿ノ木石類ヲ拝領ス。
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『歴史のなかの皇女たち』「尼門跡表」大聖寺、同「皇女一覧表」は、沒年月日を享保十年七月七日と作す。
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清水正健『皇族考證』第伍巻、三二三頁に、
右盈春記に據るに、六日夜薨去なり、因て重直記に七日より九日まで三日廢朝と見ゆるを事實とすべし、御系譜に、五日又七日とあるは、倶に非なるべし、
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とある。
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享保十年(一七二五)七月十二日晩、歡喜寺に葬られる。
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清水正健『皇族考證』所引『御系譜』
皇女(大聖寺比丘尼永秀) 延寶五年閏十二月五日生。號重宮。後友宮。貞享三年六月廿八日入寺(十歳)。五年八月廿七日得度(十二歳)。享保十年七月五(【傍注】七イ)日薨(四十九歳)。號前景愛。特賜勝光明院俊巖尼大禪師。
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『詰所系圖』、靈元院の子「皇女」
大聖寺比丘尼永秀 母敬法門院 延寶五年閏十二月五日生。號重宮。後友宮。貞享三年六月廿八日入寺(十歳)。同五年八月二十七日得度(十二歳)。享保十年七月五(七イ)日薨(四十七【ママ】歳)。號前景【ママ】。受特賜勝光明院俊巖尼大禪師。同十二日葬于歡喜寺。
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類從本『皇胤紹運録』、靈元院の子「大聖寺皇女」
〔法名永秀。母敬法門院〕
延寶五年閏十二月五日誕生。稱重宮(後改友宮)。貞享三年六月廿八日入室(十歳)。同五年八月廿七日得度(十二)。享保十年七月七日薨(四十九)。十二日葬于大觀(勸【ママ】歟)喜寺。號勝光明院宮。
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