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萬治二年九月十八日、誕生。
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執次詰所本『御系譜』後西院の子「永悟法親王」袖書
母 權典侍局。岩倉中納言具起卿女。
萬治二年九月十八日生。號三宮。
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「三宮」
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「三宮」と稱される。
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賀子内親王の猶子となる。
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執次詰所本『御系譜』後西院の子「永悟法親王」尻付
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「三宮」 [圓滿院門跡附弟]
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圓滿院前大僧正常尊の附弟となる。
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貴平親王 [圓滿院門跡附弟]
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寛文九年(一六六九)九月二十九日、親王宣下。
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『重房宿禰記』寛文九年九月廿八日戊午
リ。朝之間陰。今日親王宣旨書儲之。上卿・辨・別當事尋申入右中辨方長之處、其旨書附給。
貴平
右少辨藤原朝臣資茂傳宣、權大納言藤原朝臣實維宣、奉勅、宜爲親王者。
寛文九年九月廿九日 修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史小槻宿禰重房奉
權大納言藤原朝臣定誠
右少辨藤原朝臣資茂傳宣、權大納言藤原朝臣實維宣、奉勅、件人宜爲貴平親王家別當者。
寛文九年九月廿九日 修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史小槻宿禰重房奉
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『重房宿禰記』寛文九年九月廿九日己未
リ。今日巳剋、圓滿院前大僧正常尊資新院【後西院】皇子【貴平】親王宣下。凡當院皇子入室之例、仁悟親王已後也。
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上卿コ大寺大納言實維 奉行職事甘露寺右中辨方長
參仕辨日野右少辨資茂 勅別當花山院大納言定誠卿
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『禁裏番衆所日記』寛文九年九月廿九日
圓滿院宮(御諱貴平)親王宣下(奉行方長)。上卿コ大寺大納言(實維)。辨資茂。別當花山院大納言(定誠)。
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寛文九年(一六六九)十月十日/十一日、圓滿院に入室。
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『親王家竝諸門跡系譜』圓滿院「永悟法親王」
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『諸寺院上申』圓滿院室歴代之内皇子皇族御相續分拔書「永悟法親王(常尊大僧正資)」
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『本朝皇胤紹運録』後西院の子「(圓滿院)永悟法親王」
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『稿本後西天皇實録』四〇一頁〔按〕
本條ノ日次、異載アレドモ、今姑ク諸寺院上申等ノ記載ニ從フ、
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永悟親王 [圓滿院門跡附弟]
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寛文九年(一六六九)十月十三日、圓滿院において得度。十一歳。
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『洞裏日次之記』寛文九年閏十月八日
圓滿院殿御弟子新宮、去月十三日就御得度爲御禮常尊參院。
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『親王家竝諸門跡系譜』圓滿院「永悟法親王」
十一歳
寛文九年十月十三日 得度(爲常尊大僧正資)。
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『諸寺院上申』圓滿院室歴代之内皇子皇族御相續分拔書「永悟法親王(常尊大僧正資)」
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永悟親王 [圓滿院門跡]
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園城寺長吏に補され、平等院を兼帶する。
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『諸寺院上申』圓滿院室歴代之内皇子皇族御相續分拔書「永悟法親王(常尊大僧正資)」
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延寶四年(一六七六)十一月一日、薨逝。十八歳。
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『御湯殿上日記』延寶四年十一月一日
はるゝ。ゑん滿院殿せんげ【遷化】にて、けふより三日はいてう【廢朝】也。
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『无上法院殿御日記』延寶四年十一月二日庚辰
新院之宮也。
はるゝ。ゑんまん院宮昨日入めち【入滅】。
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『季連宿禰記』延寶四年十一月三日辛巳
リ。去一日圓滿院宮(入道無品永悟親王。今年御十八才)入滅云々。彼宮者新院皇子也。
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『堯恕親王日記』延寶四年十一月三日
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『基熙公記』延寶四年十一月二日庚辰
新院三宮圓滿院宮入滅。日比重病云々。即答院悔申退出。
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『百一録』延寶四年黄鐘朔日
圓滿院宮(新院宮)永悟御薨逝。御行年十八歳。痢病云々。
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『中原章成日記』延寶四年十一月朔日
今日(酉刻)圓滿院宮永悟法親王御薨去(于時十八歳)。御悔之上使無之歟。
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『本朝皇胤紹運録』後西院の子「(圓滿院)永悟法親王」
延寶四年十一月一日薨(十八)。葬于三井寺。號法性院宮。
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『諸寺院上申』圓滿院室歴代之内皇子皇族御相續分拔書「永悟法親王(常尊大僧正資)」
延寶四年十一月一日 薨去。年十八。
号法性院宮。葬園城寺北谷。
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